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小説「観月 KANGETSU」#49 麻生幾

第49話
松葉杖(1)

★前回の話はこちら
※本連載は第49話です。最初から読む方はこちら。

 再び担当医が現れて、理学療法士から松葉杖の使い方の指導を受けることを勧められた七海は二つ返事で応じた。

 それまで処置室でまったりとした時間をつぶしながら、再び、七海の中でふつふつとした怒りが込み上げてきた。

 涼が仕事で忙しいことはわかる。

 でも、田辺が見つかったのか、そうならもう大丈夫だとか、そうじゃないのなら、気をつけろ、とか声をかけてくれてもよさそうなものじゃない?

 しかし結局は、しょせん、そういう関係だったのかも、と投げやりの気持ちとなった。

 理学療法士から松葉杖の使い方の指導を受けた七海は、それでも涼へのわだかまりを引き摺りながらも病院前の乗り場からタクシーに乗って携帯電話を手にした。

 母に今日のことを伝えようと電話のアプリを立ち上げたその時、七海は、ハッとして顔を上げた。

 今になって初めてそのことに気づいた。

──涼が付き添うちょった、ストレッチャーじ運ばれた人、ありゃ、確か、熊坂洋平さんやったわ……。

 急病で救急搬送されたのだろうか。

 涼がいたということは、熊坂さんの取り調べはまだ続いていて、その中で、何か病気が発症したんだわ……。

 一瞬、涼にメールを送ってみたら、という声が頭の隅から聞こえたが、七海は大きく息を吐き出してから自宅へと電話をかけた。

「今日、これから帰るから」

 驚く母の声が七海の耳に聞こえた。

「風邪? そげなんやねえわ(そんなんじゃないわ)。大丈夫、ちょっと足を挫(くじ)いちゃっただけやけん。今、病院に行ってきた帰りなん」

 七海は精一杯明るい声で続けた。

「しばらく、バスで駅まで通うことになるわ」

 矢継ぎ早に質問を浴びせかける母の言葉に、七海は、

「じゃあ、後でね」

 とだけ言って一方的に通話を終えた。

 その直後だった。

 携帯電話に着信があった。

 ディスプレイに映ったのは、金原教授の名前だった。

 金原から電話がかかってくることは予想はしていたものの七海は準備をすることを忘れていた。

──なんて説明しようか……。

 必死に思考を巡らせてから、応答ボタンを押した。

「島津さん、大丈夫ですか?」

 心配そうな口調で金原が訊いてきた。

「すみません、ご報告をしようと思いながら──」

 七海の口から咄嗟に出た言葉はそれだった。

「そんなことはいいんだけど、怪我(けが)をしたって聞いたけど、どうなの?」

 東京生まれ、東京育ちで、東京の国立大学の教授をしていた金原が穏やかな言葉で尋ねた。

「お騒がせしてしまい申し訳ございません。幸い、捻挫だけでして──」

 金原が大きく息を吐き出す音が聞こえた。

「それは良かった……」

 明るい雰囲気でそう言った金原だったが、その後、暗い声となった。

「それで、田辺君のことなんだけど……」

「やはり、そちらにも警察が?」

 七海が訊いた。

 タクシーの運転手がルームミラーからチラッと視線を投げかけたことで、七海は、窓に身体を寄せて通話口を片手で被った。

「ああ。さっき二人の刑事さんが──」

「そうですか……」

 七海はそれ以外の言葉が浮かばなかった。

「君には本当に申し訳ないと思ってるんだ」

 金原のその言葉は想像していないものだった。

「すべては私の責任だ」

 金原の声が沈んだ。

「どういうことですか?」

 七海は戸惑いながら訊いてみた。

「ずっと心配していたんだ、こういう事態が起きることを……」

「心配?……」

「ああ……田辺君の性癖について、私はよく知っていたんだ……」

 七海は頭が混乱した。

「実は、田辺君が過去に性犯罪を犯していたことを私は知っていた」

 金原の言葉はさらに続けられた。

★第50話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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