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みずほ銀行「システム障害」は人災である——統合を邪魔する第一勧銀・富士銀・興銀の業、「One MIZUHO」は永遠の夢か

20年経っても消えない合併の怨念——。/文・森岡英樹(ジャーナリスト)

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同じメガバンクでも三菱UFJ銀行や三井住友銀行で大規模システム障害は起きたことがない。みずほ銀行だけシステム障害が繰り返される
▶︎合併前の勘定系システムは第一勧銀が富士通、富士銀が日本IBM、興銀が日立製作所であった。3行同様、システムを担う会社も主導権争いは熾烈を極めたが、議論の末、みずほのメインフレームである勘定系システムは富士通に決まる
▶︎今回故障したMINORIには、第一勧銀、富士銀、興銀3行の業が宿っているように見える

「三振バッターアウト」

2月28日、みずほ銀行が大規模なシステム障害を起こした。全国のATM(現金自動預け払い機)のうち約8割にあたる4300台が稼働しなくなり、キャッシュカードや預金通帳を取り出せなくなった顧客取引は累計で5244件に達した。その後も3月3日と7日に、一部のATMやインターネットバンキングが使用不能になったほか、11日夜から12日にかけて外国為替のシステムで生じた不具合で263件の送金手続きが滞るなど、ほぼ2週間で4回のシステム障害が続いた。

みずほ銀行は発足直後の2002年と東日本大震災直後の2011年にも大規模システム障害を起こしており、今回で3回目となる。10年前のシステム障害時には、就任2年余の西堀利頭取(当時、富士銀行出身)が辞任に追い込まれた。この人事に関与した金融庁幹部は、「もう一度、(システム障害を)起こしたら三振バッターアウトになりますよ」と因果を含めていただけに、今回のシステム障害は、みずほにとってまさに痛恨事だ。

銀行は巨大な社会インフラである。

「システム障害は社会問題に直結するだけに万全であって当たり前」(メガバンク幹部)

同じメガバンクでも三菱UFJ銀行や三井住友銀行で大規模システム障害は起きたことがない。

「みずほ銀行の藤原弘治頭取の辞任だけで事態が収拾できるか微妙な情勢だ」(金融庁関係者)とされる。

何故、みずほ銀行だけシステム障害が繰り返されるのか、という素朴な疑問が湧く。3月17日に謝罪会見した持株会社のみずほフィナンシャルグループ(FG)の坂井辰史社長は、「(新システムMINORI稼働から)2年が経過し、過信や気の緩み、体制の緩みがなかったか見ていく」と述べたが、原因はより深いところにあるのではないか。

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みずほ誕生の舞台裏

NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公で、「日本株式会社」の生みの親である渋沢栄一が明治6年(1873)に総監役として設立したのが、みずほ銀行の前身のひとつ第一国立銀行(後の第一銀行)である。日本初の銀行であり、渋沢は後に頭取に就き、公益に資する民間取引を軸に据えた商業銀行として発展させた。そして戦後、高度成長期の最中の1971年、第一銀行は日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となり、日本一の資産規模を誇るトップバンクに躍り出た。

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渋沢栄一

その第一勧業銀行と90年代末に急接近したのが富士銀行だった。

「第一勧業銀行は規模ナンバーワンだったが、人材はやや落ちるといわれた。人材、ブランド、収益力、いずれもナンバーワンだったのが富士だった」

富士銀行OBは今でもそう言って胸を張る。事実、バブル崩壊前の1980年代まで都銀の雄は富士銀行というのが金融村の共通認識だった。富士銀行、安田生命、安田火災海上、安田信託銀行を中核とする芙蓉グループは、安田善次郎が興した安田財閥がルーツ。なかでも富士銀行は芙蓉グループの頂点にいた。

「芙蓉の花を、萼(がく)を上にして置けば富士の形になる。富士銀行こそが芙蓉グループの長男だという証といわれた」(富士銀行OB)

だが、バブル崩壊後はともに不良債権処理に苦しみ、再編に活路を見出そうとしていた。そこに割り込んで来たのが日本興業銀行だ。

1900年、明治の殖産興業を支える特殊銀行として設立された興銀は、「工業の中央銀行」と称され、重厚長大企業への長期資金の供給を行い、日本の高度成長を支えた。国策銀行ナンバーワンだったが、すでに長期信用銀行という枠組みは制度的に行き詰まっていた。1998年に日本長期信用銀行、日本債券信用銀行が相次いで倒れ、次は日本興業銀行の番かと市場の圧力も高まりつつあった。

そこで興銀の西村正雄頭取(当時)は、故安倍晋太郎氏の異父弟という政治的な力も駆使して第一勧銀の杉田力之頭取、富士銀の山本恵朗頭取に統合を持ち掛けた。

「3行が一緒になれば日本一、いや世界一の銀行が創れる」

というのが西村の殺し文句だった。

興銀マンは「天下国家を論じる」のが伝統だ。金儲けより国家のため、そして自らの立身出世のため。東大法学部出身者が多く、霞が関官僚に似て権力志向も強かった。

だが、高度成長期を支えた興銀も、バブル崩壊でその終焉は決定的なものとなった。新たな貸出先を見いだせず、杜撰な貸し付けで不良債権を築き上げ、その重みに押しつぶされる寸前だった。活路を見出すべく、野村証券と合弁会社を設立するなど業務提携に動くが、野村証券では資本の供給は望めず、興銀を支えるには力不足であった。

興銀内部では次善の策として複数の再編シナリオが創られていたが、その中から浮上したのが、政府系金融機関である日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)との合併案、もうひとつが第一勧銀と富士銀の統合に合流する案であった。そして西村頭取は後者を選び、1999年夏には、みずほ誕生の立役者となる。

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システムは主導権争いの映し鏡

統合の第一報が流れた時、折しも筆者は興銀の某部長と会っていた。そこに秘書から統合を知らせるメモが入った。それを見た某部長が、「うちの西村は興銀という無形固定資産をブランド力と政治力を生かして見事に売り抜けた」と語ったことが忘れられない。

みずほ誕生は、一面では興銀救済の枠組みであったことは興銀マンが一番よくわかっていた。

みずほという名称は、万葉集などに見られる「葦原の瑞穂の国」から取られている。今回問題を起こしたシステムの名称MINORIもこれにちなむ。日本そのものを表象する銀行という自負を示している。

実際、みずほ銀行は上場企業の約7割と取引を持ち、約2400万の個人口座を誇る巨大銀行だ。

資産規模トップの第一勧銀、実質的にトッバンクだった富士銀、天下国家を体現する興銀の3行が統合したため、広範な営業基盤は当然であるが、それぞれ頂点を自負する3行が一緒になったことで、皮肉にも内部の主導権争いは、みずほの宿痾となっていく。

3行の統合は当初、持株会社であるみずほホールディングス傘下に、第一勧銀、富士銀、興銀の3行がぶら下がる形態が採られた。

歴史も企業文化も規模も異なる大手銀行、しかも3行が統合することは容易なことではない。

「行内で使われる用語さえ違っていた」(みずほ銀行OB)ため、時間をかけて融和策が取られることになった。そんな中、喫緊の課題として当初から持ち上がっていたのがシステム統合である。

銀行は装置産業だ。3行のシステムが併存したままでは、コスト面を含め統合効果は望めない。だが、具体的にどの銀行のシステムを中核に据えるかは難題であった。

合併前の勘定系システムは第一勧銀が富士通、富士銀が日本IBM、興銀が日立製作所であった。3行同様、システムを担う会社も主導権争いは熾烈を極めた。メガバンクのメインフレームから外されることになれば、収益に与える影響は甚大となるためだ。

「都銀のシステム構築は、最先端の技術開発という側面もあり、極論すれば都銀からの収益はゼロでも構わない。都銀の契約さえ取れれば、システムやノウハウを地銀に販売して収益を上げることができた」(コンピュータメーカーの金融営業担当者)

いずれの銀行のコンピュータメーカーが勘定系システムを握るかは、銀行の主導権争いの映し鏡となるとみられた。議論の末、みずほのメインフレームである勘定系システムは富士通に決まる。第一勧銀を法的な存続会社としてみずほ銀行が発足したことも大きいが、当時は第一勧銀出身者の発言力が大きかった。これに加えて背景には政治的な配慮が働いたとされる。

「経産省さんが富士通を強く推されていたことも大きかった」(みずほ銀行OB)

「企業風土に問題がある」

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