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保阪正康『日本の地下水脈』|無自覚的帝国主義からの出発

昭和史研究家の保阪正康が、日本の近現代が歩んだ150年を再検証。歴史のあらゆる場面で顔を出す「地下水脈」を辿ることで、何が見えてくるのか。今回のテーマは「無自覚的帝国主義からの出発」。明治政府はいかにして帝国主義国家としての主体的意思をもつようになったのか?/構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)


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保阪氏

欧米列強とは異なるプロセス

幕末から明治維新、大日本帝国憲法の制定に至る20余年間、どのような国家を建設するのかをめぐって熾烈な主導権争いが行われた。前回見たように、この期間には「あり得た国家像」が5つ存在した。

 ①欧米列強に倣う帝国主義国家
 ②欧米とは異なる道義的帝国主義国家
 ③自由民権を軸にした民権国家
 ④米国に倣う連邦制国家
 ⑤攘夷を貫く小日本国家

だが、戊辰戦争、佐賀の乱、西南戦争といった武力闘争を経験し、場当たり的な対症療法を繰り返していくうちに、新政府は①、つまり欧米型の帝国主義を模倣しつつ、欧米列強に追いつくことを目指す道を選択していくことになった。そのうえで産業を興して国家の資産を殖やし、軍事力を強化する「富国強兵」政策で国力をつけた日本は、日清戦争や日露戦争での勝利で、帝国主義への道を歩んでいった。

これらの歴史を年表的に振り返ると、新政府は当初から欧米型帝国主義を志向し、一直線に進んだようにも見える。しかし、実際はそうではなかった。日本は、開国後に直面した混乱の中で、さまざまな選択を客体的に絞り込んでいるうちに、無自覚的に帝国主義への道を歩み始めたと考えられる。

欧米列強は、強大な軍事力をもってアジアやアフリカ諸国を制圧し、植民地とした。そして資源を収奪し、植民地の人々の権利や文化を宗主国に隷属させた。その際、列強は海外進出当初から、他国を植民地化する意思を主体的に持ち、そのための戦略も備えていた。だが、日本が歩んだ道は、列強とはかなり異なる。明治新政府は、無自覚的に帝国主義への道を歩み始めたのである。そして、維新の20年後頃から、列強と同じような帝国主義国家としての主体的意思を持ち始めるようになったと考えられる。

今回は、無自覚的帝国主義から出発した日本が、どのような過程を経て帝国主義国家としての主体的意思を備えるようになったのか、そのプロセスを考えてみたい。

日本が植民地化を免れた要因

まずは素朴な視点から出発する。なぜ、日本は植民地にならなかったのか?

19世紀半ば、欧米列強が植民地を求めてアジアに進出してきたとき、当然のことながら日本も植民地の候補地とみられていた。アメリカのペリー艦隊が江戸幕府に開国を迫ったのは、その先遣隊としての役目だったと言える。

欧米列強がアジアやアフリカ各地を植民地化するとき、第一歩は軍事的な制圧から始まる。そしてその土地の住民を統治するシステムを構築し、組織的に収奪を開始する。

日本でも、その第一歩に近い出来事はあった。たとえば1863(文久3)年、長州藩と列強との間で「下関戦争」が勃発した。当時、尊王攘夷派の急先鋒であった長州藩は、馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船を砲撃。なかでもフランス船キャンシャン号とオランダ船メデューサ号には死者を出す大損害を与えた。その報復として、アメリカ、フランス、イギリス、オランダの四国連合艦隊は長州海軍の軍艦を砲撃したのだ。結果、長州は大敗し、下関の砲台を占領された。

さらに同年には薩英戦争も勃発した。その前年、横浜にほど近い生麦村で、薩摩藩主・島津忠義の父、久光の行列の中を騎馬の英国人が横切ったことをきっかけに、薩摩藩士が英国人3人を殺傷した。いわゆる生麦事件である。この事件の犯人引き渡しや賠償金を求めて、英国は艦隊を鹿児島に派遣。薩摩藩と交戦し、双方に大きな犠牲があった。

薩長両藩はこれらの戦争で、攘夷が不可能なことを思い知らされた。幕府もこれらの戦況を冷静に把握し、欧米列強には軍事力では到底かなわないとみていた。

それにもかかわらず、なぜ日本は他のアジア諸国とは異なる形で欧米列強に抵抗し得たのか、主権国家として自立し得たのか。

そこには3つの要因がある。

1つ目は、武家による支配が機能していたことがある。江戸時代末期は幕府の影響力がかなり低下していたにせよ、それでも日本全国の支配・統一に揺るぎはなかった。また、諸藩内においても、統治が機能していた。たとえば薩英戦争では、薩摩藩は統率の取れた砲撃で善戦した。それでイギリス側も「日本は統治の行き届いた国であり侮れない」との認識を持つに至り、講和交渉を通じて薩摩とイギリスは急速に近づいてゆく。

2つ目は、国際情勢に通じた優秀な人物が幕府や各藩に多数存在したことである。江戸時代の日本は鎖国政策をとってはいたが、実際はオランダや明、清などを通じて国際情勢に関する情報が入っていた。たとえばアメリカのペリー艦隊が1853(嘉永6)年、浦賀に来航しフィルモア大統領の国書を提出して日本に開国を求めた際、幕府は事前に長崎のオランダ商館長からその情報を正確につかんでいた。優秀な人材がそうした国際情報に基づいて世界の情勢を分析し、その中で日本がどうあるべきか、という読みが可能だったのである。

内乱による介入に失敗

3つ目は長期間の内乱を起こさなかったことだ。日本以外の国や地域においては、西欧列強は内乱に乗じて介入し、傀儡政権を設立して植民地化を進めるというのが常套手段であった。日本でも、それに似た動きがあった。たとえばフランスの駐日公使レオン・ロッシュは徳川幕府最後の将軍である慶喜に肩入れし、王政復古の後でも「朝廷と戦うためなら我々はいくらでも武器を出す。だから、幕府は徹底的に戦え」などと吹き込んでいた。幕臣で勘定奉行や外国奉行などを歴任した小栗忠順も徹底抗戦を主張していた。

だが慶喜は、その種の誘いには一切乗らなかった。「仮に朝廷を倒して権力を握ったとしても、朝敵という汚名は後世にずっと残る」というのがその理由である。列強は日本を内乱状態に置き、自国の意向を代弁する政権を作ろうと試みたが、幕府側も朝廷側もその戦略にからめとられず、自国の利益、自国の歴史を踏まえた上で、受け入れなかった。その後、旧幕軍とそれを支援する奥羽越列藩同盟などは王政復古によって朝廷を頂く明治新政府軍と戦い、戊辰戦争は1年半続いた。だが、江戸城が無血開城されるなどして国土を灰燼に帰するような戦争にはならず、旧幕臣で蝦夷共和国を目指した榎本武揚らも箱館で降伏。明治新政府の地位はひとまず安定した。

これらの3点によって、「日本を武力だけで植民地化することは不可能である」という認識を列強に抱かせることができたのである。

不平等条約という重荷

だが、日本は植民地化こそされなかったものの、開国後、欧米列強の求めに応じて締結した不平等条約に長らく苦しめられることになった。

1854(安政元)年、日米和親条約が結ばれた。12条からなり、

・アメリカ船が必要とする燃料や食料、水などを日本が提供する。
・遭難船や船員を日本が救助する。
・下田と箱館の2港を開き、下田にアメリカ領事の駐在を認める。
・アメリカに片務的な最恵国待遇を与える。
 ……といった内容だ。

最恵国待遇とは、日本がアメリカ以外の国と結んだ条約のなかに、アメリカに与えた条件よりも有利な条件が含まれていた場合は、自動的にその条件をアメリカにも付与する、というものである。一方、同条約ではアメリカは日本に対する最恵国待遇を認めていない。日本にとっては不平等そのものであった。

同条約に基づいて1856(安政3)年、アメリカの初代駐日総領事のタウンゼント・ハリスが下田に駐在した。ハリスは日本側に貿易を実現する通商条約の締結を強く求めた。ところが諸藩の間では反対論も強く、幕府は勅許(天皇の許可)を得ることで対立を収めようとした。欧米列強と戦争となるのを防ぐために、条約を結ばざるを得ない、というのが幕府の説明であった。しかし朝廷内では孝明天皇らが鎖国の維持と条約締結に反対という強硬な見解を持っており、幕府は勅許を得ることができなかった。

ハリスは幕府への圧力を強めた。1858(安政5)年、第2次アヘン戦争で清国がイギリス・フランスに敗北したことが伝わった。ハリスは幕府に英仏の脅威を強調し、早期の条約締結を迫ったのである。結局、幕府は勅許を得られぬまま、日米修好通商条約の締結に応じた。

この条約も、著しく日本側に不利な条約であった。たとえば、

・日本に滞在する外国人の刑事裁判は、外国人の本国の法に基づき本国の領事が行う領事裁判権を認める。
・日本側には関税自主権がない。日本の関税は、アメリカと協議のうえ決める協定関税制とする。

……といった内容だ。

さらに日米和親条約で定められたアメリカとの片務的最恵国待遇は修好通商条約でも継続され、幕府はイギリスとフランス、ロシア、オランダとも同様の条約を結んだ(安政の5カ国条約)。日本はこれらの条約によって欧米と貿易を開始することになり、世界市場に組み込まれた。

その結果、国内の物価は上昇し、庶民や武士の生活は困窮した。開国と貿易の進行に対する不満の鬱積とともに、外国人を討つべしとの思想=攘夷の気運が高まった。薩摩や長州藩士が外国人を襲う事件が相次いだ。さらに孝明天皇を頂点とする朝廷の怒りを招き、尊王思想の高まりとともに反幕運動も広がっていった。

日本人乗客だけが全員死亡

幕末の段階ではやむを得なかったとしても、明治の新政府にとってはこれらの不平等条約は屈辱そのものだった。それを象徴する2つの例を見よう。

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