観月_修正

小説 「観月 KANGETSU」#16 麻生幾

第16話

“オニマサ”(5)

★前回の話はこちら
※本連載は第16話です。最初から読む方はこちら。

 七海の脳裡に浮かんだのは、一人の男の顔だった。

 癖毛で浅黒い顔をした田辺智之(たなべともゆき)――。

 2ヶ月前、東京の私立大学から1年間の予定で研修に来ている38歳の独身の男だ。

 実は、彼が自分に好意を持っていることは薄々感じていた。

 仕事中にふと目を向けると、自分を見つめていた田辺がさっと目を逸らすことが度々あった。また、大学院生も参加できた教室のコンパでも、彼の視線を何度も感じた。

――きっとそうよ、今のは彼よ……。

 七海は確信した。

 この2、3週間、誰かに尾けられている、見られている、そんな感じを抱いていたのは、彼のストーカー行為だったのだ。そして、一昨日の夜、自分に襲いかかってきたのもまた……。

――どうしたらいいの……。

 七海は焦った。

 自分の職場で、しかも毎日顔を合わせる同じ教室の男が、自分へのストーカーだなんて考えもしなかったことだからだ。

 その時、七海の脳裡に浮かんだのは、“逃げ場がない”という言葉だった。

 七海がまず行ったことは、部屋のドアを閉めて鍵をかけることだった。

 でも、それが何の意味もないことは、もちろん七海は知っていた。

       *  

 七海は意識せざるを得なかった。

 大きな机を挟んだ、斜め向こうで背を向けて座る、“ストーカー”の後ろ姿を七海は睨み続けていた。

 映写スクリーンに向かって話す、考古学教室の主任教授である金原(きんばら)の言葉はまったく耳に入っていなかった。

「先月、杵築市狩宿で新たに発掘した古墳は、県下最大規模の前方後円墳である亀塚古墳と並ぶ規模の、小熊山(こぐまやま)古墳と同じグループである可能性が高いことから、名称を小熊山古墳群と変更すべく、現在、市と国に働きかけているところであり――」

 七海の頭を占領していたのは、田辺とどう向き合ってゆけばいいのか、そのことだった。

 大学のセクシャルハラスメントの相談窓口に告発しようかとも考えた。

 しかし、よくよく考えてみれば、田辺が間違いなくストーカーだという証拠があるわけではない。

 漠然としたイメージで疑っているにしか過ぎないのだ。

 だが、一昨日のようなことがまた起これば……。

 七海は落ち着かなくなった。

 この前、助けてくれた熊坂さんは、警察の調べを受けている。涼にしても捜査に忙しく……。

 その時、七海は妙な違和感に襲われた。

 熊坂さんはもう助けてはくれない……その言葉だ。

 しかし、その言葉になぜ妙な違和感を抱いたのか、その意味がなかなか思いつかなかった。

 頭を切り換えた七海は、今、自分が直面している問題をもう一度、意識した。

――ストーカーのことは、やっぱり、涼にきちんと相談するしかないわ……。

 七海はあらためてそう思った。

 教授の講義が終わった時、その田辺が七海の元に歩み寄って来た。

「昨夜は遅くまで残業だったみたいだけど、僕に手伝えることがあったらいつでも言ってね」

 田辺は媚びるような雰囲気で言った。

 七海は体が凍り付く思いだった。

 昨夜の残業のことは誰にも話していないのだ。

「日豊本線の上りの最終って、案外、遅くまであるんだ……」

 七海は、体の奥から異質なものが立ち上がったのをはっきりと感じた。                      

別府中央署

 捜査本部に走り込んできた涼は、息を整えることもせず口を開いた。

「妙なんです。熊坂洋平の年金記録がないんです!」

「ねえ? ずっと年金ぅ払うち来んかった、そげなことか? いや違うな……」

 正木は何かを思い出した風に前言を訂正した。

「そうです。熊坂洋平に任意提出させた生活用銀行口座には、定期的に年金が振り込まれちょん記録がありました。どげなことでしょう……」

 涼の目が彷徨った。

「実は、こっちでも妙なことち言うか、熊坂洋平ん法令違反が発覚した」

「法令違反?」

「奴は、無免許で毎日、車を運転していた」

「道交法違反……」

「それだけやねえ。税務署へん申告者、自宅兼店舗ん賃貸契約、スマートフォンの名義、それらすべてが妻の良子名義や……」

 正木が腕組みをして小さな唸り声を上げた。

「つまり、考えごつよっちは、熊坂洋平は、公的に自らぅ証明するもん何ものう、また公的な場に自分ん名ぅ晒すことぅ避けちょった」

「はい、そうです」

 涼が即答した。

「熊坂洋平……いったい何者なんや……」

 正木のその唸り声は、今度ははっきりと涼の耳に聞こえた。

(続く)
★第17話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
【編集部よりお知らせ】文藝春秋は、皆さんの投稿を募集しています。「#みんなの文藝春秋」で、文藝春秋に掲載された記事への感想・疑問・要望、または記事(に取り上げられたテーマ)を題材としたエッセイ、コラム、小説……などをぜひお書きください。投稿形式は「文章」であれば何でもOKです。編集部が「これは面白い!」と思った記事は、無料マガジン「#みんなの文藝春秋」に掲載させていただきます。皆さんの投稿、お待ちしています!

▼月額900円で月70本以上の『文藝春秋』最新号のコンテンツや過去記事アーカイブ、オリジナル記事が読み放題!『文藝春秋digital』の購読はこちらから!

★2020年2月号(1月配信)記事の目次はこちら




みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください