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日本の急速な工業化は、超効率的なキャッチアップだった/野口悠紀雄

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※本連載は第36回です。最初から読む方はこちら。

 日本は明治維新で国家体制を一新し、急速な工業化に成功しました。これは、「リープフロッグ」というよりは、「キャッチアップ」です。

 もっとも、部分的ではありますが、先進国を超えた部分もあります。その過程で、政府が作った高等教育機関や軍などの国家組織が、重要な役割を果たしました。

◆リープフロッグというよりはキャッチアップ


 第2次産業革命の過程に、少し遅れて、日本も加わりました。

 日本の国家体制は明治維新で大きく変わりました。これが中国との大きな違いです。そして工業化に成功し、欧米列強と肩を並べるまでになったのです。

 ただし、これは、「リープフロッグ」というよりは、「キャッチアップ」というのが適切なプロセスでした。

 この違いについては、すでに、本連載の第12回「中国の成長は、これまでの経済発展論では理解できない」で説明しました。

 先進国ですでに導入されている技術を導入した場合がほとんどで、日本が自ら新しい技術を開発したわけではなかったからです。

「新しい技術を自ら開発して古い技術に囚われている先発国を追い抜いた」というよりは、「先発国で開発された技術を導入して、先進国に追いついた」という面が強かったのです。

 後発国は、新技術の発明と開発に必要な多大のコストを負担することなしに新しい技術を用いることができます。したがって、先進国より簡単に経済成長を実現することができるのです。

 明治維新後の日本の工業化が急速だったのは、それがキャッチアップ過程だったからです。

 ただし、イギリスと違って、第1次産業革命を基礎とした産業や社会体制が確立していなかったのは事実です。したがって、イギリスにおけるように古い技術と社会構造が、新しい技術の導入の妨げになるということはありませんでした。その意味では、リープフロッグ的な要素があったと言うこともできます。

◆日本海海戦を勝利に導いた下瀬火薬と伊集院信管

 しかも、単に追いついただけでなく、日本が先進国を追い抜いた面もありました。

 日露戦争での勝利は、その典型的な例だったと言えるでしょう。とくに、1905年の日本海海戦において、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅したことです。

 この過程で、日本人が開発した技術が大きな役割を果たしたのです。

 それは、「下瀬火薬」と「伊集院信管」です。

 司馬遼太郎『坂の上の雲(八)』「運命の海」(文藝春秋)によると、つぎのような状況でした。

 「最初の鞄は、スワロフを飛びこえて海中に落ちた。こういう場合、ロシアの砲弾なら水没して長大な水煙をあげるだけだが、日本の砲弾はその鋭敏な伊集院信管によって海面にたたきつけられると同時に海面で大爆発するのである。このため艦隊に命中しなくても弾体は無数の破片になって艦上を襲った」
「戦艦アリョールの艦上で、日本の戦艦がぶっ放してくる砲弾をみていたノビコフ・プリボイは、『飛んでくる水雷のようだ』と言い、また巡洋艦オレーグの艦上にいたS・ポソコフという士官は、『これは砲弾という機雷である。炸裂すると不消散質の煙をぱっと撒き、海中に落ちてさえ破片がとんでわれわれに被害をあたえた』と、書いている」

 下瀬火薬は、純粋ピクリン酸を砲弾の炸薬に使ったものです。これに最初に成功したのは、フランス人のE・テュルパンですが、大日本帝国海軍技師の下瀬雅允(1860年~1911年)がこれを改良しました。

 砲弾の内壁に漆を塗り、さらに炸薬を紙筒の中に入れることによって、純度の高いピクリン酸を炸薬とすることに成功したのです。

 この火薬を効果的に用いるためには、すこしの衝撃でも敏感に作動する信管が必要でした。

 このために用いられたのが、海軍少将の伊集院五郎(1852年~1921年)が開発した「伊集院信管」です。

 伊集院信管はきわめて鋭敏で、砲弾が海面に落下したり、マストに張られた綱に当たったりしただけでも爆発したといいます。

 伊集院は、海軍兵学寮幼年学舎から海軍に入り、イギリスの海軍兵学校と王立海軍大学 (Royal Naval College)で兵学を学んでいます。つまり、留学生組です。また、下瀬は、工部大学校の応用化学科の卒業生です。

◆欧米にはなかった工学教育のための高等教育機関


 工部大学校は、明治政府が設立した、工学教育のための高等教育機関です。東京大学工学部の前身の一つです。

 1873年9月に学生募集が行われ、11月に開校しました。イギリスから優秀な教師が招聘され、授業の多くは英語で行われました。

 下瀬は、応用化学科第6期生で、爆薬の他に、紙幣用のインキも開発しています。

 日本の急速なキャッチアップのために工部大学校が果たした役割は、大変大きかったと考えられます。

 ところで、大学に工学部があるのは、遅れて産業化に着手した日本の特殊事情です。

 日本の大学に工学部があるのは普通のことですが、ヨーロッパの大学には、伝統的に工学部はありませんでした。アメリカでも、東部の伝統的な大学では、ヨーロッパの伝統にしたがって、工学部はなかったのです。

 これらの国では、エンジニアリングの教育は、大学よりは格下の教育機関であるTechnische Hochschule (技術高等学校)で行なわれていました。「実用的教育は、大学が行うべきものではない」と考えられていたからです。

 例えば、アインシュタインの卒業校は、日本では「チューリッヒ工科大学」と訳されていますが、正式な名称はEidgenössische Technische Hochschule Zürichです。

 また、日本で「マサチューセッツ工科大学」と呼ばれている学校は、Massachusetts Institute of Technologyです。どちらも現在では大学レベルの教育機関ですが、もともとは大学(Universität)よりは格下の教育機関とみなされていました。

 アメリカで、最初に工学部を設立した大学は、スタンフォード大学です。それは、創設者であるカリフォルニアの鉄道王、リーランド・スタンフォードの「大学でも実用的な知識を教えるべきだ」との考えによります。
 この考えは、当時のアメリカでは、きわめて異端のものでした。

◆低学歴だったアメリカの発明者、事業創始者

 前回、アメリカの第2次産業革命を推進した人々のことを述べました。これらの人々のほとんどは、高学歴者ではありません。

 コーネリアス・ヴァンダービルトは、11歳で学業を離れ、ニューヨーク港で父のフェリーで働き始めました。そして、16歳で自身のフェリー業を始めました。

 ジョン・デイヴィソン・ロックフェラーの学歴は高校まで。その後、商業専門学校で10週間のビジネスコースを受講し簿記を学んだと言われます。16歳のとき、簿記助手の職を得ました。

 アンドリュー・カーネギーはスコットランドで生まれ、両親と共にアメリカに移住し、工場で作業員として働いていました。その後、電信会社で電報配達の仕事に就きました。働き者で、仕事に熱心でした。当時は、受信したモールス信号を紙テープに刻み、そのテープを解読していたのですが、カーネギーはモールス信号を直接に耳で聞き分ける特技を習得し、電信技士に昇格しました。

 本を買うこともできませんでした。近くに住んでいた篤志家が、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人蔵書を開放していたので、カーネギーは熱心にそこに通いました。

 カーネギーは、引退後の人生を慈善活動に捧げ、教育、科学研究などに多額の寄付をし、公共図書館の設置に力を入れました。2,509もの図書館を建設したのですが、それは、少年時代に利用した個人図書館への恩返しだったのでしょう。

 トーマス・エジソン も同じような経歴です。小学校で教師と騒動を起こして、3か月で中退してしまいました。このため正規の教育を受けられず、図書館などで独学しました。新聞の売り子として働いて得たわずかな金を貯め、自分の実験室を作りました。16歳のころには電信技士として働くようになり、様々な科学雑誌を読んで学び続けました。

 ヘンリー・フォードも大学教育は受けておらず、独学で機械工学を学びました。ミシガン州の農家に生まれ、1879年に高校を中退し、デトロイト で機械工となりました。1891年にエジソン電気会社の主任技師となりました。そこで自分の時間を使うことができるようになったので、内燃機関の実験を進め、1896年に 第一号車の製作に成功したのです。

 これらの人々に比べると、日本の明治時代に工業化をリードした人々のほうが、はるかに高学歴です。留学生であったり、政府が作った高等教育機関の卒業生であったりします。しかも、軍などの大組織に属し、その中で出世しています。

 下瀬は、最初は内閣印刷局に就職。その後海軍技手となり、海軍技師に昇任し、火薬製造所長になりました。そして、工学博士です。伊集院は、日露戦争後に第二艦隊司令長官、第一艦隊司令長官となり、海軍軍令部長を歴任しています。

 能力ある人間を国が教育し、組織で保護して、思う存分に仕事をさせる。これは、先進国へのキャッチアップを最も効率的に行なう仕組みだったといえるでしょう。

(連載第36回)
★第37回を読む。

■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。


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