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山崎豊子と文藝春秋 『大地の子』編集者の前で日本舞踊 「取材には二つあるの」。自称「作家馬鹿」の武器 平尾隆弘(文藝春秋元社長) 創刊100周年記念企画

文・平尾隆弘(文藝春秋元社長)

沖縄と戦争孤児

2022年は、沖縄返還(5月)、日中国交回復(9月)から50年になる。

山崎豊子が「文藝春秋」に連載した小説『大地の子』『運命の人』は、いみじくもこの2つのイッシューを背景にしている。「戦後の終り」のごとく喧伝された沖縄返還と日中国交回復に、鋭い疑問符をつきつけたのが、この2作品であった。以下、担当編集者として、連載当時の見聞を書かせていただく。取材等で私よりはるかに苦労した編集者(中井勝、高田直、小田慶郎の諸氏)がいるのだが、両作でデスク役を務めた私が右総代ということでご容赦願いたい。

「文藝春秋」での連載は『大地の子』が先。主人公・陸一心ルーイーシンこと松本勝男は敗戦直後の満洲で祖父と母を喪い、父と妹とは生き別れになる。多くの試練にさらされるが、やがて製鉄所建設という日中共同のプロジェクトに参加する。「子は党と国家を担い、実の父は日本企業を担う」形で父子再会を果たすのである。

山崎先生は決して「残留孤児」という言葉を使わなかった。「残留」の語には本人の意思が感じられる。そんなアホな。望んでそうなったわけではないと、必ず「戦争孤児」と表記した。

作中、戦争孤児のひとりはこう語っている。

《「私たちは、二度、日本政府から捨てられました。一度は祖父や父の代に、ていのいい棄民として、ソ連国境近くの開拓団へ送り出され、敗戦時には、関東軍に置去りにされて、捨てられました。それから三十余年経って、その子、或いは孫の私たちが、豊かな日本へ帰って来たにもかかわらず、今また、三度、見捨てられようとしているのです」》

『運命の人』には次のような叙述が繰り返される。

《戦時中、日本で唯一、地上戦が行われ、4人に1人が戦死したと云われている沖縄は、戦後も犠牲を強いられた。サンフランシスコ条約で日本本土と切り離され、米軍統治下に置かれると、米ソ冷戦を背景に米軍が沖縄の基地化を進めるため、1953年土地収用令を公布して多くの住民の土地を問答無用で取り上げた。》《日本全体のうちの0.6パーセントに過ぎない面積に、米軍基地の75パーセントが集中している異常な状態が、祖国復帰後13年経っている今なお続いている》

沖縄と戦争孤児とは同類ではないか。戦中、戦後、そして今もなお、本土に見捨てられること3度。両者の納得しうる解決がない限り、戦後は終わっていない。終わらせてはいけない。それが戦中派作家、山崎豊子の思いであった。

右から著者、山崎、野上、高田 トリム前

読者賞授賞式にて
(右から筆者、山崎氏、野上氏、高田氏)

悪役に濁点をつける

最初に堺市浜寺にある山崎邸を訪問したのは1987年の4月だった。同行は社長と編集長。前月から連載が始まった『大地の子』の新しい担当編集者としての御挨拶である。

冒頭から打ち解けた雰囲気になったのは、名刺交換でのやり取りが大きい。名刺を手渡して先生は、「私はヤマサキやからね、濁点をつけたらあかん。ヤマザキやと悪役になってしまうもん」と言われる。意味が分からず怪訝な顔をしていると、「私は悪役には濁点をつけることにしてるのよ」と続けられた。

「なーるほど、そういえば財前五郎(『白い巨塔』)はずいぶん濁点がありますね」

「そや。迫力あるやろ」

「怪獣にも濁点が! ゴジラなんか1回聞いたら忘れられません」

「(私の名刺を見ながら)ヒラオさんは……タカヒロか、澄んだ名前やないの」

「光栄です。しかし先生、ブンゲイシュンジュウは結構濁ってますね、シンチョウシャは濁点がないのに」と言うと「ケケケッ」という感じで笑われた。

財前五郎の「財前」は、小説『女系家族』映画化の折のプロデューサーの苗字だった(名前は五郎ではない)。魅かれるものがあり、「小説でいつか使わせてね」と本人に許可を得てストックしておいた。『白い巨塔』はザイゼン以外にない。「五郎」とさらに濁点を付けて完成と相成ったそうだ。名前はたんなる記号ではない。いわば先生の分身だから、感情移入できなければ何度でも考え直すのだという。

自称「作家馬鹿」

『大地の子』担当と同時に、私は先生の電話攻勢に直面した。ときと所を構わずほとんど毎日に近く電話があり、長いときは1時間以上になる。日中は秘書・野上孝子さんを交えての会話。先生の自宅電話はNTT特製・最新式親子電話で、複数の会話ができる。最初は面食らった。先生と話していると思いきや、「ちょっと待ってんか、野上も入るから」「???」「野上さん、野上さん、入ってください」「はい、野上入ります」。そして「もしもし、野上入りました!」と3人の会話が始まるのだ。あるときなど先生との会話中に突然「あーら先生、それは違うでしょう」と野上さんが割り込んできた。「あ、野上さん、いきなり入ったらあかんやないの」「でも先生が昨日おっしゃっていたことと違うじゃないですか」「やめなさい、平尾さんが入ってはるやないの」となり、戸惑うやら可笑しいやら。

夜、野上さんが帰られた9時10時頃は自宅に電話がかかってくる。開口一番、執筆中の原稿の話が始まり「どう思う?」「こうしたらどうやろ?」。無駄話はいっさいない。ほめると「べんちゃらはいらんで」と素っ気なくなる。最初の頃、内心ヘキエキ気味だったけれど、小説に文字通り心血を注いでいる先生に、できる限り協力したくなっていった。

何しろ足かけ8年の取材執筆期間中、ひたすら『大地の子』にかかりきり。短篇小説もエッセイも書かない、パーティなど論外で、座談会も対談も講演も断り、インタビューも受けない。ゴルフもしないし酒も飲まない。小説の流れに合わせて服を変え、ひとりでおしゃれを楽しむのがせいぜいの贅沢である。凄すぎる、こんな「作家馬鹿」に出会う機会はまたとないだろう。ちなみに「作家馬鹿」は先生の自称で、そこには大阪・船場商人としての矜持があった。処女作『暖簾』に《芸術家に芸術馬鹿というのがある、職人に職人馬鹿というのがある、いうてみたら大阪商人は、大きな商人馬鹿だと思った。この馬鹿さ加減がとてつもないことを考え、とてつもないことをしでかし、それで結構間違いのないしめくくりをつけて行く》と書かれているように。

『大地の子』の最大の協力者は胡耀邦総書記(当時)だった。山崎先生は、1984年から毎年、異例となる3度の面談を果たし、初回に「中国を美しく書くことは必要ない。欠点も暗い影も書いてよろしい。ただしそれが真実であるならば」と取材のお墨付きをもらった。この会見が「人民日報」で大きく報じられ、先生は記事を切り抜いてパスポートに挟んでいた。各地で「取材拒否」に遭うたびに記事を見せる。水戸黄門の印籠よろしく、あっという間にフリーパスで取材ができる。北京の奥の院・中南海(共産党・政府の中枢)から極貧にあえぐ農村まで存分に見学できたのは、胡耀邦のお墨付きのおかげだった。とりわけ3カ所――牡丹江ぼたんこう、内蒙古、寧夏ねいかに及ぶ労働改造所の訪問と囚人へのインタビューは、空前にして絶後。外国人はむろん、中国人さえ立入絶対禁止なのだから。胡耀邦の存在がなければ『大地の子』は間違いなく執筆断念に追い込まれた。それでも2度目の会談で先生は、胡耀邦に感謝しつつ「監獄のシーツは北京飯店のシーツよりきれいで真っ白でした、ありのままの様子をみせてほしいと、強く注文し、監獄の厨房ちゅうぼうまで入ると、一般農民の口に入らないような大きな豚肉がありました、しかし、その豚肉は私たちの見学のためにわざわざ用意したものだったことがあとで解りました」と率直に語った。胡耀邦は「アッハッハッハッ」と哄笑し「焦ってはいけない、私だって地方に視察に行けばだまされるときがある」「嘘をついて、上の者を胡麻化すことはいけないことだ、悪い習慣になってしまった」と答えている。

胡耀邦が見た日本映画

2017年9月、「総書記 のこされた声」というNHKスペシャルが放映された。山崎・胡耀邦会談の録音テープを軸に、胡耀邦を追尋した好番組である。これを見れば(聞けば)、胡耀邦がいかに率直な人柄だったかがよく分かる。たとえば「私は20年前2本の日本映画を見た。ひとつは『山本五十六』、もうひとつは『あゝ海軍』。『山本五十六』は良かったと思います。ストーリーは真実でした」という言葉には、山崎先生ならずとも驚くに違いない。続いて、「私は今、あまりにも多くの問題を抱えています。シラミ(問題)が多すぎるんです。シラミがあまりにも多くて、かゆみさえ感じなくなりました」と言いながら、ぽりぽりと両手で体をかき、シラミを取るしぐさをしたという。先生は身振り手振りで、私たちに胡耀邦のその様子を真似された。その場に居合わせるような捧腹絶倒の光景であった。

胡耀邦の総書記時代(1980年~87年1月)は、「日中蜜月」の時代と言われた。83年訪日の折には、中国首脳として唯一、被爆地長崎の平和祈念像を訪れている。まだ厳しかった財政状態のなか、3000人の日本青年を1週間招待してもいる(菅直人元首相もメンバーの一人)。胡耀邦は何度も、日中双方が「狭い愛国主義」に陥ることをいましめていた。側近に「一人の人間の言ったことがすべてということに反対しなければならない」と語っているが、これは鄧小平の「毛沢東がいれば毛沢東のいうことがすべて。私がいれば私がいうことがすべて」の対極にある思想だった。こうした開放的、親日的な姿勢は、当然ながら軋轢を生む。総書記解任理由6項目のひとつには「日本の青年3000人を独断で中国に招くなど、外交姿勢が独断的だった」という文言がある。解任3カ月前に行われた山崎先生との最後の会談では、前2回の力強い口調は影をひそめ、「順調に『大地の子』が生れますように」といった遺言めいた言葉が吐かれた。89年死去を契機に勃発した天安門事件は今なお記憶に新しい。

なぜ、「大地の子」なのか?

NHKスペシャルを制作した佐藤祐介氏は、放映後のレポートで「甘すぎるかもしれないが」と注釈を付けつつ、《胡耀邦が失脚せず、中国を率いていたら、いまのような中国とは、別の、“もう一つの中国”の形、そして、もう一つの世界の形があったのではないか。》と書いている。胡耀邦を知れば知るほどそう思う。『大地の子』で描かれた戦争孤児も文化大革命も、やがて歴史のひとコマになる。が、胡耀邦と山崎先生が共に夢見ていた、「狭い愛国主義」を超える理想は生き続けるだろう。

大澤真幸氏が『山崎豊子と〈男〉たち』で指摘するように、『大地の子』のラストシーンには、先生の理想がしっかり描かれている。実の父親と再会した松本勝男こと陸一心は、父と共に長江・三峡下りの船に乗る。父は「ここでお前と別れて、日本へ帰ってしまえば、私はまた独りだ、徳志トウチさん(中国の養父)には申しわけないが、息子のお前と暮したいのだ……」と語りかける。一夜明け、長江の滔々とうとうたる流れを見ながら一心は答えた。「私は、この大地の子です」。「養父母と暮らします」でも「中国に残ります」でもない、「大地の子」なのだ。ここには、国家・国境を超える普遍性が秘められている。「狭い愛国主義」にとらわれず、日本人でも中国人でもない、日本人でもあり中国人でもある人間。執筆中何度も変更されるストーリーの中で、最初から最後までこのラストシーンは一貫していた。「日本より中国がええとか、中国より日本がええとかいう話やないんよ」と先生は言っておられた。

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