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新大陸を手にいれたスペイン/野口悠紀雄

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※本連載は第28回です。最初から読む方はこちら。

 コロンブスの発見はインド新航路には結びつきませんでしたが、「新大陸の発見」という歴史を一変させるものでした。スペインは、トルデシリャス条約によって中南米のほとんどを手に入れ、ポルトガルをリープフロッグしました。

◆ここは新大陸であって、インドではなかった

 コロンブスは、1493年の9月に17隻1,500人で出発した2度目の航海の行く先々の島々で、原住民に対して虐殺、略奪、破壊を繰り返しました。

 1498年には、第3回航海で現在のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸しました。

 翌1499年には、アロンソ・デ・オヘダとアメリゴ・ヴェスプッチが、マラカイボ湖やマルガリータ島周辺を探検しました。

 コロンブスが新しい陸地を発見したことの意味は、現在では誰もが知っています。

 アメリカ大陸というヨーロッパにはまったく未知であった広大な土地の発見であり、アメリカ大陸の住民以外の観点からすれば、「新世界」の発見です。それは、人類の歴史を一変させる大発見だったのです。

 しかし、コロンブスは、自分が成し遂げた空前の偉業の意味を理解していませんでした。

 彼は、4回航海を行なったのですが、到達したのはインドだと、死ぬまで信じていたのです。

 3回目の航海でオリノコ川の膨大な水量が真水であったことから、ここが大陸であることを認めざるを得なかったのですが、それでも、発見したのはアジアの島だと主張しました。

 インドから数万キロも離れたカリブ海の島が「西インド諸島」と呼ばれるのも、アメリカ原住民が「インディアン」と呼ばれるのも、コロンブスの壮大な思い違いのためです。

 ところで、コロンブスがインドであると主張した土地が、実は、いままで発見されていなかった新しい土地だと主張する人々が現れました。

 ポルトガル王国のために1499年から1502年の間に2回航海したイタリア生まれの商人アメリゴ・ヴェスプッチは、コロンブスが発見したのは新しい大陸であると主張しました。

 彼は、ポルトガル王マヌエル1世の命で、新大陸に2回目の航海をしました。

 コロンブスが発見した地域は、彼の名をとって「コロンビア」と呼ばれるのが当然と思うのですが、そうなっていないのは、到達した地をインドだと考えていたからでしょう。このため、この土地には長い間名前が存在せず、スペイン人はインディアスと呼んでいました。

 その後、ヴェスプッチがここは新しい大陸だとし、これを公表したため、ドイツの地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーは、ヴェスプッチの名前のファーストネームをラテン語読みして、2つの大陸をアメリカと名付けました。

 こうして、新大陸は「アメリカ」と呼ばれるようになったのです。

 この「嘘のような本当の嘘の話」は、シュテファン・ツヴァイクの『アメリゴ  歴史的誤解の物語』(みすず書房)に書いてあります。

◆トルデシリャス条約により、新大陸がスペインのものとなる

 やがて、誰の目にも、ここはインドではなく、巨大な大陸であることが明らかになりました。

 そうだとすれば、コロンブスの発見はインドへの新航路の発見ではなかったのですが、別の意味できわめて重大な発見だったことになります。

 そして、トルデシリャス条約により、そのほとんどがスペインのものになりました。

 スペインの探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアは太平洋に接する陸地はすべてスペインのものと主張しました。

 当然のことながら、他のヨーロッパ諸国は、スペインとポルトガルだけで勝手に決めたトルデシリャス条約に対して、文句を付け始めました。

 イギリスとフランスは、16世紀にはアメリカ大陸に植民地を築こうとします。初めは失敗に終わったのですが、17世紀に入って、オランダも参加して植民地を築くことに成功しました。

◆マゼランが地球を周航


 新しく発見された陸地が大陸であるため、そこを船で通過してインドにゆくのは容易でない、ということが分かってきました。

 しかし、今度は、その困難に立ち向かおうという人々が現れたのです。

 マゼランは、スペインから西回りで香料諸島に到達できるルートが必ず存在すると信じていました。つまり、アメリカ大陸のどこかに海峡があると考えたのです。

 彼がなぜこのような信念を持ったのかは明らかでありませんが、手に入れた秘密の地図に海峡が記してあったからだと言われています。

 彼の目的も、地球の形状を確かめることでもなく、キリスト教を広めることでもなく、「金儲け」でした。「香料諸島に至る西回りのルートを見出すこと」、それが航海の目的だったのです。

 マゼランは、最初、ポルトガル王室に援助を求めます。しかし、断られ、スペイン王室に援助を求め、許可をえました。

 1519年8月10日にセビリアを出発。サンルーカル・デ・バラメーダ港で準備を整え、1519年9月20日に航海に出ました。

 しかし、彼の信念の根拠であった秘密の地図は、出鱈目でした。海峡と記されている場所にあったのは、巨大な川の河口だったのです。このため、彼の艦隊は、あてどのない絶望的な探索を、1年近く余儀なくされます。

 ようやく1520年10月21日、西の海へと抜ける海峡を発見。南米大陸の南端を回って太平洋に出たとき、彼は、それがどこまで続いているのかを知りませんでした。

 そして、苦難の航海の末に、1520年3月16日にフィリピン諸島に達したのです。

 これは重要な意味を持っていました。なぜなら、地球が周航できることが証明されたからです。

 ただし、マゼランのルートは遠周りすぎて、実際に香料諸島への貿易に使われたわけではありません。この航路が実際に用いられたのは、1849年にカリフォルニア・ゴールドラッシュが起こり、アメリカ東海岸から西海岸に到達する必要が生じたときです。

 ところで、16世紀初めに、ポルトガルは東回りでモルッカ諸島まで到達していました。ところが、スペインが派遣したマゼラン艦隊は、西回りでモルッカに到着したのです。

 このため、ポルトガルとスペインの両国は、みたび境界線を取り決める必要がでてきました。

 そして1529年に締結されたのが、前回述べたサラゴサ条約です。

 現在のフィリピンは、これによってスペイン領となりました。

 フィリピンとは、スペイン皇太子だったフェリペ(後の国王フェリペ2世)の名前にちなんでつけられたものです。

◆コンキスタドールによる残虐な征服

 スペインは、最初はカリブ海の島嶼を征服していたのですが、次第にその領土を拡大していきます。

 16世紀にアメリカ大陸制圧を担ったスペイン人は、コンキスタドール(征服者)と呼ばれます。

 彼らは、武装した兵士を引き連れて新大陸に侵入し、火砲と騎兵を用い、暴虐の限りを尽くし、虐殺など非道な手段をとり、征服活動を展開しました。

 その結果、ラテンアメリカのインディオの文明は破壊されました。

 アステカ人やインカ人が簡単に制服されてしまったのは、一つには、馬や鉄砲という彼らが知らなかった武器に圧倒されたためです。

 しかし、理由は、それだけではありません。もう一つ重要なのは疫病です。

 ヨーロッパ人は,新大陸に天然痘などの疫病を持ち込んだのです。これに対して白人は免疫をもっていましたが、インディオは持っていなかったため、抵抗力がなかったのです。

 疫病の大流行は、何度も生じました。天然痘が、1518年、1521年、1525年、1558年、1589年、チフスが1546年、インフルエンザが1558年、ジフテリアが1614年、そしてはしかが1618年といった具合です。

 これによって、どの程度の被害があったのかは必ずしもはっきりしないのですが、先住民族人口のうち1,000万人以上が死亡したのは間違いないと言われます。人口が95%から98%も減少したという説もあります。

 こうした話は、新型コロナウィルスが猛威を振るっているいま聞くと、本当に恐ろしいことだと思います。

 人口減少によって社会的混乱と政治的な崩壊が起こり、コンキスタドールによる征服と植民地化が容易になったのです。

 メキシコのアステカ帝国は、1519年から1521年の間に、エルナン・コルテスによって征服されました。そして、インカ帝国が1532年から1535年の間にフランシスコ・ピサロによって征服されました。

◆ラテンアメリカを形成したスペイン

 征服後、スペイン人を頂点とする植民地支配体制が中南米に確立されました。

 スペイン人たちは圧倒的な社会的、経済的な力をもち、スペイン人の文化こそが至上のものであるとしました。

 さらに、アフリカ大陸から多数の黒人奴隷が連行され、フロリダ半島からラプラタ川に至る各地で、黒人が家内労働やプランテーションでの重労働に使われました。

 この征服によって中南米社会の様相は一変しました。白人優位の社会構造は、現在に至るまで続いています。

 この地域は、19世紀半ばから「ラテンアメリカ」と呼ばれるようになりました。

 同じ時期に、ポルトガルは南アメリカの東部を征服し、ブラジルと名付けました。

 前回述べたように、ポルトガルが制服したのは点です。それに対して、スペインは広大なラテンアメリカのほぼすべてを制服したのです。

 こうして、スペインは、ポルトガルをリープフロッグしました。

(連載第28回)
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■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。
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