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新連載小説「ミス・サンシャイン」#1|吉田修一

今月から、吉田修一さんの新連載小説『ミス・サンシャイン』を配信します。お楽しみください。

梅とおんな

 立派な石垣である。ちょっとした城壁の構えである。門の両脇に鎮座する厳(いかめ)しいソテツなど、金剛力士の阿形像と吽形像みたいである。

 この奥に、目指す「パレスマンション」があるのは間違いないのだが、往生際悪く、「本当にここかなぁ」と、岡田一心は石垣のまえを行ったり来たりしている。

 一心などと聞くと、実家が浄土真宗の寺かなにかで、将来は坊さんにでもなるのだろうかと思われそうだが、父は中堅電機メーカーの営業マン、母は手の込んだ料理を作るのが趣味の専業主婦であり、ちなみに実家の隣は寺ではなく小さな教会である。

 ならばこの一心という名前がどこから来たかといえば、ちょっとロマンティックな話になる。結婚まえに父が母へ書き送ったらしいラブレターのなかに、「一心に」という言葉があったそうで、どういう文脈だったのかはさすがに息子からは照れ臭くて聞けないが、母によれば、とても心を動かされる文章だったらしい。

 さて、金剛力士像のようなソテツのまえに突っ立ち、その一心が手に握りしめているのは、ここパレスマンションの住所が書かれたメモと、ゼミの担当教授からもらった紹介状なのであるが、いつもの癖でメモのほうはすでに紙飛行機に折ってしまっている。

 やっぱりここだよな……。

 一心は諦めるように呟くと、「よし」と、腹を決めて門をくぐった。

 この門構えなので、くぐったところで、親しみの持てるフツーのマンションが建っているわけもないのだが、門から奥へは茶室へでも繋がっているような石畳が伸び、広々とした敷地内には樹齢の古そうな樹々が生い茂っている。

 一見、ちょっとした公園である。いや、公園というか、すぐ近所にある皇居や北の丸公園や千鳥ヶ淵の深い森の一部が、台風かなにかでここまで飛ばされて来てしまったようである。

 このちょっとした森の先に、煉瓦造りの小ぶりなマンションが建っている。いわゆるヴィンテージマンションというやつで、近辺に林立している高層マンションとは一線を画している。

 マンション内のエントランスは薄暗かったが、掃除は行き届いている。青々とした観葉植物の葉やプランターの色とりどりな花、そしてピカピカに磨かれた床のタイルなんかを見ると、おそらく管理人さんが楽しんで仕事をしているのが伝わってくる。

 紙飛行機のメモを開いて部屋番号を確かめる。

 最上階の401。

 一つ深呼吸してオートロックのボタンを押すと、数回ほど呼び出し音が鳴ったあと、「はい」と聞こえてきた声は予想していたよりもずいぶん若々しい。

「おはようございます!」

 緊張もあって、部活の新入部員のような大声を張り上げてしまった。

「……あ、すいません。あの、岡田一心と申します。五十嵐先生からご紹介いただいて」

 自分の大声に自分でドギマギしながら続けると、「あら、もうそんな時間?」と、なぜかインターホンの向こうで相手も慌て出す。

「すいません、ちょっと早かったですか?」

「いえ、あたしが勘違いしてたのよ。……それよりあなた、お庭の梅、きれいだったでしょ?」

「え?」

「だから、おにわのうめ」

「え? 鬼は能面?」

「え? ……だから、外のお庭に咲いてたでしょ、梅のお花が」

 緊張もここまでくると自分でも笑ってしまうが、「ああ、庭かぁ」と振り返った目に飛び込んできたのが、見事に満開の白梅であった。瀟洒なマンションの造りばかりに気をとられ、真横を通ったのに気づかなかったらしい。

「どうぞ、入ってらして」

 インターホンが切られ、オートロックのドアが開く。

 一心は、「失礼します」と、切れたインターホンに応え、自動ドアのレールをなぜか踏まないように跨いだ。

 正面の大きなガラスの向こうに中庭があった。今は使われていないらしい噴水に枯葉が溜まっている。

 エレベーターの横にメールボックスが並んでいる。全部で十世帯ほどだろうか。

 401号室に「石田鈴」とある。ずいぶん薄れているけれども、元はいい万年筆のインクで書かれていたのだろう。

 ここ数日、ずっと耳にしていた「和楽(わらく)京子」という名前と違ったので一瞬戸惑ったが、昭和の大女優が芸名を表札に出すはずもない。

「いしだすず」と読むのか「いしだりん」と読むのか。どちらにしても、本名は少し地味である。

 ゼミの担当教授である五十嵐先生に声をかけられたのは、一心が学食でミックスフライのAランチにするか、五十円安い麻婆豆腐のBランチにするか、本気で悩んでいるときだった。

 すでに食べ終えて学食を出て行こうとした先生が、「あ、そうだ、岡田くん」と立ち止まり、「……君、今、バイトしてるんだっけ?」と尋ねる。

「やってないです。やってたら、Aランチに即決します」

 一心の返事を先生はさほど気にすることもなく、「君に紹介したいバイトがあるんだけど、興味ある?」と訊く。

「あります」

 ずっと居心地よくバイトしていた書店がビルの建て替えで閉店となり、店長からは他店舗を紹介してもらったのだが、自宅から電車を乗り継いで一時間かかる場所で断念したばかりだった。

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