中野信子様

消費することで経済を回す――徳川宗春の美意識|中野信子

★前回の記事はこちら 
※本連載は第10回です。最初から読む方はこちら。

 芸事は尾張、といわれ、名古屋は昔から習い事、芸事が盛んである。その淵源を訪ねるうえでこの人のことを語らないわけにはいかない。

 尾張藩第7代藩主、徳川宗春である。

 もともと藩祖義直の代から尾張藩主は芸能に親しんでいたのだが、特にこの7代宗春は積極的な政策を行ったことで有名だ。TVシリーズの『大岡越前』や『暴れん坊将軍』などでは、第8代将軍であった徳川吉宗に対抗して将軍位を争い、吉宗を暗殺しようとしたであるとか、自己保身に走った利己的な人であるとか、やや強く脚色された人物像が一般に流布しているようだ。

 当時は8代将軍吉宗のもと、質素倹約、緊縮財政の時代である。しかし宗春は、倹約令を撤回し、武士の芝居見物を解禁した。さらに、遊女町を積極的に許可し、倹約・綱紀粛正を軸とする吉宗の改革に、ことごとく逆らうような政策を尾張で実施したのである。

 その結果、吉宗のきびしい緊縮政策で火の消えたようになっていた諸都市の中で、名古屋だけがあかあかと灯がともったように栄えていたという。皆が金を使ってこそ経済が潤う、という考え方の宗春ならではの経済政策だった。

 この宗春の大胆な行為には、緊縮財政をしていても経済は好転せず、資金が回ってこそ世の中は明るくなるという信念と計算があったのだろう。それに加えて、本人の豪放な性格も大きく寄与していたことは間違いないだろう。宗春は派手好みで、自身の行列をきらびやかに飾った。また、一風変わった人目を惹く格好を自らしてみせて、人々を驚かせたという。先端的な服装に身を包み、自らファッションリーダーとして世の中を盛り上げようとしたのだろう。

 また、宗春自身が著した『温知政要』には、すべて人には好き嫌いがあるから、衣服食物をはじめ自分の好き嫌いを人に強制してはいけないとか、法令は数少ないほうがいいとか、2020年の現代にも通用するような非常にリベラルな考え方が記されている。このことに驚きを覚える人もいるのではないかと思う。

 ただ、質素倹約も大事だが限度があるとか、吉宗の神経を逆なでするような考えも『温知政要』には述べられており、吉宗と宗春の関係は良好とはいえなかったようだ。

 実際、宗春は吉宗によって強制的に隠居させられている。その処分は非常に厳しいもので、隠居させられたのち、明和元年に宗春が亡くなった後も、「罪人」として扱われたという。さらに、墓に金網をかけられ、宗春を慕って墓参する人が近づけないようにされていたという。

 非常に現代的で進んだ考え方を持つ宗春は、危険視されてしまったのだろう。進歩的な考え方をあけすけに著し、実行に移した宗春の爽快なまでの大胆さと、その人柄の素直さを思うと、いかにもこの処遇は残念だ。

 そもそも御三家筆頭は尾張であり、紀州の吉宗が将軍位を継ぐというのは実は異例なのだが、なぜ、吉宗が8代将軍になったのか。この点についてもややこしい事情がある。病弱であった7代将軍家継が8歳で亡くなると、将軍位を巡って幕府では議論が紛糾した。6代将軍家宣の正室・天英院煕子は尾張の継友ではなく紀州の吉宗を推したという。

  この時代の出来事として、家継の生母である月光院に仕えた大奥御年寄・江島が起こした江島生島事件などが有名だが、大奥には華美な風が蔓延っていた。大奥の有りようが幕府の財政に悪影響を与えていることが天英院にも感じられたのかもしれず、紀州の吉宗ならば綱紀粛正と幕府の財政再建を担ってくれるであろうと期待をかけたか、あるいは月光院と親しかった間部詮房や新井白石を追い落とすためか、天英院は吉宗を推挙した。

  つまり、将軍吉宗の誕生にあたって、尾張と紀州の間には少なからず確執があった。そして、吉宗と争って負けた継友の後継が徳川宗春なのだ。

  宗春に対し、倹約令に逆らい、奢侈遊蕩にふけっているとは何事か、と幕府からのお尋ねがあった際には、上の華美は下の助けになる、と返答している。

  為政者にとっての倹約の本義とはただ質素倹約に励むことではない。民をむさぼらず、万民の生活と、心を安んじるべきである。上がむやみに倹約して、他人に強要するのは逆効果である。つまり上が金をつかうことによって、民に利益が還元されていくことこそを目指すべきだと説いている。

 300年後のいまも「芸事は尾張」と言われる文化の華開いた土地の、基礎を築いた人の考え方はこのようであった、ということを、私たちは覚えておいてもよいのではないだろうか。

(連載第10回)
★第11回を読む。

■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。
【編集部よりお知らせ】
文藝春秋は、皆さんの投稿を募集しています。「#みんなの文藝春秋」で、文藝春秋に掲載された記事への感想・疑問・要望、または記事(に取り上げられたテーマ)を題材としたエッセイ、コラム、小説……などをぜひお書きください。投稿形式は「文章」であれば何でもOKです。編集部が「これは面白い!」と思った記事は、無料マガジン「#みんなの文藝春秋」に掲載させていただきます。皆さんの投稿、お待ちしています!

▼月額900円で『文藝春秋』最新号のコンテンツや過去記事アーカイブ、オリジナル記事が読み放題!『文藝春秋digital』の購読はこちらから!

★2020年4月号(3月配信)記事の目次はこちら


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

「文藝春秋digital」は2023年5月末に終了しました。今後は「文藝春秋 電子版」https://bunshun.jp/bungeishunju をご利用ください