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出口治明の歴史解説! 織田信長はただただ運が悪かった

歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2019年12月のテーマは、「失敗」です。

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※本連載は第6回です。最初から読む方はこちら。

【質問1】織田信長が明智光秀に討たれたのは、どこに失敗があったのでしょうか?

 織田信長(1534~1582)はほとんど何も失敗していないと思います。ただただ運が悪かった。そう説明するしかありません。

 本能寺の変(1582)が起きた日、信長は毛利輝元らを討伐するため、中国地方へ出発する準備のため本能寺に滞在していました。彼の周りにいたのは、20人ぐらいという説もあれば、150人ぐらいという説もあります。どちらにしても、軍勢と呼べないわずかな人数です。

 明智光秀(?~1582)のほうは、備中高松城で毛利氏と戦っている羽柴秀吉(1537~1598)の応援を命じられ、前日に1万3000人ほどの軍勢を率いて丹波亀山城を出陣しています。光秀は馬の背の上で、ふと思いついたのでしょう。

「待てよ、こちらは大軍勢だから、いま信長を攻めたら一発やな」

 ポーカーでいえば、手元のカードを見た瞬間に「お、フルハウスや。こりゃ一発勝負に出たろ」と考えるのと同じです。下剋上の時代ですから、チャンスさえあれば「上司の寝首をかいたろう」と発想するのはごく自然なこと。魔が差したとか、出来心とか、そんな類のものでしょう。

 そう想像できるのは、信長を倒したあとがあまりにもお粗末だからです。知らせを受けた秀吉軍が中国大返しで戻り、山崎の戦いで光秀軍を破るのは本能寺の変からわずか11日後です。クーデターを成功させたあとの計画がまるでなかったように見えます。

 だからこそ“日本史最大のミステリー”と呼ばれ、明智光秀のバックに黒幕がいたという陰謀説がたくさん生まれるのです。朝廷にはじまり、秀吉、家康、足利義昭、イエズス会……と陰謀説の黒幕はバラエティーに富んでいます。

 ある有名な現役の歴史小説家とお酒を飲んでいるとき、本能寺の変が話題にのぼりました。その人も、本能寺の変には黒幕がいたという設定で小説を書いています。

 僕は「先生は黒幕がいたと書かれましたが、どう考えても光秀がふと思いついたことが原因で、手元のカードがフルハウスだったからつい出来心でやってしまったということじゃないですか?」と質問してみました。すると、その人は「正直なところ、私もそう思いますよ。しかし、意外な誰それの陰謀だとか、信長の失敗から学ぶべきことはこれだとか、何か新説を打ち出さなければ、本は売れません。これは本を書くときのお作法みたいなものですよ」と静かに答えられました。

 要するに、信長は短気で癇癪持ちだったから、部下をひどく叱責して復讐された、短気は損気だね、といった教訓がほしいわけです。しかし、僕がいろいろな本から学んだ織田信長という人は、決して癇癪持ちで後先を考えずに行動するタイプではありません。きわめて合理的な判断から行動した優れたリーダーだったと思います。

 もし信長に落ち度があるとすれば、それは明智光秀がふとした思いつきでクーデターを起こすことを予測できなかったことでしょう。でも、ここまでくれば、交通事故や通り魔に遭うことを予測できないのとほとんど同じです。信長の失敗というより、ただただ「運が悪かった」としか言いようがありません。

 そういう運や偶然の積み重ねによって、歴史的な大事件はいくらでも起こると理解しておくことの方が下手な陰謀論よりははるかに重要です。なお、本能寺の変については呉座勇一『陰謀の日本中世史』という良書があります。


【質問2】ナポレオンとヒトラーはロシア(ソ連)との戦いで、どちらも冬に攻め込んで敗けたのは戦術の失敗でしょうか?

 ナポレオンもヒトラーも、冬に攻め込んだわけではありません。ちゃんと夏に攻めたのに、戦いが冬まで長引いたのです。敵の作戦にまんまと引っかかったのです。

 ナポレオン・ボナパルト(1769~1821)が、69万人の大陸軍を率いてモスクワをめざしたのは1812年6月です。しかし、迎え撃つロシア軍は戦いを徹底的に避け、戦力を温存したままどんどん退却していきました。それもフランス軍が物資を収奪できないように、町を焼き払いながら撤退していく“焦土作戦”です。

 ナポレオン軍がモスクワに入城したのは9月ですから、きちんと夏の間に決着をつける計画でした。首都モスクワが陥落すれば、ふつうはフランス軍の勝ちで戦争終結です。ギリギリ冬を迎える前に、モスクワで物資も手に入れることができます。

 しかし、モスクワはもぬけの殻。ロシア軍によって火の手があがります。町が焼かれて物資は手に入らず、食糧のない馬が餓死して大砲などが運べなくなり、兵士も飢えて戦いどころではありません。その状況で迎えたのが、シベリア寒気団がもたらす酷寒です。気温はマイナス20度以下。いわゆる冬将軍です。12月にフランス軍がロシア領を撤退したときは、大陸軍が5000人まで減っていたといいます。

 それから130年後の第二次世界大戦で、ドイツのヒトラーもソ連に深く攻め込みながら、モスクワ占領を目前にして冬を迎えてしまいました。ドイツがソ連に侵攻したのは1941年6月です。もちろん、冬将軍がくる前に勝利するつもりだったのが長期戦に持ち込まれ、12月にはマイナス42度の厳寒に苦しめられて後退しました。このときもソ連は、ドイツ軍に物資を現地調達させないために焦土作戦を実施しています。

 自軍はどんどん後退しながら敵を弱体化させていく焦土作戦は、広大な国土がなければ実行できません。中国にも「清野作戦(堅壁清野)」と呼ばれる焦土作戦が見られます。

 漢民族は数百年に及ぶ長期的な戦いでも、焦土作戦のような発想で敵に対抗しているともいえます。たとえば、五胡十六国時代(304~439)の匈奴、鮮卑など北方の遊牧民が攻めてくれば、敵が強いからと無理に戦うことなく、長江の南に逃げてしまいます。しかし年月がたつうちに、遊牧民たちは豊かな中国に溺れて軟弱になり、漢民族に取り込まれて同化してしまう。無理に戦わないでどんどん退けるのは広大な土地があるからです。そういう発想は、日本人にはなかなかできそうにありません。

 ロシアの焦土作戦は、敵を誘い込んで持久戦に持ち込み、物資の補給が滞るところまで引いて、最後は冬将軍と戦わせます。ナポレオンもヒトラーも、おそらくそのことは歴史から学んでいたでしょう。しかし実際に戦ってみると、ロシアの大地はあまりに広く、いくら追っても逃げていくので驚いたでしょう。

 ロシアに攻め込んで、この焦土作戦に乗らなかった例は1つしかありません。アカイメネス朝ペルシャの大王、ダレイオス一世(在位:紀元前522~486年)です。当時、ペルシャ最大の敵はイラン系の遊牧国家だったスキタイでした。彼は、イスタンブルから現在のロシアの大平原に、スキタイを攻めまくります。スキタイはやはり焦土作戦に出て、周りを焼きながらどんどん後退していきます。ダレイオスは、そこで深追いすることなく、兵を戻しました。「スキタイは2~3発殴ってやったから、もう懲りたやろ」という感じです。これは罠だと見破るぐらい頭の切れるリーダーだったのでしょう。

 逆に、真冬のロシアに攻め込んで勝利を収めた軍隊もあります。13世紀に侵攻したモンゴル帝国です。針葉樹林のタイガが凍りつく真冬です。モンゴル高原の冬はロシアよりも寒く、兵士も馬も元気だったことも勝因の1つだといわれています。

 どんなに強い軍隊でも、環境変化に対応できなければ敗北する。これは生物にも組織にも当てはまる原理原則の1つです。

(連載第6回)
★第7回を読む。

■出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。ビジネスから歴史まで著作も多数。歴史の語り部として注目を集めている。
※この連載は、毎週木曜日に配信予定です。

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