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天皇と上皇はどちらが偉いのか!? 人気歴史学者・本郷和人の最新刊『権力の日本史』の第一章を特別無料公開!

 11月19日、歴史学者・本郷和人氏の最新作『権力の日本史』(文春新書)が刊行されました。
 誰が一番偉いのか? 何故みんなが従うのか?? なぜトップが責任をとらないのか??? 人気歴史学者がこの国を動かす権力のリアルに迫ります!
 将軍よりも執権よりも「家長」が強かった鎌倉幕府。上皇が複数いたら誰が一番偉いのか? 実力で抜擢すると貴族の人事は荒れる?日本史の出世と人事をつぶさに見ると、そこには意外な法則が! 本郷氏が「この国の権力のかたち」を解き明かしていきます。
 同書の刊行を記念して、「第一章」の一部を「文藝春秋digital」で特別無料公開いたします。

まえがき

 長年、日本の歴史を研究する中で、私はこの国の権力構造に関心を持ち続けてきました。もっと平たく言えば、誰が一番偉いのか? そして、なぜ偉いとされているのか? ということです。

 この問題は、形式的に考えると、それほど難しい問題ではないように思えます。すなわち、「地位」が高い者が偉い。朝廷の秩序ならば天皇、幕府では将軍が最高位に置かれている。将軍は天皇によって任命されるのだから、将軍よりも天皇が偉い。なるほど、簡単な論理です。

 しかし、私が求めているのは、もっとリアルな権力のありかたです。誰が実権を握っているのか? 誰の言うことにみんなは従っているのか? 実質的な決定は誰が行っているのか? そして、その根拠となっているものとは何か?

 日本史の実態を見てみると、先ほどの形式的な理解はただちに破綻します。わかりやすいところで徳川家康。彼が征夷大将軍に任じられたのは一六〇三(慶長八)年ですが、そのわずか二年後には嫡男の秀忠にその位を譲っています。では家康は最高権力者ではなくなったのか? そんなことはまったくありません。「大御所」と呼ばれ、一六一六(元和二)年に他界するまで、その権力を振るい続けました。そもそも豊臣氏を滅ぼした大坂の陣は、家康が将軍の座を退き“隠居”した後のことです。豊臣秀吉の「太閤」も役職でも何でもありません。摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)を退いた者の呼び名で、言ってみればご隠居です。

 これをもっと端的にあらわしているのが、平安後期からの院政でしょう。これも後に詳しく論じますが、なぜ天皇を退いたあとの上皇が実際の権力を握るのか、きちんとした論理的な説明が必要です。

 私はこれを「地位より人」だとして、これまで論じてきました。天皇や将軍といった「地位」よりも、家康や秀吉といった「人」のほうに、人々は従っている。

 これは当たり前のことではありません。私たちの生きる近代社会では、大統領や首相といった「地位」にこそ、権力の源があります。端的にいって、アメリカで核兵器のボタンを握っているのは現職の大統領だけ。これは一般企業でも同じで、原則として代表取締役である社長という「地位」にある者が、経営の決定権と責任を与えられています。

 時代を遡っても、目を外に向ければ、中国の皇帝にしても、欧州諸国の国王にしても、多くはその地位を譲るとともに、実権も明け渡しています。

 では、なぜ日本では「地位より人」なのか? これが本書のテーマのひとつです。

 さらに日本の権力構造をつぶさに見ていくと、地位=公の役職とは別の序列があることに気づきます。それは「家」の序列です。

 これには二つの側面があり、ひとつは「階級」としての序列です。大きく俯瞰するならば、「天皇・皇族、貴族、武士、それ以外の庶民」といった階級への意識が、歴史上、みてとることができる。そして貴族ならば貴族、武士なら武士の内部で、さらに序列は細分化しています。この序列の単位となるのが「家」なのです。

 そして、もうひとつの序列はそれぞれの家の内部にあります。家康は将軍秀忠の父です。上皇は天皇の父であり、ときには祖父である。そして彼らは将軍や天皇の「地位」を退いても、家長であり続けました。そして、この「家」のトップの座を継ぐことが、権力の継承になる。すなわち「世襲」です。この世襲の原理が、日本史のなかでどのように作用してきたか、そして今の日本社会にもどのような影響を与えているか。これがもうひとつのテーマです。

 その一方で、権力のリアルを考えるとき、当然、「力」の存在を検討しなくてはなりません。権力とは「人を従わせる力」です。そこではさまざまなパワー、もっと具体的にいえば、軍事力、経済力、さらには知力などが重要な要素となります。

 さきほど挙げた「天皇・皇族、貴族、武士、それ以外の庶民」といった構図を考えたとき、時代が下るとともに、政治権力に参加できる層は次第に拡大していきます。そこで「世襲」と「才能」=能力主義を二つの軸として、日本の権力構造をみることにしました。

 本書は、二〇一〇年に刊行された『天皇はなぜ万世一系なのか』の増補版ですが、冒頭と最後に天皇を扱った章を加え、全体的にもかなり手を入れました。

 歴史のピースをひとつひとつ吟味し、「日本のかたち」がいかにして築かれていったのか、じっくり考えた本ですが、意外と知られていない「日本史の盲点」もあちこちにちりばめてあります。どうぞ気楽にお楽しみください。

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本郷和人氏

★第一章 天皇と上皇はどちらが偉いのか

「上皇」を英語で言うと?

 一八一七(文化十四)年、時の光格(こうかく)天皇は第四皇子(後の仁孝(にんこう)天皇)に位を譲り、太上(だいじょう)天皇(上皇)となりました。これがおよそ二百年前のこと。生前退位も、上皇となられるのも、この光格天皇以来のことです。周知の通り、一八八九(明治二十二)年に定められた旧皇室典範でも、戦後の皇室典範でも、皇位の継承は天皇が崩じたときとされていましたから、この平成から令和の代替わりが大きな転換であることは間違いありません。

 では、日本史において、この上皇とは、どのような存在だったのでしょうか? 私はこの国の権力構造を見る上で、上皇の位置づけは非常に重要な意味を持っていると考えます。

 少し調べてみると、世界に多くの王朝がありましたが、日本の上皇のような存在は非常に珍しいことがわかります。たとえば現在でもヨーロッパには多くの王室がありますが、退位した王は、英語でいえばretired king、すなわちリタイアした王であり、特別な称号は与えられないケースがほとんどです。つまり、王という「地位」に仕事や責務などが属しているのです。

 ちなみに、いまの上皇は英語でどうあらわすのかといえば、宮内庁の発表によると「The Emperor Emeritus」。エンペラーは皇帝、天皇ですからいいとして、イメリタスとは聞きなれない言葉ですね。これは実は、私のように大学関係者にはなじみのある言葉です。尊敬すべき仕事をして大学を退職された教授を「名誉教授」といいますが、この英語名は「professor emeritus」となります。つまり「名誉天皇」となるわけです。

 話を戻すと、日本の歴史には初めて上皇となった持統(じとう)上皇から光格上皇まで、五十九人の上皇がいました。歴代天皇のうち半数近くが上皇となっていますが、その位置づけは時代によって異なります。以下、時代を追ってみていくことにしましょう。

 特に重要なのは、奈良時代より以前、初めて上皇となった持統天皇の時代と、平安後期、上皇が「治天の君」として天皇以上の実権を握った院政期です。

「日本」の基礎をつくった天智・天武・持統

 まず日本史上初の上皇となった持統天皇からみていきましょう。

 退位した天皇を太上天皇とするという規定は、もともと律令のなかにもあります。この制度としての太上天皇は、あくまでも「退位した天皇」以外の何者でもありません。この太上天皇の略称が「上皇」となります。

 では、なぜ持統天皇は初めての上皇となったのでしょうか? この問いに答えるためには、この持統天皇が日本の歴史上で持っている重要な意味を論じなくてはなりません。

 持統天皇の父は天智(てんじ)天皇(在位六六八~七二)です。教科書でもおなじみ大化の改新(六四五年)の主人公、中大兄(なかのおおえ)皇子ですね。皇子として長く朝廷の実権を握り、白村江(はくそんこう)の戦い、飛鳥から近江への遷都などを経た後、天皇に即位しました。

 そして、持統天皇の夫が天武(てんむ)天皇です。天智天皇の弟で、これも有名な壬申の乱(六七二年)の後、皇位に就きます(在位六七三~八六)。そして、その後に続いて皇后から天皇になったのが、持統天皇(在位六九〇~九七)なのです。

 この天智・天武・持統の時代に、この国は大きな歴史的転換を経験しました。私は、この時期こそ、今の「日本」という国の基礎づくりが行われた時代だと考えています。

 中大兄皇子=天智天皇(以下、天智で統一します)の時代、ヤマト王権は国家的な危機に見舞われます。六六三年の白村江の戦いです。戦いの舞台は朝鮮半島でした。それまで友好関係にあった#百済#くだら#が、唐と#新羅#しらぎ#の連合軍に攻め込まれた際、ヤマト王権は援軍を送り、大敗北を喫します。これによって半島での権益を失っただけでなく、強大な唐に攻められる危険性が生じたのです。天智は北九州から瀬戸内海に、山城(やまのき)、水城(みずき)という防衛施設を作り、都も飛鳥からより東の(唐から遠い)近江に移しました。

 この敗戦のインパクトは、軍事面にとどまらないものだったと考えます。圧倒的な唐という大国のパワーの前に、この国はどのようにして存立していくのかという、深刻な問題を突きつけられたのではないでしょうか。そう考えるのは、天武・持統の時代に、独自のアイデンティティを構築するための大プロジェクトが相次いで立ち上げられるからです。

 そもそも「日本」という国号自体、現在確認できる最初の用例は、六七八(天武七)年ごろのものです。また「天皇」という呼称も、この時期に生まれました。それまでの「大王(おおきみ)」から、中国や朝鮮とは異なる独自の存在であることを強調したものと思われます。

『古事記』(七一二年)、『日本書紀』(七二〇年)の編纂も始まります。これはまさしく日本という国が固有の歴史を持つことを提示し、天皇家と神話とを直結させることで、その権威の確立を目指したものでした。ちなみに、近年、国文学の世界では、アマテラスのモデルは持統天皇だったのではないか、という説も唱えられています。

 そして、国家体制の強化のために取り入れたのが、先進国・中国の律令制度でした。七〇一年にまとめられる大宝律令です。

 これらの施策は、唐という「外圧」に対して、日本が対抗できるだけの体制を整えているぞ、と誇示する外交的な意味合いも強かったと思われます。たとえば律令などは、先進的な中国の制度に形だけ合わせた、「絵に描いた餅」というべきもので、この時期の日本にとっては内情に見合ったものとはとてもいえませんでした。しかし、この時期のヤマト王権が外来文化を必死に取り入れ、そこにアレンジを加えて、「日本」という新しいアイデンティティを模索したことは間違いありません。そして、「日本」の旗印のもと、諸豪族を束ねていくことで、自分たちが「天皇」という特別な存在であることもアピールしていったのです。

……この続きは、ぜひ書籍で!
■本郷和人(ほんごう・かずと)
1960年東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。東京大学・同大学院で石井進氏、五味文彦氏に師事し、日本中世史を学ぶ。著書に『新・中世王権論』(文春学藝ライブラリー)、『日本史のツボ』、『承久の乱』(いずれも文春新書)、共編著に『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)、監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。


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