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西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#21

第三章
Distortion And Me

★前回の話はこちら。
※本連載は第21回です。最初から読む方はこちら。


 犬を飼った経験のない僕でも「ドッグ・イヤー」という言葉だけは聞いたことがある。確か、大型犬の1年は人間の約7年だから、5歳だと人間に換算すると7をかけて実際は35歳だとか、そういう話。それで言えば、下北沢に来た1995年の春からの僕は、ひと月に何歳分も経験を重ね、視野を広げ、トライを繰り返しドッグ・イヤーのように成長したように思う。ただし、それは僕一人だけに起こった事態ではなく、熱狂と野望の渦に飲み込まれていったこの街のギターバンドすべてに降り注いだ「下北ゴールドラッシュ」のおかげだった。「金脈」が、下北沢のそこかしこに転がっていた。ここでいう「金脈」とはまさに、プロのミュージシャンになる夢を叶えるために、あらゆる都市から殺到してきたミュージシャン達自身のことだ。1995年の下北沢には、修羅場をくぐり抜け絶好のタイミングを迎えていたベテランもいたが、未熟であれ若い者にも相応のチャンスは転がっていた。いやむしろ、若ければ若いほど将来性と自由度は増してくる分、有利だったかもしれない。僕は自分の価値に気づきはじめていた。

 3年半前の、1992年4月。京都から上京してきた僕が早稲田大学に入学後、音楽サークルを探すためキャンパスをうろうろしている時、初めて声をかけたのが、180cmの長身で背筋がシュッと伸びた同級生、小松シゲルだった。ローリング・ストーンズやスライ&ザ・ファミリー・ストーンが好きだ、長野県飯山市出身のドラマーだと新人勧誘アンケートに記入していた彼に、歩きながら話を聞いてみるとはじめて行ったコンサートは、1987年7月9日に長野に来た a-ha らしい。a-ha が大好きな僕が興味津々で感想を聞くと「結局、皆〈テイク・オン・ミー〉やった時だけ異様に大盛り上がりだったよ」と彼は笑った。加えて、実家の自分の部屋の壁にはヒューイ・ルイス&ザ・ニュースのアルバム《スポーツ》のポスターが貼ってあると言う。いきなり意気投合し、思わず感動して握手してしまったが、初対面なのに妙に熱い僕のテンションに小松は若干引いていた。

 剣道をやっていて長野県警に推薦されたこともあるスポーツマン。無類の面倒臭がりで、夏はヘインズの30枚パックの白Tシャツの新品を1枚ずつ着て、30日分まとめて洗濯するような豪快な男。入学以来、彼の確かなドラマーとしてのスキルに惚れ込んで自分のバンドに加入を懇願していたが、学年を重ねるほどに複数のバンドを掛け持ちするようになっていた小松は僕と反比例するように忙しくなっていった。アマチュアのバンドは、練習や活動を重ねるほどに自分がお金を支払う。つまり、バンドをやればやるほどバイトをしなくてはならないのだ。僕の知る限り小松はずっとスタジオに入り、ずっとライヴをし、ずっとバイトをしていた。

 サークルのメンバーがボロボロのソファーにだらだらと居座っていた大隈講堂の向かい側にある第二学生会館1階のラウンジで、ある時彼が「卒論を書くがテーマや内容が何も思いつかない」と言っていたので、何気なく僕が「キミ、ボサノヴァとかサンバとか、好きなんやったらブラジルの音楽とか、南米の音楽について書けば?」と言うと「お、いいじゃん」と即採用して、本当にそれで卒論を書いていた呑気な男。ただ、プロのセッション・ドラマーになりたいという夢に関しては真剣だった。ファミリーマート夏目坂店へデモ・テープを持って向かったあの朝以来、僕にとって本丸、バンドにとって最も大切なパートである「ドラム」の小松が一大決心をして協力を約束してくれたことで、僕のソロ・プロジェクトとしてスタートさせざるを得なかった「NONA REEVES(ノーナ・リーヴス)」は軌道に乗った。それまでに力を貸してくれていた大学のサークルの後輩ふたり、ベーシストの小山晃一、ギタリストの師岡忍も加えてデモ・テープをレコーディングするなど数ヶ月が過ぎた頃には、ほのかなる「バンド感」も漂いはじめた。師岡忍と共作したアイズレー・ブラザーズ・テイストの〈フリーキー〉の他、〈ナンバーナイン・オブ・マイ・ライフ〉〈サイドカー〉と徐々にオリジナル楽曲も増え始めた秋の終わり、どこか編集者的才覚もある小松がふと僕に言った。

「ゴータ、このバンド、ノーナ・リーヴスさー」

「何?」

「奥田、誘った方がいいよ」

「奥田!?」

「ゴータにないものが奥田にはあるし、奥田にないものがゴータにはあるから。今のゴータの曲、ポップだしメロもいいけど、アレンジやコードの深みが奥田が来ると増すはずだからさ。それに俺らのまわりにあいつしかいないでしょ、ソウルもロックも出来るギタリスト」

 僕は心底、その提案に驚いた。あの奥田健介が自分のバンドに加入すると言う予測が出来なかったからだ。サークルへの登場直後から規格外のその音楽的才能が誰からも認められていた1学年下の奥田健介。滋賀県膳所高校出身。『ムーミン』で言えば、たまに登場して颯爽と去ってゆくスナフキンのようにクールな奥田の「90年代的」スタンスは、僕のような陽気な「80年代的」熱血漢とは水と油だと思い込み、組み合わせを考えてもみなかった。しかし、小松の提案がもしうまくいくのならば確かにそれ以上の人選はない気がした。

 1995年。

 気怠く輝く風がイングランド北西部の都市マンチェスターから吹いてきて、真夜中の下北沢をまるっと包みこんだ。この年、世界的に最も大きな話題を振りまいたバンドのひとつがオアシス。中心は、シンガーで絶対的フロントマンである弟のリアム・ギャラガーと、ギタリストで作詞・作曲を手掛ける兄ノエル・ギャラガー。労働者階級の貧しい家庭に生まれた兄弟は、アルコール中毒の傾向があった父親から家庭内暴力を振るわれる劣悪な環境の中で育ったという。13歳でギターを手にした兄ノエルは、成人後も建築会社や、ガス会社の配管工として働きながら過ごしていた。ある時、鋼鉄製のガスパイプを右足に落とし負傷してしまった彼は、会社から身体に負担の少ない倉庫番の仕事へと異動を命じられる。その時期、成人してもバンドが組めておらず暗闇の中にいたノエルは一人きりで大量に曲を書きためることになる。

 5歳年下の弟リアムが仲間達と組んだ素人バンドに加入するやいなや、バンドの実権を握った彼は、ビートルズに多大な影響を受けつつも「アンセム」、つまり自身が幼少時から愛するサッカー・スタジアムなどで大群衆がシンガロングするのに適した、シンプルなメロディと爆音で奏でるタイムレスな楽曲群を世界中に響かせることとなる。

 どん底を経験した遅咲きの兄ノエルが生み出した財宝のような名曲のストックと、若さを無鉄砲に撒き散らすヴォーカリスト、弟リアムの圧倒的カリスマを武器に、オアシスは秋にリリースしたセカンド・アルバム《モーニング・グローリー》の大ヒットによって「ブリット・ポップ」界の頂点にまで登り詰めていった。それは、デビューからわずか2年足らずのスピードだった。

 94年4月にリリースしたサード・アルバム《パークライフ》で、それまで「ブリット・ポップ」の王者の座についていたのが、中産階級出身のブラーだった。ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ出身のデーモン・アルバーン、グレアム・コクソン、アレックス・ジェームスの3人と、コルチェスターの市役所でコンピュータ・プログラマとして働いていたドラマー、デイヴ・ロウントゥリーによる4人組。デーモンが放つインテリジェンスに満ちたシニカルでポップな歌詞と、グレアムの指向するローファイ・ギター・サウンド。ダンス・ミュージックのエッセンスも取り入れた捻りの効いたバンド・サウンドには僕も夢中になった。ただし、突如ロックシーンの最前線に登場したギャラガー兄弟は、不遜な態度でことあるごとにブラーをコキおろすようになる。メディアや音楽ファンは、両バンドの対立を面白がり煽った。ストレスをためた世界中の若者たちは、ギャラガー兄弟が通常運転で巻き起こす兄弟喧嘩やライバルのみならずロック・レジェンドにも平気で楯を突く歯に衣着せぬその言動、傍若無人な態度にも熱狂。そんなオアシス、ブラーのバトルを軸にこの時期は、〈コモン・ピープル〉で社会現象を巻き起こしたパルプの他、レディオヘッド、ザ・シャーラタンズ、ザ・ヴァーヴ、スーパーグラス、ブー・ラドリーズ、ノーザン・アップロアー、オーシャン・カラー・シーンなど数多くの「ブリット・ポップ」バンドの人気が日本でも爆発した。CD が飛ぶように売れた。数多くのバンドが来日した。世はまさに「ギターバンド・ブーム」の真っ只中にあった。

 日本でも JUDY AND MARY、シャ乱Q、Mr.Children、スピッツなど個性的なロック・バンドが放つヒット曲がお茶の間にまで充満したことで、下北沢のライヴハウスには日を追うごとにあらゆるメジャー・レコード会社のディレクターやスカウトマンが集まるようになった。「下北ゴールドラッシュ」とは、まさにその状態を指している。例えばキャパシティ200人強の CLUB Que を満員に出来るバンドであれば、レーベルからすれば奪い合い、磨き売り出すべき「黄金」。この街に来る前の自分に比べると嘘のようにきらめく景色がそこにあった。そして何よりも、オーディエンス! 10代や20代前半のバンド・サウンドに熱狂する女の子達が全国から集まり、そこにいた。

 すべてのミュージシャンの目前には、まるで巨大なルーレットが置かれているようだった。ただし、チャンスは何度も来ない。事務所やマネージャーやレーベル、選ぶカードを一つでも間違えれば転落する運命にあることも知っていたから、皆シビアだった。

 混沌としたレースから、素早く一抜けたバンドがいた。それは、男女混成のロックバンド「VINYL(ヴィニール)」。最初に CLUB Que で彼らのライヴを観た時、満杯に埋まった客の熱狂と楽曲のクオリティ、カラフルで捻じ曲がった新世代バンドの自信に満ちた存在感に腰を抜かしてしまった。僕よりも1歳、2歳下のメンバーで構成されていたが圧倒的な感覚の若さをそこに感じたのだ。翌年、「pre-school」と名前を変えた彼らは怒涛の快進撃を果たしてゆく。

 いつの間にか湧井さんのそばをまとわりつくのをやめ、毎回行動を共にしなくなっているうちに、STARWAGON とポリスターとの契約が成立したと噂で聞いた。しかし、僕はもう自分の道を進むことに精一杯で必死だった。夢を現実にするためのそれぞれの闘いの季節が、始まっていた。

(第三章 終わり)
★第22回を読む。

★今回の1曲ーーPulp / Common People (1995)

■西寺郷太(にしでら・ごうた) 
1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド「NONA REEVES」のシンガー、メイン・ソングライターとして、1997年デビュー。
以後、音楽プロデューサー、作詞・作曲家としてもSMAP、V6、YUKI、岡村靖幸、私立恵比寿中学、「ヒプノシスマイク」など多くの作品、アーティストに携わる。
近年では特に80年代音楽の伝承者としてテレビ・ラジオ出演、雑誌連載など精力的に活動。マイケル・ジャクソン、プリンスなどの公式ライナーノーツを手がける他、執筆した書籍の数々はベストセラーに。
代表作に小説『噂のメロディ・メイカー』(扶桑社)、『プリンス論』(新潮新書)、『伝わるノートマジック』(スモール出版)など。
Spotify公式ポッドキャスト「西寺郷太の GOTOWN Podcast」、毎週日曜更新。
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