見出し画像

ウクライナ残酷な物語 黒川祐次

なぜ悲劇は繰り返されるのか。/文・黒川祐次(元駐ウクライナ大使)

画像1

黒川氏

「これは大した国が隠れていたものだ」

ウクライナへのロシアの侵攻により、私が2002年に出版した本『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)が注目されるようになりました。侵攻までに刷られたのが3万部程度だったのが、今や15万部を超えています。正直なところ、20年前には、出版社もこれほど売れると思っていなかったでしょう。本書の企画は私からの売り込みだったのですが、日本では遠く離れたウクライナへの関心は低く、当初は心配だったのではないでしょうか。

私は駐ウクライナ大使として、1996年秋からの2年7カ月をかの地で過ごしました。その後も仕事や旅行で訪れてきました。

いろんな国に赴任しましたが、本にしたのはウクライナだけです。そこには強い動機がありました。

まず、「これは大した国が隠れていたものだ」という感動があったからです。ウクライナは1991年の独立まで長らくロシアやソ連の一部だったので、具体的にどんな国なのか、大半の日本人が知らずにいました。私自身も「穀倉地帯」だという程度の認識で着任しました。しかしその中へ入ってみると、ロシアなりソ連の名の元にあった人や物事が、実はウクライナに連なっているという発見がたくさんあったのです。

画像4

人でいうなら、小説家のニコライ・ゴーゴリは生粋のウクライナ人です。チャイコフスキーの祖父はウクライナのコサックで、ウクライナ民謡を元にした曲もあります。ドストエフスキーも先祖はウクライナの出と言われています。また免疫学の創始者や、ストレプトマイシンを発見して抗生物質という言葉を作ったのは、ウクライナ系ユダヤ人です。

他にも芸術家やスポーツ選手など枚挙に暇がないので、興味のある方は本書で確認していただければと思いますが、植民地状態にあった地で世界史に名を残すような人材がこれほど出たのが不思議なほどです。

面積でいえばウクライナは日本の1.6倍、ヨーロッパではロシアに次ぐ第2位と文字通りの「大国」ですし、農業だけでなく大工業地帯として、科学技術の水準も高いものがあります。こういう国が独立したからには、日本に紹介しないといけないと駆り立てられたのです。

もう一つ、ウクライナの情報が日本に伝わる際、大半がロシア経由なのも気になっていました。これはウクライナから見ると、バイアスのかかった情報になりかねません。

後に触れるように、ウクライナはこの危機を乗り越えれば、ヨーロッパ最大の親日国となる可能性を持った国でもあります。そこで、ウクライナとロシアの間で現在起きていることの背景を理解していただくため、この地の歴史を紐解いていきたいと思います。

初めはひとつの国だった

ウクライナの起源は、9世紀に誕生したキエフ・ルーシ公国です。この地には紀元前からスキタイ人をはじめとする様々な民族が現れては消えていきましたが、後にウクライナ人やロシア人となる東スラブ人が定着し、キエフ(キーウ)を首都とする国を形成したのです。

後世にも大きな影響を与えたのが、ヴォロディーミル(ロシア語名ウラジーミル)大公です。キリスト教を国教としたことから「聖公」と呼ばれます。

ウクライナのヴォロディーミル・ゼレンスキー大統領と、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が同名なのは、この聖公の名前がウクライナやロシアで今も人気だからです。女性の場合は、聖公の祖母で、後にウクライナとロシアで最初の聖人となった聖オリハ(ロシア語名オリガ)の名前が定番です。

今日のキエフは栗やマロニエの街路樹が彩る美しい街ですが、何と言っても印象的なのは、中世の寺院です。特に1037年に建てられたソフィア聖堂は、第二次世界大戦でキエフ中心部の85%が破壊された中で、よく無事に残ってくれたと思わずにはいられません。

聖公がキリスト教を国教とする際、ローマ・カトリックでなくギリシア正教を選んだことは、後世のロシアが西欧諸国やポーランドとの政治的、文化的断絶を生じることに繋がっていきます。

一時は中世ヨーロッパの大国となったキエフ・ルーシ公国ですが、1240年にモンゴルの侵攻を受けキエフが陥落、滅亡します。その後、現在のウクライナの地にできたハーリチ・ヴォルイニ公国も、14世紀半ばにはリトアニアとポーランドに併合されます。そこから17世紀半ばまでの約300年間、この地域は他国の支配下にありました。

一方で同時期、キエフ・ルーシ公国ではいわば分家筋だったモスクワが、大公国として台頭します。そして、もともと単一のルーシ民族だったものが、ウクライナ、ロシア、ベラルーシの三民族に分化。言語もウクライナ語、ロシア語、ベラルーシ語へと分かれていきました。

こうした歴史を巡り、ウクライナとロシアの見解の相違が出るのが、それぞれの国名についてです。

画像2

命を惜しまないコサック

ロシアというのは、ルーシをラテン化した名称です。ロシアとしては、キエフがモンゴルの侵攻によって陥落しても、モスクワ大公国として存続したロシアこそが、キエフ・ルーシ公国の正統な後継者だという認識に立っています。

一方のウクライナという名称ですが、ロシア史をベースとした学説では、もともと「辺境地帯」という意味だったとされてきました。要するに「ウクライナはロシアの辺境なんだから、本来俺らロシアの一部だ」というプーチン的な視点です。

ウクライナ側は、古い文献の用例を元に、この言葉には辺境という意味はなく、単に「土地」や「国」という意味だったという説をとっています。そもそも自分たちの誇りある土地や国を辺境と呼ぶとは考えにくいし、「お前らの一部ではない」という言い分なのです。

ウクライナという単語が特定の地域を指すようになったのは、16世紀から。コサックの台頭と時を同じくしています。

この地の人々は、モンゴルに侵攻されたり、リトアニアやポーランドによって農奴化されたりと、長く支配される側にありました。また、タタール人などによる奴隷狩りにもたびたび襲われ、肥沃な土地でありながら無人地帯が生じていました。

そこへ危険を顧みずに入った人々が、武装集団であるコサックになっていきます。

コサックは農奴の身分に耐えられず逃亡してきた者や、冒険心から加わった貴族や町民など、出自を問わない自治的な組織を作っていきました。自らの命を惜しまず、外敵との戦いによって力をつけていき、17世紀には政治・軍事勢力としての地位を築きます。周辺諸国からも一目置かれていました。

ちなみに、ウクライナ国歌「ウクライナはいまだ死なず」には、我らがコサックの氏族だと示す時だ、という詞があります。コサックによって国家に近い形を築いたという誇りや、彼らの勇敢さを受け継いできたのだという矜持が表れています。ウクライナ人はこの歌を歌うことによって、他国に蹂躙されてきた歴史まで背負って頑張るのでしょう。自国を死守しようとする現在の状況を見るにつけ、まるで今日のために作られたような国歌だと感じます。

画像3

プーチン思想の原点は

さて、コサックの中からウクライナのその後の運命を決定づける人物が現れます。ボフダン・フメリニツキーという男で、一時はコサック国家のようなものを形成しました。

続きをみるには

残り 4,390字 / 2画像
noteで展開する「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。同じ記事は、新サービス「文藝春秋 電子版」でお読みいただけます。新規登録なら「月あたり450円」から。詳しくはこちら→ https://bunshun.jp/bungeishunju

文藝春秋digital

¥900 / 月

月刊誌『文藝春秋』の特集記事を中心に配信。月額900円。(「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了します。今後は、新規登録なら「…

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください