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“分断を憂う声”への違和感。民主主義の障害と言えるのか|三浦瑠麗

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※本連載は第48回です。最初から読む方はこちら。   

 米大統領選の影響もあってか、最近日本でも分断を憂う声がよく聞かれる気がします。新聞の社説でも番組でも、とかく分断が深まることを懸念する形で締めくくっておけば何らかの決まりやかたちが付くかのようです。大阪の都構想をめぐる住民投票においても、維新が先鋭的なイシューを掲げたことで大阪市民の意見が真っ二つに割れ、市民を「分断させた」ことがひたすら問題視されました。分断は当然のように悪とされ、それを疑う声はほとんど聞かれません。しかし、正面から「分断ってなんでいけないの?」と聞けば、返答に詰まってしまう。そんなことを繰り返し目撃するうち、これは分断というものの本質をきちんと社会が論じてこなかったせいだと思い至りました。分断の懸念ばかりが叫ばれる昨今だからこそ、こうした基本的なことについて立ち止まって考えておく必要があります。

 分断を憂う報道に対して、私が抱いた違和感を表現するとすれば、まずもって民主主義を選んでいるのだから、分断されるのは当然ではなかろうかということです。民主主義である以上、まずは政治勢力が互いに競ってもらわねばならない。そして、政権交代を通じて権力が入れ替わることが重要です。大統領職がレームダック化したり、分割政府によって物事が前に進まなかったりすること、日本で言えばねじれ国会によってにっちもさっちも行かなくなること。そうした「弱い政府」を創り出す仕組みはすべて権力移行の可能性を担保し、その移行に多少のタイムラグを設けるために作られたものなのです。

 権力の入れ替わりは、当然ながら恐怖や猜疑心を呼び起こします。しかし、そのような緊張感を欠いた政治は民主主義とは言えず、少数のエリート支配に堕してしまいがちです。名家が談合を通じて政権をたらいまわしにするような政治を想像してみてください。すぐにそんな政治は評価できないことが分かると思います。

 分断を嘆く声が大きくなった理由のひとつは、民主主義が厳しいものであることを忘れていたからでしょう。比較的同質的で豊かな中産階級が生じると、「国民」という主語が実体を持つものとして成立するようになります。民主党と共和党の外交政策や経済政策は、多くの有権者が存在する中道へと収斂してきました。対立する政党の目指す政策が似るということです。ところが、民主化が進み大衆化が極まると、メインストリームの中産階級が同質化するだけで事は済みません。当然のことながらマイノリティが権利意識に目覚めはじめたのです。より貧しい人びと、人種的・文化的マイノリティ、女性。マイノリティが目覚めた結果として、中道に寄っていくはずの二大政党はふたたび乖離し始めます。世の中は、エリート支配の時代から、草の根の民主主義の時代へと変化していきます。

 共和党はより田舎に住む人々が信じる保守的な社会課題の中に、自らの立ち位置を見出しました。民主党は権利意識に目覚めたマイノリティの利益を代弁するとともに、経済的には多数の票が存在する左の方向へと引きずられていきます。その結果として、二大政党はまさに正しく有権者の分布に従って分断されるようになった。分断されたのは社会だけではなくて、政治であるという見方がここでは重要です。その原動力となったのが、左右の草の根民主主義でした。

 もちろん、政治が対立を扇動することで大衆を分断するメカニズムは確実に存在します。政治に興味を持つ人であればあるほど、先鋭な主張に誘導されがちであるというのはグローバルに共通する事象です。しかし、大衆は必ずしも扇動されるだけの存在ではありません。むしろ、従来の政治が大衆全体から離れたところで展開されていたという側面にこそ、光を当てるべきでしょう。

 つまり、分断を憂う気持ちの底には、大衆化していく政治に対する不安や反発が宿っているのです。その不安には無理もない要素はあるのだけれども、分断そのものを民主主義に対する障害として位置付けることには無理があるということがお分かりでしょう。分断には確かに弊害も存在します。けれども、政治のせいでいたずらに人々が分断されるという主張はごく狭い視点からしか物事を見ていません。むしろ、人々が分断されているところにはじめて政治があると考えるべきではないでしょうか。

 民主国家においては、分断の弊害をバランスするためにいくつかの要素が規定されています。国民統合のロジックは、分断を超えて国を一つにまとめようとする働きをします。代議制民主主義に基づく選良による政治や三権分立は、大統領選の結果のみで権力の所在が極端に揺れ動く働きを中和します。地方分権の原則は中央の権力を制限します。その場その場で、あらゆる政治勢力が本気の権力闘争を繰り広げても国が壊れないようにする。よく考えられた仕組みだと思わされます。

 次回は、とかく潔さが尊ばれがちな日本における、「すがすがしい敗北」という考え方について掘り下げてみたいと思います。

★次週に続く。

■三浦瑠麗(みうら・るり)
1980年神奈川県生まれ。国際政治学者。東京大学農学部卒業、東京大学大学院法学政治学研究科修了。東京大学政策ビジョン研究センター講師を経て、現在は山猫総合研究所代表。著書に『日本に絶望している人のための政治入門』『あなたに伝えたい政治の話』(文春新書)、『シビリアンの戦争』(岩波書店)、『21世紀の戦争と平和』(新潮社)などがある。
※本連載は、毎週月曜日に配信します。
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