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アイルランドは、技術で豊かさと自由を手にした/野口悠紀雄

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※本連載は第16回です。最初から読む方はこちら。

 アイルランドには昔からの景観も美しい自然も残っています。他方で、世界一豊かな国となっています。新しい情報技術を活用したために、こうしたことが可能となりました。日本は、アイルランドを手本にして経済構造の改革を考えるべきです。

◆「静かなる男」の町並みが残っている

 映画「静かなる男」(1952年)の舞台になったのは、アイルランド西部にある「コング」(Cong)という町です。当時のハリウッドでは珍しく、現地ロケが行われました。

 この小さな町は、Google マップで検索すれば、すぐに見つかります。Googleストリートビュー で、町を歩き回ってみることもできます。

 驚くべきことに、映画に出てくるPat Cohanというパブが、映画のままの姿で今でもあります。

 道も、映画の様子とまったく変わりません。違うのは、1952年には一台もなかった自動車が見えることだけです。

 映画では、ショーンとメアリ・ケイトの2人(ジョン・ウェインとモーリン・オハラ)が乗った自転車が、Cohanを過ぎて、道を下っていきます。Google ストリートビューでそのとおりに下ると、静かで美しい道が続いており、清流が流れています。

 メアリ=ケイトが兄と一緒に住んでいた家も、「ダナハ・ハウス」という名で、映画と同じ姿で残っています。

 この町の名は、映画では「イニスフリー」になっていますが、現実にはそうした名の町は存在しません。

 「イニスフリー」というのは、ウィリアム・バトラー・イェイツの詩に出てくる湖の島です。

 その島は実在し、ギル湖(ロッホ・ギル)にあります。コングの北東100キロくらい。このあたりは、スライゴーといいます。

 映画には、メアリ=ケイトがThe Isle of Innisfreeを歌う場面があります(吹き替えですが)。この歌はCeltic Womanのシリーズにも収録されている非常に美しい歌です。歌詞は映画とCeltic Womanで違いますが、私は映画のバージョンのほうが好きです。

 Oh, Innisfree, my island, I’m returning
 From wasted years across the wintry sea.
 And when I come back to my own dear Ireland,
 I’ll rest a while beside you,gradh mochroidhe.

◆美しい景観が残った


 「静かなる男」のパブやイニスフリー島のことを書いたのは、アイルランドが昔からの美しい景観を維持しながら、なおかつ経済的な豊かさを実現したことに注目したいからです。

 経済発展のために自然環境や伝統的景観を犠牲にするのは止むをえないことと、これまで考えられていました。

 しかし、これらが両立できるように、技術が変わりました。アイルランドは、それを実証しているのです。

 技術の変化とは、情報技術の進展です。それによって、製造業に依存しなくとも、IT産業や金融業などの高度サービス産業によって一国の経済を維持できるようになりました。

 アイルランドは、その段階に至る過程で工業化を経験しなかったために、つまり、リープフロッグしたために、自然や伝統的景観が残されたのです。

 アイルランドに製造業はありますが、重化学工業や装置産業ではなく、薬品製造業が中心です。そのため、工場によって環境を破壊されることがなかったのです。

 リーマンショック後の住宅バブル崩壊によってアイルランドの経済成長率が低下したため、「アイルランド型の経済成長は一時的なあだ花に過ぎなかった」、「やはり病人に後戻りするのか」との見方が広がった時もあります。

 しかし、アイルランドはすぐに高い経済成長率を取り戻し、現在は、世界一豊かな国の地位をルクセンブルクと競うようになっています。

 このようなアイルランド経済の復活を見れば、「アイルランド型の経済成長」は、決して一時的なあだ花ではなく、新しい時代の経済発展のモデルを示していることが分かります。

 産業革命的な技術社会を形成しなくても新しい産業社会を築くことができるということを示した点で、アイランドの経済成長は、歴史的にみて、極めて重要な意味を持っているのです。

◆ルクセンブルクと同じ点と違う点
 

 ルクセンブルクも、アイルランドと同じタイプの経済発展を実現しました。

 両国の産業構造はよく似ています。

 ルクセンブルクはヨーロッパの金融業の中心地の一つですが、アイルランドのダブリンもそうです。

 イギリスのEU離脱後にダブリンに本拠地を置こうとして、100社以上の金融機関が法人設立を申請しています。

 しかし、国の大きさは、大分違います。ルクセンブルクは、人口が約60万人、国土面積は約2600平方キロしかありません。この面積は神奈川県と同じ位です。

 つまり、「国」というよりは「都市」というほうが適切なのです。シンガポールや香港と同じであり、日本をはじめとする普通の国とは異質です。

 それに対してアイルランドは、人口が約500万人、国土面積は約7万平方キロです。小国とはいえ、その面積は日本(約38万平方キロ)と比較ができるほどの大きさです。

◆日本も中国も工業化で環境を破壊した

 多くの国は、工業化の過程で、それまでの環境を破壊しました。

 日本は、その代表例と言えるでしょう。日本にも昔は美しい景観がありましたが、高度成長期の工業化の過程で、それらの多くが破壊され、失われました。

 臨海部は埋め立てられて工場団地となりました。北海道では、美しい原野と湿地帯がつぶされて苫東産業用地となりました(が、計画どおりに工場を誘致できず空地が広がっている状態です)。

 同じくリープフロッグを実現したといっても、アイルランドと中国は、工業化の点では大きく違います。

 中国は工業化を実現しました。2000年代の初め頃までの経済発展は、従来型の製造業の成長によってもたらされたのです。そして、中国は世界の工場となりました。

 しかし、それによって大気汚染などの深刻な環境破壊がもたらされました。また、各地に工場が建設されたことで、景観も大きく破壊されたことでしょう。

 しかも、中国は、社会主義時代に歴史的な景観を破壊し、とくに文化大革命では徹底的な破壊を行ないました。このため、都市は無愛想な高層ビルが立ち並ぶ光景になってしまっています。

 アイルランドは、工業化社会をほぼ完全に飛び越えたという意味で、純粋なリープフロッグを実現したということができます。

◆中国はモデルにできないが、アイルランドはモデルにすべきだ


 景観だけではありません。もっと重要なのは、経済的な豊かさが自由をもたらしたかどうかです。

 中国の場合には、顔認証技術や信用スコアリングなどの先端的なAIの技術が、経済発展をもたらす半面で、国民管理の道具に用いられる危険があるのです。

  「危険がある」というより、現実にそうした利用が始まっていると考えることもできます。

 それに対してアイルランドは、経済的な豊かさを手にしただけでなく、自由をも手にしています。

 アイルランドでそれが可能になったのは、そのための基盤である高い教育水準と社会秩序と文化が存在していたからです。

 高い文化水準は、アイルランドが輩出した文学者たち、オスカー・ワイルド、ジェームズ・ジョイス、ウィリアム・バトラー・イェイツ、ジョナサン・スウィフト、バーナード・ショー、サミュエル・ベケットを見ても明らかです。

 トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)は、世界で最も歴史のある大学の一つです。

 アイルランド国民のほぼ半数が学位以上を保有しており、アイルランドの教育制度は、経済の競争を支える力でアメリカを抜いて世界第9位です。

 アイルランド語であるゲーリックは英語とはまったく違う言語ですが、国民の誰もが、自国語と同じように英語を話せます。そのため、英語も公用語としており、グローバリゼーションを実現しています。

 IDA(アイルランド政府産業開発庁)は、そのホームページでつぎのように言っています。

 (アメリカからアイルランドに進出するアメリカのIT企業にとって)ダブリンは祖国によく似ている。若い高学歴の従業員、グローバルな企業風土、ニューテクノロジーを渇望する国民、そして地平線の先にはツイッターやフェースブックの姿が見える。

 そして、ダブリンを「第2のサンフランシスコだ」と言っています。

 他方で、日本経済の沈滞ぶりは、目を覆わんばかりです。OECDのリストを見ると、雇用者一人あたりGDP で、すでに韓国やトルコに抜かれています。

 金融緩和や財政出動などといってごまかすのではなく、経済構造の改革を真剣に考える必要があります。

 中国はさまざまな点で日本と条件が違いすぎるので、日本は中国をモデルにすることはできません。また、すべきでもないでしょう。

 しかし、アイルランドをモデルにすることはできます。

 例えば、道州制を導入し、全国を5つの道と州にしたとすれば、一つはアイルランドと同じくらいの面積になります。これらの各々に独立国並みの自由度を与えることとすれば、新しい発展が期待できるかもしれません。

 アイルランドは、もっと研究の対象にすべき国でしょう。

(連載第16回)
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■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。
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