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ポルトガルとスペインが世界を二分する/野口悠紀雄

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※本連載は第27回です。最初から読む方はこちら。

 東回りのインド航路を開発しつつあったポルトガルにとって、コロンブスが西回りでインドに到達したとのニュースは大きなショックでした。ポルトガルとスペインはトルデシリャス条約によって世界を二分したのですが、これは、結果的にはスペインがリープフロッグする条件を作ってしまうことになります。

◆到達したのは、インドでなくアメリカだった

 コロンブスの第1回航海は、1492年に行われました。8月3日にポルトガルのパロス港の近くサルテス川の河口から出航。大西洋からインドを目指したのです。 3隻の帆船と約90人(120人との説も)の乗組員。最大船であるサンタ・マリア号の全長は 24 mでした。100トン以下と推定されます。あとの2隻はニーニャ号とピンタ号というカラベル船(15世紀に生まれた3本マストの帆船)で約60トン程度。

 鄭和の大航海は、400隻近い大船団と3万~4万人の人員によって行なわれたことを思い出してください。最大の船である宝船は、9本のマストをもち、全長が約130m、全幅が約50mもあったのです。

  これに比べると、コロンブスの船団はおもちゃのようなものです。

 航海は予定を越えた長いものとなり、乗組員が不安を感じるようになります。10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後に不安は頂点に達しました。コロンブスに「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させました。コロンブスは流木などを発見し、陸が近くにあると船員を説得します。

 10月11日の日付が変わろうとするとき、ピンタ号の水夫が未知の島を発見しました。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島(聖なる救世主の島)と名づけました。

 コロンブス一行は、アラワク族インディアンたちから歓待を受けます。

 コロンブスは、ついにインドに到達したと考えていました。

 このため、発見した諸島は、「西インド諸島」と命名されたのです。

 コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見しました。ここを「フアナ島」と名づけたあと、1月16日、スペインへの帰還の途につきます。そして、3月15日にパロス港へ帰還しました。

 コロンブスは、さらに西方に船を進めれば、あと2、3日の航海でガンジス河口に達することができると、固く信じていました。

 しかし、コロンブスは、実際にはインドには到達していなかったのです。

 コロンブスは、インドとの交易に関しては、何も新しいものを産み出しませんでした。

 つまり、彼の「発見」は、ポルトガルの通商上の権益を侵すことはなかったのです。

「インドへの航路で先をこされた」とのポルトガルの驚きは、杞憂に過ぎなかったのです。

 しかし、この発見は、別の意味できわめて重要なものでした。

 そこがインドかどうかは別として、スペインが派遣した艦隊が新しい陸地を「発見」したのは疑いない事実ですから、その地にスペインの権利を認める必要があるからです。

◆エテルニ・レギスと1493年の教皇子午線

  ポルトガルは、もともと、スペインとの領土獲得競争が起きることを予期し、これへの対抗策を講じていました。

 そして、エンリケは、賢明にも1481年に教皇シクストゥスⅣ世の回勅「エテルニ・レギス」を得ていました。

 これは、「ボジャドール岬(北緯26度。カナリア諸島のすぐ近く)の先で発見される地はすべてポルトガルに属する」という教皇の認可です。

 したがって、仮にスペインが新世界の発見競争に乗り出してきても、ポルトガルには保証があったのです。

 ところが、コロンブスが新しい陸地を発見した。スペインとポルトガルの両国は、どちらも、その土地への排他的権利を確保する必要がありました。ポルトガルは、コロンブスの航海はポルトガルの支配領域を侵していると主張していたからです。

 また、今後発見されるであろう新たな土地についても両国間の対立が予想されました。そこで、ローマ教皇の調停を求めたのです。

 この結果が、1493年の「教皇子午線」です。

 アフリカのヴェルデ岬西方の子午線で、大西洋のアゾレス諸島とヴェルデ諸島の間の海上を通過する経線の東をポルトガル、その西をスペインの勢力圏としました。

 ローマ教皇がスペイン出身だったこともあり、これはスペイン側に有利な裁定でした。このため、ポルトガルのジョアン2世は強い不満を抱きました。

 結局、両国が直接に再交渉することを望み、1494年にトルデシリャスにおいて交渉が開始されました。

◆1494年トルデシリャス条約

  両国は予想外に早く妥協点を見いだし、教皇子午線をさらに西方に移動させることで修正が成立しました。西経46度37分を分界線とし、そこから東で新たに発見された土地はポルトガルに、西で発見される土地はスペインに権利が与えられることとなったのです。

 これが、「トルデシリャス条約」です。

   人間が住んでいる土地の帰属を2国だけで分けようというのですから、考えてみれば、とんでもない話です。
 
 当時の人々の頭の中で、世界がどのように捉えられていたのでしょうか?

 コロンブスが西回りでインドに達したというのですから、世界は平面でなく、周回できる形、つまり球だという認識はあったはずです。

 ただし、コロンブスが考えていたように、「アメリカ大陸」という概念はなく、キューバから少し西に進んだところにインドがあると考えられていたのでしょう。

 だから、ポルトガルは、インドまでの間のほんの少しの土地をスペインに与えたと考えていたのではないでしょうか?

 そして、ポルトガルとしては、東回りでアジアに到達する。そして、すでに人々が住んでいる地をポルトガル領にする。

 ジョアン2世の時に、すでにバルトロメウ・ディアスの派遣が試みられており、喜望峰発見によってインド航路開拓の見通しはついていました。

 ポルトガルのマヌエル1世が、バスコ・ダ・ガマを派遣したのは、このためです。

◆トルデシリャス条約によって、アメリカ大陸のほとんどがスペイン領になった

 もっとも、いかなる世界認識でこの線を引いたのかは、はっきりしないところもあります。

 もし地球が球体なら、アジアにもう一本の境界線が必要になるからです。

 16世紀初めにポルトガルは東回りでモルッカ諸島(現在のインドネシア)まで到達したため、スペインは西回りでその地を目指し、マゼラン艦隊を派遣、その一部もモルッカに到着したため、ポルトガルとスペインの両国は、みたび境界線を取り決める必要がでてきました。そこで、1529年に締結されたのが、サラゴサ条約です。これによって、ニューギニア島中央部を通る子午線を第2の境界としました。

 余談ですが、1982年、フォークランド諸島(マルビナス諸島)の領有を巡って、イギリスとアルゼンチンの間で紛争が勃発したとき、アルゼンチンは、同諸島の領有正当化の根拠として、トルデシリャス条約を持ち出しました。

 アルゼンチンはスペイン植民地から独立したので、同諸島を相続したという論理です。

 しかし、その論理はイギリスには通用せず、イギリスは空母「インヴィンシブル」(無敵)を差し向けました。「インヴィンシブル」という名は、スペイン艦隊につけられた名です。まるで、400年前の紛争を蒸し返しているようです。

◆トルデシリャス条約でアメリカ大陸がスペインのものになる


 トルデシリャス条約は、予期せざる重大な結果をもたらしました。この時引いた線は、アメリカ大陸のほとんどをスペインのものにしたからです。

 このため、中南米がスペインの植民地となりました。

 メキシコから太平洋に出ることが可能となり、フィリピンもスペインの植民地となりました。

 ポルトガルは東方進出の過程でいくつかの領土を獲得したのですが、ギニア、セイロン、ゴア、マカオ、ティモールなど、「点」に過ぎません。それに対してスペインは、広大な「面」を得たのです。

 この違いは、まことに大きなものです。南米でポルトガルの支配下になったのは、ブラジルだけです。

 しかし、ブラジルからは太平洋に出られません。ポルトガルは、南米の植民事業から事実上締め出されたのです。

 ポルトガルはスペインにリープフロッグされる結果となりました。

 このような結果となったのは、2つの理由があります。

 第1は、広大なアメリカ大陸の存在を認識できなかったこと。

 第2は、ジョアン2世がコロンブスを退けたことです。

 もしポルトガルがコロンブスを支援したら、どうなっていたでしょう? スペインの出る幕はなく、中南米はすべてポルトガルの植民地になったはずです。

 世界の歴史は大きく変わっていたでしょう。「歴史にifはない」とされるので、こんなことを論じる歴史の本はありません。こうした空想を巡らせるのは、歴史の専門家ではない私の特権です。

(連載第27回)
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■野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、 スタンフォード大学客員教授などを経て、 2005年4月より早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。 2011年4月より 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問。一橋大学名誉教授。2017年9月より早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問。著書多数。
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