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藤原正彦 愛とディスタンス 古風堂々32

文・藤原正彦(作家・数学者)

ソーシャルディスタンスとは、「感染拡大を防ぐため距離をとること」の意だが、臆病かつ律義な私は新型コロナが下火になる最近までこれを厳格に守り、息子達さえ我が家に来させなかった。孫に会いたくなると広々とした公園の芝生でランチをとったり、お盆に墓参りを兼ね山荘に全員集合した時は、PCR検査陰性を参加条件としたほどだ。会議、会合、講演、インタビュー、打合わせなども可能な限りズームでこなした。行きつけのジムやギョーザ屋やそば屋にも行かなかった。秘かに慕情や激情を抱く女性達とも会わなかったのは、ソーシャルディスタンスを保てない自信があるからだった。こんな生活の中で、ソーシャルディスタンスが人や物や場所への愛着を確実に弱めることをしみじみ知った。

振り返ると私は、新型コロナよりずっと以前からソーシャルディスタンスに翻弄されてきた。日米英の大学で40年間、しかもそのうち30年余りは女子大で教え、研究室を訪れる実に様々な学生達に対処してきたからである。ゼミの学生、数学に関する質問や人生相談の学生、中には成績の交渉や著書へのサインをもらいに来る者、そして私の放つフェロモンに目眩いを起こした者までいた。そう言えば息子の写真を見せてくれと言って来た女子学生もいた。ゼミや質問なら黒板で説明できるから距離は考えなくてよい。それ以外は危険に応じて距離をとることになる。要注意は試験が不出来で単位を落としそうな学生である。彼等は大てい私の近くに寄り小声で話すことが多いのである。

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