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小説「観月 KANGETSU」#36 麻生幾

第36話
熊坂洋平(9)

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「彼女たあ、島津七海んことか?」

 涼が熊坂の手を払い除けて訊いた。

「なし危険なんや?」

 強引に振り向かせた正木が追及した。

「早う帰しちくれ。そうでねえと──」

 椅子からズリ落ちた熊坂は床にへたり込んだ。

 正木がすぐにその前にしゃがみ込んで熊坂の顔を両手で挟んだ。

「島津七海と、あんたん奥さんの事件は関連するんやな?」

 正木が急いで訊いた。

「犯人は彼女の近くにいる。やけんわしが守っちゃらないけん──」

 熊坂はそれだけ言うと、両手で頭を抱え込んだ。

 涼が、熊坂の体を抱えて椅子に座らせた時、調べ室のドアにノックがあった。

 ドアが開いて、顔を出した捜査本部の刑事が正木を手招きで呼んだ。

 戻ってきた正木が熊坂に声をかけた。

「ちいと用がある。お茶でも飲んじ気分を落ち着けたらいい」

 正木は、書記係の刑事に頷いてから涼を連れて廊下に出た。

「警視庁から2人来た」

 正木はそれだけ言うと涼の先を歩き出した。

 正木の後ろから涼が会議室に足を踏み入れると、2人の男が椅子から立ち上がった。

「萩原警部補です」

 鼻筋の通った男がそう言って名刺を差し出した。

「砂川巡査長です」

 目を輝かせた若い男が頭を下げてから名刺を交換した。

「さっそくですが、熊坂洋平は、今、どちらに?」

 萩原が真っ先に訊いた。

「調べ中です」

 正木が即答した。

「では身柄は?」

 萩原が身を乗り出した。

「こちらにあります」

 正木がそう応じてから続けた。

「熊坂洋平につきましては、現在、追い込んじょん最中につき、会って頂くこたあどうか明日までお待ちください。今日は別府の湯につかっち、明日からの鋭気を養うち頂けりゃーー」

 口を開きかけた萩原に正木が先んじて言った。

「こん首藤がご案内いたします」

 涼は驚いた表情で正木を見つめた。

 だが正木はにこやかな表情を警視庁の2人に投げかけていた。

10月7日  別府国際大学

 七海は、校舎の柱の陰からじっと見つめていた。

 今日は、午前10時から、考古学教室での打ち合わせがある。

 時間を守ることには律儀な“アイツ”のことである。余裕を持って30分前には着くはずだ。

 “アイツ”が車で通勤していることは知っていたが、車種までは知らない。

 しかし、そう広くもない、この職員専用の駐車場なら確実に見つけることができると七海には自信があった。

 ただ、昨夜、窓越しに見た、あの車が“アイツ”のものであるかは100パーセントの確証はない。言わば賭だった。

 七海は腕時計へ目をやった。

 午前10時まで、あと5分しかない。

──“アイツ”は今日休むつもりなんか……。

 このままここにいたら、自分が、打ち合わせに遅れてしまう。

 だが、打ち合わせの時間まで3分を切った時、七海は決断した。

 やはり遅刻をしたくなかったからだ。

 溜息を吐き出した七海は校舎の入り口へ足を向けた。

 ふと気配がして振り返った。

 1台の、白色の乗用車が駐車場に入ってきた。

 七海の目はそこへ吸い寄せられた。

 ナンバープレートだ。

──5567!

 間違いない! 

 昨夜、自宅の前から発進した車と同じ番号だ!

 その他の記号までは覚えていないが、こんな偶然はあり得ない、と七海は確信した。

(続く)
★第37話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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