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「かつて民衆とヤクザは共闘した――自由民権運動の真実」仁義なきヤクザ映画史(6) 伊藤彰彦

文藝春秋digital
「おめえさん方とともに尽力いたしやしょう」――。神山征二郎『草の乱』(2004)/文・伊藤彰彦(映画史家)
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「板垣死すとも自由は死せず」

幕末維新において権力に利用されて使い捨てられたヤクザが、初めて権力に立ち向かったのが自由民権運動の時代、1884(明治17)年に起きた「名古屋事件」「群馬事件」「秩父事件」などの「激化事件」であった。

そもそも自由民権運動は、NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』(2018年)で鈴木亮平の西郷隆盛、渋川清彦の板垣退助、瑛太の大久保利通が演じたように、「征韓論」を西郷とともに主張した板垣が、大久保ら薩長藩閥政府に敗れて下野し、「国会開設」とともに「減租」を旗印に81(明治14)年に「自由党」を設立することから始まった。

国会開設は進歩的知識人、富裕層、ジャーナリストに支持され、減租は税金に苦しむ農民の悲願となり、全国に自由民権運動が凄まじい勢いで広がっていった。そして、自由党の国会開設の請願は、81年に、伊藤博文、井上馨らの政府が90(明治23)年の国会開設を約束することで叶えられる。

板垣退助を主人公にした映画は、板垣が死去した年に作られた伝記映画『板垣退助 自由の誉』(1919年、小口忠監督、日活向島撮影所)1本のみだが(フィルムは発見されていない)、板垣の自由党を政府が集会条例などで徹底弾圧するさなかに、血塗れの板垣が「板垣死すとも自由は死せず」と言ったとされることで有名な、82(明治15)年の岐阜の遊説会場での板垣の遭難事件(自由党を敵視する教員により板垣が胸や手を刺され軽傷を負った)は、事件直後からご当地の岐阜や板垣の出身地の高知で幾度も大衆演劇の演目となり、91(明治24)年に川上音二郎一座が『板垣君遭難実記』として舞台にかけた様子は、NHKの大河ドラマ『春の波涛』(85年)第1話で中村雅俊(音二郎)と岸部シロー(劇団員)により再現された。この遭難で板垣に世間の同情が集まったことを危ぶんだ政府は、板垣と自由党を分断しようと試み、板垣に「憲法視察」の名目で外遊することを誘いかける。その狙いは功を奏し、板垣は外遊し、帰国後の84(明治17)年、自由党の分裂を目のあたりにして解党を決意した。

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自由民権運動の指導者板垣退助

旧自由党員の破れかぶれ

板垣らに見捨てられた末端の自由党員たちは孤立し、未来が開けないことに絶望し、ならばいっそ政府首脳を狙ったテロを実行し、政府が動揺している間に天下に号令しようとまで思いつめる。かくして、1883(明治16)年から85(明治18)年にかけて、急進派自由党員によるテロリズムや武装蜂起計画が立て続けに起こり、のちに「激化事件」と総称された。

幕末維新のヤクザを描いた映画には、『黒駒勝蔵 明治維新に騙された男』(2012年、愛川欽也監督)、『博徒ざむらい』(1964年、森一生監督)、『天狗党』(69年、山本薩夫監督)などがある。

また、自由民権運動のあと、1892(明治25)年の「第二回衆議院議員総選挙」(政府が壮士やヤクザを使って野党の選挙妨害を行なったことで知られる)は東映ヤクザ映画『日本侠客伝 刃(ドス)』(71年、小沢茂弘監督)で描かれた。金沢を舞台に、民衆に寄り添う野党の代議士(大木実)と彼を支援する車夫会社の社長(辰巳柳太郎好演)を、政府の院外団(渡辺文雄が親玉)とヤクザが襲撃し、辰巳の部下の車夫、高倉健が復讐に立ち上がる物語だ。

院外団のモデルは明らかに、92年の第2回総選挙で軍備拡張を唱える松方内閣から資金をもらって血なまぐさい民党弾圧を行なった超国家主義団体「玄洋社」と思われ、その院外団の客分である池部良が「小金井小次郎(江戸末期、明治初期の侠客。新門辰五郎の舎弟。講談、芝居に脚色された)の兄弟分」に設定されるなど、脚本(笠原和夫)は緻密な時代考証のうえに物語を造型している。

『日本侠客伝』シリーズは、高倉健の堅気の稼業人が、近代資本によって壊されてゆく市場や祭など民衆の共同体を守るために手を血に染める物語だが、『刃』の敵は玄洋社と政府で、シリーズは最終作(第11作)にして日本近現代史の闇に斬りこんだ。

また、民権から国権へと時代が移り、日清戦争を目前にした93(明治26)年を舞台に、明治の青春群像を描いた映画が『北村透谷 わが冬の歌』(77年、山口清一郎監督)である。透谷(みなみらんぼう)は10代にして自由民権運動の闘士を志すが、「大阪事件」(85年、大井憲太郎ら自由党左派による、朝鮮で革命を起こし、それと連動させて日本で自由党が政権奪取する計画)の資金集めのために強盗略奪を命じられ、それを拒んで文学者への道を歩む。

しかし、闘士時代に匿ってもらった娼婦と同じ石榴(ざくろ)の刺青を、娼婦、車夫、博徒ら細民との思い出と連帯の徴として二の腕に入れる(史実ではなく脚本家菅孝行の創作)。透谷役のみなみらんぼうは滑舌が悪くミスキャストだが、娼婦と透谷夫人の二役を演ずる田中真理が艶やかで、山口清一郎の演出が力強い。

戊辰戦争への参加を命じられ

このように幕末維新と激化事件後の時代は映画になったが、もっともヤクザが重要な役割を果たした「激化事件」――「名古屋事件」「群馬事件」「秩父事件」を描いたテレビドラマや映画としては、秩父事件を取り扱った数作品があるのみで、そのほとんどがヤクザではなく農民に焦点が当てられていた。「名古屋事件」「群馬事件」に至っては、映画化、ドラマ化されないばかりか研究書も数冊に留まり、現在、2つの事件のことを知る者は少ない。これらの事件で「暴徒」の汚名を着せられ、処刑された2人の無名のヤクザ――「名古屋事件」の大島渚(映画監督と同姓同名)、「群馬事件」の山田平十郎と自由民権運動との関係を辿ってみたい。「仁義なき近現代史」を描くために、それは不可欠と思うからだ。

名古屋事件の実像を初めて世間に知らしめたのが歴史学者長谷川昇による『博徒と自由民権 名古屋事件始末記』(1977年)である。この書物と、長谷川の弟子の歴史学者水谷藤博の調査(『東海近代史研究』所載)により、事件の主犯、大島渚の姿が明らかになった。

大島渚は1849(嘉永2)年に名古屋で生まれた。士族もしくは商人の家柄だったらしく藩校(明倫堂)で学んだ。色白の美男子だったというが、17歳のとき、博徒にさらわれようとしていた娘を義侠心から助けようとして、博徒を護身用の短刀で刺し殺し、親に勘当されたことから博徒の道に入る。そして、命を救った娘たけと結婚した。

1868(慶応4)年、大島が客分の、尾張でもっとも戦闘的な博徒「北熊組」は戊辰戦争への参加を命じられ、近藤実左衛門組長以下50人は「集義隊」と命名された。大島はその2番隊長に任ぜられ、このとき、いままで与えられなかった「苗字」と「帯刀」を初めて許された。

大島渚らは激戦地である新潟長岡へと行かされ、現在公開中の映画『峠 最後のサムライ』(小泉堯史監督)の主人公、長岡藩家老河井継之助(役所広司)が率いる旧幕府軍と激戦を繰り広げる。この戦いでの博徒の戦死者数が一般藩士の4倍以上に上ったのは、博徒が藩士の弾除けとして雇われ、最前線で戦わされ、藩の犠牲を肩代わりさせられたからにほかならない。

明治博徒の悲劇

満身創痍で凱旋した大島渚らは「抜群有戦功」と讃えられ、その戦功により尾張藩の「常備兵隊」(藩の正規の軍人)として召し抱えられた。平民から士族に編入され、大島は妻たけと喜びを分かち合うが、71(明治4)年、新政府は「廃藩置県」を断行するとともに、諸藩の藩兵を解体。大島が属する尾張藩の常備兵隊も一部を残して解隊となり、大島らはふたたび平民に戻されたばかりか、わずかな一時金を支給されただけで路頭に迷うはめになる。

このとき、ほとんどの博徒が泣き寝入りしたが、大島はとうてい我慢ができず、藩権力に対して敢然と立ち上がった。みずからが総代(代表)となって博徒を取りまとめ、指物商、足袋職人、古着商などで糊口をしのぎながら、戦功による士族への編入と一時金のみで打ち切られた「俸禄」(給料)の引き続きの支給を求めた。県当局に日参し、埒が明かないと見るや東京の内務省までたびたび足を運び、請願運動を根気強く続けた。そして1878(明治11)年、大島らの7年にわたる運動はついに宿願を達し、旧集義隊員の博徒たちはようやく戦功を認められ、士族籍を与えられ、俸禄も以前のように支払われることが決まったのだ。

たけとの間にふたりの子供が生まれた大島は79年から81年まで、瀬戸市(愛知県)に居を構え、たけの弟、中条勘助とともに宿屋と呉服屋を営んだ。つかの間の幸せな時だった。82年から83年まで近藤実左衛門に命じられ博徒、岡島治郎吉のもとに草鞋を脱ぐが、その間、妻のたけが病死、大島は生まれたばかりの息子と娘を男手ひとつで育てなければならなくなった。

そんな折、自由民権運動の波が愛知県にも押し寄せる。愛知で初めての自由党系の政治団体「愛国交親社」が結成された。博徒の士族籍回復運動に成功した大島は、「自由民権運動で世の中が変えられる」とかたく信じた。そんな大島に愛国交親社は政府転覆計画を持ちかけた。

一方、1884(明治17)年、政府は全国で頻発する「激化事件」に博徒が加勢していることに気付き、博徒集団が持つ様々な武器を取り上げようと博徒の徹底弾圧を行なった。博徒から足を洗い、すでに公共事業家に転身していた清水次郎長ですら逮捕され、大島渚の周辺でも、親分の近藤実左衛門が投獄され、ついで義弟の中条勘助におよび、さらには寄寓していた岡島一家もが一網打尽にされた。

身内をすべて失った大島は、旧集義隊の仲間を集め、政府転覆計画の資金集めのため、高利貸、豪農、村役場などに押し込み強盗を働き、その資金で自由民権団体「公道協会」を設立するに至った。しかし、名古屋の平田橋で、強盗をした帰りの大島らを職務質問した警官2名を斬殺したことから、大島の犯行は警察の知るところとなる。

大島は、尾張の愛国交親社の蜂起の際には秩父困民党と連携しようと思い立ち東京へと向かうが、そこで逮捕される。強盗を示唆した愛国交親社員らは証拠不十分で全員無罪だったが、大島は87(明治20)年6月3日に名古屋監獄で絞首刑となった。享年38。公権力に翻弄された人生だった。大島の11歳の息子と8歳の娘のその後の消息はわからない。ただ、名古屋市平和公園には、2014年に大島の孫によって建立された新しい墓石があり、墓碑には大島渚の名前と享年が刻まれている。遺児を育てた親族が大島の思いや志を子や孫に語り継いだのだろう。

群馬事件から秩父事件へ

1884(明治17)年の群馬事件は、西南戦争で傾いた政府の財政再建と富国強兵のための経済政策が起点となった。その低米価政策と増税政策の煽りを最も受けたのが農民層であり、84~5(明治17~8)年には米価がそれまでの半分以下に暴落し、これと並行して地方税が増税されたため、税金はそれまでの3倍ぐらいの重さで農民にのしかかった。官憲は税金を納められない農民の土地を容赦なく競売にかけ、強制処分を受けた農民の数は全国で36万人に上り、彼らは先祖代々の土地を売り払い、流民となってしまった(藤野裕子『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』)。自由党員の小林安兵衛と三浦桃之助らは、こうした負債農民を組織し、軍事訓練を行ない、彼らを一斉に蜂起させ、84(明治17)年5月の上野・高崎間の鉄道の開通式に臨席予定の天皇に従う政府高官を襲撃し、一挙に政府を転覆させようと目論んだ。その際、同時に東京鎮台(連隊本部)高崎分営を襲撃する役目を、地元の博徒、山田平十郎(城之助)に頼む。

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