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なぜ羽田には空港があるのか|門井慶喜「この東京のかたち」#26

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※本連載は第26回です。最初から読む方はこちら。

 東京国際空港。

 わが国でもっとも重要なこの飛行機の発着場の置かれたのが「羽田」という名の土地だなんて、ずいぶん出来すぎた話で、まるで空港のために地名を創作したように見えるけれども偶然である。羽田の地名がむかしむかし、少なくとも戦国期から存在していることは史料ではっきりしている。当時は飛行機などなかったのだ。

 地名の語源は、よくわからない。地形が鳥の羽のようだったからという説もあるけれど、私は、おなじ東京では「赤羽」や「赤羽橋」とおなじ事情ではないかと見ている。赤羽と赤羽橋はよく似た名だが、まったく別のところにある。

 前者は北区、後者は港区。江戸城の北と南。どちらの地でも古くから良質の土が出たという。この場合の「良質」とは人間にとって使いみちがあるという意味なので、具体的には、つぶの細かい粘土である。陶器や瓦などの材料に向く。

 私たち日本人は、こういう土を、特に、

 ――ハニ。

 と呼んだのである。漢字では「埴」。そう、埴輪(はにわ)のハニだ。

 初期の埴輪はほんとうに輪(円筒形)だった。そのハニの読みに、のちのち羽の字をあてたのが赤羽および赤羽橋なのである。きっと土の色も赤かったのにちがいない。羽田の地はもともと多摩川が海に出るときの三角州だから、それこそ田んぼのようにハニの大地がひろがっていたのではないか。

 あるいは、海面の下でもいい。「古事記」にも櫛八玉神(くしやたまのかみ)の伝説があるではないか。料理の上手なこの神様は鵜に化けて海底にもぐり、ハニを採って皿を焼きました、うんぬん。

 もっとも、土はどこでも出る。人の暮らしが成り立つには、産業というものが必要である。羽田のそれは、もちろんのこと、立地からして漁業でしかありようがなかった。戦国のころは人口もよほど少ない村だったろう。江戸時代には、のり(海苔)の養殖がさかんになった。

 遠浅の地形を生かしたのである。養殖といっても素朴なもので、潮の引いたとき木の枝をたくさん立てておくと、潮がみち、のりの胞子が無数にくっつく。育ったところを収穫する。

 この木の枝を「ひび」(篊)という。日比谷の地名はこれが語源という説がある。あそこも元来は似たような遠浅の地だったから、やはり何かの養殖がおこなわれていたのだろう。それが徳川家康の入府時に埋め立てられ、大名の屋敷地になったのは、これはもちろん江戸城が近かったから……というふうに補助線をひっぱると、羽田の事情もわかりやすくなる。のりの養殖に適するということは、要するに陸地化しやすいということなのである。

 羽田の海も、或る時期から――徳川後期から――急に陸地化した。ただし江戸城には遠いから大名屋敷にはならず、田んぼになった。これはほんとうのおコメの田んぼだ。ずいぶん穫れ高も上がったようだが、しかしながら明治になると一転して、羽田といえば行楽地をさすようになった。

 行楽の中心は、羽田穴守(あなもり)稲荷だった。

 穴守とは何だかおかしな名前だけれども、これは例の陸地化と関係がある。羽田のそれは基本的に、いわゆる埋め立てではなく、

 ――干拓。

 という工法によっておこなわれたのである。

 陸(おか)から堤防の線をのばして、海の一部をとりかこむ。なかの水を排出すれば田んぼになる、人が住める土地になる。

 ポルダーというのはオランダ人の専売品ではないのである。ただしもちろんこういう干拓地は、水没の危険と文字どおり「となり合わせ」だった。自然災害に遭ったり、維持管理をおこたったりで堤防に穴があいてしまうと海水でひたひたになってしまう。

 田んぼのコメは全滅し、民家は浸水し、復旧にたいへんな費用がかかるだろう。その穴あきを防ぐために神様の来臨を乞い、祈りをささげる場がつまり羽田穴守稲荷だったのである。

 神社そのものは徳川時代につくられたが、人気が出たのは、前述のとおり明治になってから。その門前には飲食店ができ、おみやげ屋がならび、温泉旅館まで営業していたというから大出世である。または大俗化である。戦後の箱根や熱海のような感じだろうか。どうしてこんなに人気が出たのか。

 いまはもう想像をたくましくするほかないが、ひとつには、この干拓地というもの自体のめずらしさがあったのではないか。一般に、この工法で成立した陸地は、外海(そとうみ)よりも海抜が低くなるからである。

 いわゆる「0メートル以下」である(埋め立てなら逆に高くなる)。ほんのわずかの差とはいえ、そうして堤防ごしとはいえ、足もとの地面よりも高いところに海面があるという風景はなかなか新鮮だったのではないか。それともうひとつ、ここへ来る客たちは、地理的に、ふだんは東京から横浜にかけての地域に住む人々が多かった。この地域は海に親しいように見えるけれども、じつは山や谷にこまかく刻まれていて、日常生活では意外と海は見えにくい。その点でも羽田は貴重な旅行先だったわけだ。

 いずれにしても彼らの主たる目的は、自然景観よりも、神社仏閣よりも、むしろ夜の飲食のたのしみにあったのだろう。とにかくこのようにして、羽田の地は、観光地として明治大正の世をすごした。

 それが昭和に入るとまた、べつのことで有名になる。そう、飛行機である。羽田の地には、昭和6年(1931)8月25日、日本初の民間専用飛行場が開場したのである。

 飛行場の名は「東京飛行場」。こんにちの羽田空港である。もちろんそれまでも飛行機を離発着させる場所はたとえば所沢にあったし、立川にもあったけれど、所沢のそれは陸軍専用だった。

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 立川のそれは陸軍と共用である上に都心から遠く、あまり便利ではなかった。それらの不自由をいっきに解決すべく、羽田の地はどっと税金を投じられたのである。東京飛行場は民間機専用ではあるけれど、飛行場そのものは国営だった。

 余談ながら飛行場完成後、最初に離陸したのは大連ゆきの機だった。いちおう旅客便だったようだが料金が高く、座席はがらがらで、この1番機の客席には鈴虫と松虫、合計6000匹が搭載されたという。

 大連には東京ふうのカフェー(女性の接待をともなう夜の酒場)があり、その店内に置くものだったとか。よほど日本人客の多い人気店だったのだろう。なお東京飛行場の建設と運営を担当したのは逓信省、いまは総務省と日本郵政グループに分割されている組織だった。やはり旅客よりも郵便や貨物のほうが想定されていたわけだ。

 ところでそもそも逓信省は、どうして羽田の地をえらんだのか。

 もちろん都心に近いというのが第一だが、いろいろ調べても明確な意志のようなものは見受けられない。要するに、

 ――たまたまそこに、16万坪の埋立地があった。

 というのが真実らしい。

 そんな都合のいい話があるかと私もこれを書いていて思うけれど、地図で見ると、この16万坪というのは、あの穴守稲荷の観光地にぴったり隣接している。地主がゆくゆくそれを拡張するつもりで埋め立てておいたのを(これは干拓ではないらしい)、ちょうどいいとばかり国に召し上げられたという話だろうか。国にしてみれば、飛行機というのは何としても墜落の恐れがある。海に突き出た羽田の地はおあつらえむきだったにちがいない。

 以上、順番に整理すると、羽田の歴史はこのようになる。

1 徳川初期にのりの養殖がはじまり、

2 徳川後期に新田開発で陸地がひろがり、

3 明治期に観光地化し、

4 昭和6年に飛行場が完成した。

 そのつど陸地は大きくなり、東京湾は小さくなったわけである。

 整理したら、おもしろいことに気づく。羽田はじつは、つねに時代の最先端を行っているのだ。

 まずは、のりの養殖である。養殖という漁業形態自体ももちろん新しいのだが、それ以上に、のりという食材が大あたりだった。

 とりわけ板状にして乾燥させた「干しのり」は、浅草のりと呼ばれ、江戸という大都市における大消費財になった。上等の品はよほど高く売れたにちがいない。ほとんど栄養はないのにである。徳川の世では平和がつづき、市民の生活水準が向上したことで、栄養よりも風味をたのしむという食のありかたが生まれたのだ。

 いうなれば、実よりも虚。これは明治期の観光にも通じる。観光というのは具体的なモノよりも、むしろ経験という無色無形の何かを得るために時間と金をかける行為にほかならないからである。おみやげは買うわけだが。

 まあ虚実うんぬんはともかくとして、観光とは、明治の流行の最先端だった。それはたしかである。むろん徳川時代にも、人々は、たとえば目黒不動へ参詣したわけだけれども、あれは基本的に日帰りである。市井に生きる人々が、自然景観と神社仏閣とに加えて、いわゆる「ふろ、めし、ねる」までをも娯楽にできるようになったのは近代特有の現象である。羽田はその目的地だった。物見遊山というやつは、日帰りと泊まりがけでは別ものなのである。

 昭和初期の飛行機はいうまでもない。結局のところ羽田というのは、のりにしろ、観光地にしろ、飛行場にしろ、都会の市民が、

「これがほしい」

 と言ったとき、

「さあどうぞ」

 とすぐに手を挙げることのできる、その即応性の高さによって流行にむかえられたように見える。反射神経のいい土地なのだ。いったいに都会というのは、特に都心は、田舎とくらべると時間のながれが圧倒的に速く、空間のゆとりが圧倒的に少ないものだけれども、その両方にいっぺんに答が出せるのが羽田だった。或る意味、羽田は「都会の田舎」なのである。

 21世紀の現在、そこにはもう空港しかない。

 上の箇条書きでいえば、4しか残っていない。1ののりの養殖はとっくのむかしに消えてしまったし、2の田んぼも宅地化された。

 3はある。その神社はいちおう京浜急行空港線「穴守稲荷」駅から歩いて数分のところに鎮座している。

 私は最近、そこを訪ねた。往年のにぎわいは見られなかった。境内はとても静かだったし、まわりは旅館もおみやげ屋もなく、ただの住宅地だった。それはそうだ。この神社はもともとここにはなかったのである。

 昭和20年(1945)、日本は戦争に負けた。

 進駐軍が来た。彼らがさっそく東京飛行場を接収し、拡張しようとしたのは当然だったが、その拡張のため、

 ――周辺の施設はとりこわす。住民は48時間以内に立ち退け。

 終戦後の混乱期とはいえ、時間のながれのあまりに速すぎる命令だった。これにより住民約3000人、1200世帯が土地を追われ、穴守稲荷のあったところは東京飛行場の、いや、米軍施設ハネダ・エアベースの敷地となった。観光どころか日本人は立ち入りが厳禁されてしまったのである。

 かろうじて移転した先が、つまり現在の場所なのだった。住所は大田区羽田だそうだが、その境内の静かさは、ひょっとすると、東京というよりもむしろ地方の鎮守に似ているかもしれないと思ったりした。

写真=iStock.com

(連載第26回)
★第27回を読む。

■門井慶喜(かどい・よしのぶ)
1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒業。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。08年『人形の部屋』、09年『パラドックス実践』で日本推理作家協会賞候補、15年『東京帝大叡古教授』、16年『家康、江戸を建てる』で直木賞候補になる。16年『マジカル・ヒストリー・ツアー』で日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、18年『銀河鉄道の父』で直木賞受賞。その他の著書に『定価のない本』『新選組の料理人』『屋根をかける人』『ゆけ、おりょう』『注文の多い美術館 美術探偵・神永美有』『こちら警視庁美術犯罪捜査班』『かまさん』『シュンスケ!』など。
新刊に、東京駅を建てた建築家・辰野金吾をモデルに、江戸から東京へと移り変わる首都の姿を描いた小説『東京、はじまる』。
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