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司馬遼太郎『坂の上の雲』大講義 ビジネスマン必須の“最高の共通言語”【片山杜秀×佐藤優】

「エリート」と「大衆」が分断された今こそ、世代を超えて読み継ぐべき「国民文学」。/片山杜秀(慶應義塾大学教授)×佐藤優(作家・元外務省主任分析官)

<この記事のポイント>
▶︎連載が開始されたのは1968年。右肩上がりの時代に、多くの読者は徐々に“成り上がっていく”自分を重ね合わせて読んだ
▶︎司馬遼太郎はとにかく「動いているもの」が好きで、「組織」とか「システム」には全く興味を示さなかった
▶︎『坂の上の雲』は世代間のギャップを埋める“最高の共通言語”になるかもしれない

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片山氏(左)と佐藤氏(右)

新聞連載は「明治100年」の年に始まった

佐藤 司馬遼太郎の代表作『坂の上の雲』をいま読み直すことで何が見えてくるか。この作業をぜひ片山さんと一緒にやってみたいと思っていました。

片山 ワクワクするような共同作業にお誘いいただき、誠にありがとうございます。

佐藤 この作品は、現在、文春文庫(全8巻)で読めますが、もともと1968(昭和43)年4月から約4年半にわたって、『サンケイ新聞』夕刊に連載されたものです。新聞連載と並行して、単行本化(全6巻)も、連載開始翌年から始まり、すぐに評判になりました。

片山 「明治維新」(1868年)からちょうど100年の年で、まさに「明治100年記念」として始まった大型連載でした。連合艦隊司令長官・東郷平八郎の作戦参謀として「日本海海戦」を戦う、最も重要な主人公、秋山真之(さねゆき)も、「明治維新」の年に生まれています。

佐藤 その秋山真之のほかに、日本陸軍の騎兵を育成し、日露戦争でコサック騎兵を打ち破った真之の兄・秋山好古(よしふる)。

真之の幼友達で、「写生文」を唱え、また夏目漱石の親友として、「近代日本文学」の誕生に多大な貢献をした正岡子規。

主題は「日露戦争」ですが、松山から出た3人の主人公の成長を通して、司馬さんは、「明治日本」の発展を描いています。

片山 「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」という印象的な書き出しで始まり、文庫版の巻構成で言えば、第1巻で「3人がそれぞれ陸軍、海軍、文学という道に進むまで」、第2巻で「日清戦争」、第3巻で「子規の死と日露開戦」、第4巻~第8巻で「日露戦争」(旅順総攻撃、二〇三高地、奉天会戦、日本海海戦)を描いていきます。

坂の上の雲 登場人物

(左から)秋山真之、秋山好古、正岡子規

「明治100年」と「1968年」

佐藤 司馬さんは、明治維新から日露戦争までの近代日本の“朗らかさ”を描きたかったわけですが、その動機としては、何よりも「昭和の戦争」の強烈な体験があったのでしょうね。

片山 連載開始の時点で「敗戦」からまだ23年しか経っていません。

佐藤 それと「明治」も「日露戦争」も、これが書かれた当時は、おそらく我々が思っている以上にはるかに“近い”存在だったんでしょう。

片山 実際、祖父の世代には、まだ多くの日露戦争従軍者が存命だったはずですから。

佐藤 連載開始が「明治100年」であると同時に「1968年」なのも面白いですね。「パリの5月革命」「プラハの春」を始め“世界的な大動乱の年”です。

ただ「1968年」は「学生運動」を象徴する年ですが、大部分の日本人にとっては、何よりも「高度経済成長」の時代でした。

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東大安田講堂占拠事件(1968年)

片山 社会の流動性が極度に高まって、日本人の生活が急速に変わっていった時期です。戦国時代にしろ、幕末維新にしろ、司馬さんは、とにかく“動乱期のロマン”を描くのが好き。そこが“右肩上がり”の時代にマッチしたんですね。

佐藤 企業経営者などは、徐々に“成り上がっていく”自分と重ね合わせながら読んで、気分を高揚させたんでしょう。

片山 まだ出世できていないサラリーマンにしても、登場人物たちに“将来の自分の姿”を託して、気持ちを奮い立たせることができた。

佐藤 「努力はだいたい報われる」と。

片山 そこは、同じ大衆作家でも、松本清張では味わえないところですね。むしろ“組織”のなかで“個人”が無慈悲に殺されるといった話が多いですから。

佐藤 片山さんは、何歳頃に読まれましたか。

片山 小学生ですね。

佐藤 それは早い。

片山 司馬遼太郎は、小学生のうちに読破しました。今はただのバカですが、その頃は「神童」と呼ばれていたんです(笑)。

とにかく単行本化が完結してからそんなに経っていなかったはずです。叔父が読み終わったものをもらいました。この間、神田の古本屋街を歩いていたら、久しぶりに単行本版を見つけたので、懐かしくて思わず1セット買ってしまいました。

「国民文学」として読まれてきた

佐藤 私もやはり父が読み終わった本をもらいました。私の父は銀行の技術職でした。その叔父様はどんなお仕事でしたか。

片山 町の不動産屋です。でもそういう“中間層”が、「司馬遼太郎の話題作だから読まなければ」と、ある種の“教養”として読んでたんですね。まさに「国民文学」として読まれていた。

佐藤 片山さんのように、私も大学で教える機会があるのですが、ぜひ今の若い人にも読んでもらいたい。ただ以前と比べて読まれなくなってしまいました。

片山 司馬遼太郎さえ読まれなくなったのは、まさに“メディアの衰退”です。

今のメディア状況では、どんな手練れの作家がいくら面白く書いたって、なかなか読まれない。スマホにしろ、YouTubeにしろ、ゲームにしろ、画(え)があったり、動いたり、声が出てきたりするものに、活字が対抗できない。

かつては“簡単には触れられない世界”に“飢え”を感じて、活字で必死で読んだ。下品だけど分かりやすい例で言えば、これだけビジュアルで性的なものが氾濫していれば、皆が必死に読んでいた川上宗薫とか富島健夫とか宇能鴻一郎の官能小説も、まったく読まれなくなる(笑)。

佐藤 フランス書院などの最近の官能小説がとても暴力的で反社会的な傾向が強いのも、逆に映像化できないような極端なものだけが、文字の世界に残っている、ということですね。

それで「なぜ『坂の上の雲』を読まなければいけないのか」という若い学生や編集者には、まずは半ば冗談で、「出世のためだ。司馬遼太郎は、年寄り世代と会話する時にとても使えるツールなんだ」と諭しています(笑)。

片山 50代以上の多くは、きっと読んでいるでしょうからね。

佐藤 もうちょっと真面目に言えば、「国民文学」というのは、「さまざまな職業や階層の人々」という“ヨコ”の広がりと「世代を超えて」という“タテ”の広がりを持つもの。今はこういうメディア状況ですから、“若い人に読み継がれる”ための努力や工夫がもっとあっていいと思うんです。

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坂の上の“雲”

佐藤 例えば、『坂の上の雲』の「雲」は“白い雲”のことでしょう。ところが、今の若い人は“黒い雨雲”と思ってしまうかもしれない。モクモクした積乱雲で、「ゲリラ雷雨が来そうだから、急いで家に帰らなければ」と(笑)。

片山 『坂の上の雲』というのは“青雲”とか“青雲の志”という言葉を皆が知っていることを前提にしたタイトルですね。

佐藤 故郷の松山から飛び出して、学問をするために上京した好古、真之、子規の3人を突き動かしていたのは、まさに“青雲の志”です。

片山 連載当時人気があった漫画『巨人の星』の主人公、星飛雄馬が通っていたのも、「青雲高校」。“青雲”には、そういう「夢を実現したい」とか「立身出世」の“志”が込められている。

「明治」のように、「高度成長期」も、そうした“向上心”とか“野心”を皆が当たり前のように持っていて、他人が努力していたら、皆で「頑張れよー」と応援するような時代ですね。

佐藤 今だと同じ“競争”でも、「あいつが出世するのだけは許せない!」といった、「妬み」「僻み」「怨み」の三拍子が揃った『半沢直樹』の世界(笑)。

あるいは、それも実はひと世代前の「昭和」の話で、若い人はもっと白けているのかもしれません。

それを象徴しているのが、『東京タラレバ娘』という漫画原作のドラマで、アラサー女性の登場人物たちは、高い理想を掲げつつも、仕事はおろか、結婚もできない。かといって、不倫もダメ。それは「30歳を過ぎたら生活や人生がどうなるか分からない」という不安を抱いているからです。いわば“生活保守主義”。

片山 バブル以降の不況のなかで育った今の若い人たちの多くが、バイトや非正規で働いていますが、当初はそれが、前の世代とは違った「会社に縛られない生活」と喧伝されていました。ところが、もはやそれも「騙されていた」と気づいているんでしょう。「自由だ」と言われていたのは、実は「捨てられているのだ」と。それで“夢よりも用心”“不自由でも安全”ということで、「身を守る術」ばかりを発達させる。

明治維新から150年を経たいま、皮肉なことに、司馬さんが描いたのとは、ほぼ正反対の世界に至ってしまいました。

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「冷戦構造」にうまく嵌った

佐藤 作品の時代背景について、もう一つ付け加えると、「日露戦争」という題材が、当時の「冷戦構造」にうまく嵌ったのではないでしょうか。「情報」や「交流」が遮断されているがゆえの“不気味さ”において、同時代の「ソ連の脅威」と、明治日本にとっての「ロシアの脅威」は通じるものがあります。

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