西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#27
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西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#27

最終章
See You Again

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 1999年、初夏。

 物心ついてから繰り返し話題にされてきた「ノストラダムスの大予言」では、1999年7の月に「恐怖の大王」が訪れ、人類が滅亡すると言われている。どこか冷笑的な冗談混じりであるにせよ、半年後に必ず到来する「2000年問題(Y2K)」、つまりコンピュータの誤作動による大混乱の予想と合わせて未来に対するほのかな不安とかすかなる興奮が世界を薄ぼんやりと包んでいた。

 6月30日水曜日。前年、すでに解散していたエレクトリック・グラス・バルーン(エレグラ)の総決算的なベスト・アルバム《ワースト・バンド・イン・ザ・ワールド》がリリースされた。キャリア集大成となるキャッチフレーズのタイトルが「世界最低のバンド」とは、ヴォーカルとサイド・ギターを担当していたフロントマン杉浦英治さんらしい最高のネーミングだ。英治さんは数年前からクラブ仕様のプログラミング・ミュージックに興味の重心を移しており、徐々に、そして末期は傍から見ても決定的なまでにロック・バンドというフォーマットへの関心を失っていた。思い返せば、僕が初めて下北沢CLUB Queを訪れた1995年の春からすでに4年の日々が過ぎている。オリジナル・メンバーの丸山晴茂さんが脱退したのち、新しいドラマー角田亮次さんを迎えセカンド・アルバム《SOUND》のレコーディングに4人で邁進していたその時期が、エレグラにとっても、日本の「ギター・ポップ・シーン」にとっても最も充実していた瞬間だったのかもしれない。ただし、英治さんにとってこの解散はネガティヴな決定ではなかった。彼の新たなる音楽活動形態、DJ、プロデューサーとしてのソロ・プロジェクト「SUGIURUMN」は、1999年になって本格的に始動しており、すでにシングルもリリース済。この年の夏にはファースト・アルバム《LIFE IS SERIOUS BUT ART IS FUN》が同じレーベルMIDIから発売されることが決まっていたのだから。

 僕は「エレグラ」の信奉者だったゆえに、バンドのヴォーカルからDJへと英治さんが転身してゆく姿を少し残念な想いで見つめていた。しかし、ベーシストで音楽的イニシアチブを握っていた「オクジャ」こと奥野裕則さんが1996年秋のサード・アルバム《SPACE IS HERE》リリース後に脱退してからというもの、儚くも美しかったエレグラのバランスがすでに崩れてしまっていたこともわかっている。

 時代の流れとシンクロしながら純粋な衝動のままにメタモルフォーゼしてゆく英治さんと違い、奥野さんは昔気質の「ミュージシャン」だった。睫毛の長い少女漫画の主人公、王子様のようなルックスの英治さんと対照的な、口髭を蓄えた昭和の俳優のように無骨な男前。彼は単なるベース担当という立場に止まることなく作曲家としても優れた作品をバンドに提供、1970年代の土臭いロックの味わいに満ちた野太い歌声と確かな歌唱力も持っていた。奥野さんが作曲とリード・ヴォーカルを担当し、英治さんが作詞を手がけた〈1939 INTERNATIONAL HARVESTER SCHOOL BUS〉は、僕にとって永遠のマスターピースとして揺るぎない。ただし、奥野さんの溢れる才能と一種の懐古趣味はカラフルでひねくれた「90年代的」パッケージに包まれたエレグラに求められた音楽性とは残念なことに少しズレていた。全員がポテンシャルを持つからこそ、誰も悪くないのに座組みが破綻してしまう現実。バンドの別れは奇跡的な時間を分かち合えた感謝の想いと共に粛々と受け入れるしかない。

 すでに4年前の夏、CLUB Queでのライブ後の打ち上げの時点で、杉浦英治さんはまだバンドも組めていない後輩の僕に対して自分の未来を予言するように、オアシスのドラム・サウンドについて熱っぽくこう語っていたことを思い出した。

「あのさ、ゴータ。オアシスのスネア、キック、あのあたりは全部、ワンショットで録音してるらしいのよ」

「ワンショット?」

「まずタン! ってスネアだけをいい音で録音するわけ。ドラムを普通に同時に叩くとスネアのマイクにも他のキックとかシンバルの音がどうしても入っちゃうじゃない? だからスネアだけで録音する。それがワンショット」

「そんな録り方してるんですか? ロック・バンドなのに?」

「ロンドンのスタジオのエンジニアから聴いたから。今、ほとんどのバンドがそうなのよ。だから変なノイズもないわけ。それをコンピュータでペタペタ貼っていく。わかる?だから一定のリズムが完璧にループされて踊れる。気持ちいいんだよ」

「え? じゃ、ドラマー自身のグルーヴとか生の揺れとか関係ないってことですか? ほぼ打ち込みじゃないですか?」

「そうそう。オアシスがグッとくる秘密はそこにある。メロディはビートルズと似てるって言われてるけどサウンドが全然違うのはそういうこと。クラブで大音量でかかっても合うでしょ。テクノやハウスと同じ原理だから」

 エレグラ解散に伴うベスト・アルバム発売にあたって、ギタリストの筒井朋哉さんから連絡があった。発売時にCDに貼るステッカー、フライヤーなどへのコメントを後輩ファンの代表として僕に依頼してくれたのだ。僕はマスタリング作業を行なっている渋谷道玄坂のBunkamura Studioにも呼ばれたのでその場を訪れ、久しぶりにメンバーと顔を合わせた。彼らは仲が悪くなって解散したわけではない。明らかに「旬」を過ぎた「90年代ギター・ポップ」という音楽スタイルをそれぞれが卒業し別の道を進む、ただそれだけのこと。バンドのいつもと変わらない明るさに少し構えてスタジオ入りした僕は拍子抜けしてしまったほどだ。東京出身、長く両親とも同居し、21歳の若さでデビューしていたエレグラのメンバー達はいわばエリート。マインドもファッションも垢抜けていた彼らは、田舎から「成り上がり」的なハングリー精神を持って上京してきたミュージシャン達の我武者羅な姿勢に対して心理的優位性を常に保っていたと思う。香川から東京に外来種のようにやってきた彼らのレーベル・メイト、曽我部恵一率いるサニーデイ・サービスがギラギラと賛否両論を巻き起こしながらも音楽シーンを駆け上り、影響力を広げていった姿、貪欲さとは対照的だった。もちろん同じように音楽的孤独の中で上昇志向に突き動かされ京都から下北沢にたどり着いた僕とも。この日、エレグラのメンバーはマスタリングの際に後輩の僕がアドバイスした曲順変更を「それもそうだね! さすが!」とすぐに採用してくれた。仰ぎ見た先輩バンドのベスト・アルバムの曲順を、何故か自分が決めているという不思議な感覚が嬉しくもあり寂しくもあった。すでに英治さんの瞳は、その先で鳴らすべきダンス・ミュージックだけを見つめている。

 4年の日々は、ほぼすべての登場人物の関係性を変える。僕はプロのミュージシャンになっていた。ダイアナ元妃がパリのトンネル内での交通事故で亡くなる悲劇が世界的ニュースになった1997年夏の終わりにワーナーミュージック・ジャパンと契約。この時点で3人編成となった我々は11月25日、メジャー・デビューEPをリリースしていた。学生時代、父親に仕送りを頼んだ際に交わした約束「24歳になる前にプロになる」まで、あと2日に迫るタイミング。11月27日に訪れる誕生日スレスレで、「23歳」の僕は一つの大きな夢を叶えたことになる。ただし、追い風に乗ったインディー時代と違いメジャーでの活動は思ったようには展開しなかった。端的にいえば色々周囲に注文をつけ、へそを曲げている間に我々は新人のみが与えられるボーナス・チャンスを逃したのだ。レーベル内でのバンドへの期待も徐々に失われていた。

 自分の境遇と反比例するように、恐るべき勢いでその影響力を増していたバンドがいた。その名も、PENPALS。僕が憧れ心酔した4人組、STARWAGONが1996年夏に解散したのち、ヴォーカル、ギターの湧井正則さん以外の3人、林ムネマサ、上条盛也さん、上条欽也さんが新たにスタートさせたスリーピース・バンド。渋好みの湧井さんが数多く曲を作っていたSTARWAGONと真逆の、若き林ムネマサのカラーを全面に打ち出したパンキッシュに吹っ切れたユーモラスな明るさとシンプルな音楽性が時代の潮流とマッチした。僕は湧井さんの弟分であり、ファンだった。だから、結果的にクーデターのような形で湧井さんが外されたバンドを最初から全力で応援出来る心理にはなれなかった。彼らの最初のシングル〈TELL ME WHY〉は、アニメ「剣風伝奇ベルセルク」のテーマ曲としてスマッシュ・ヒット。大好きで憧れたバンドの3人が再始動したわけだから根本的には「好き」に決まっているのだが、その時点ではまだ偶然かも知れないなどと言い聞かせ平常心を保ちながら聴けていた。ただし、1998年11月にリリースされたPENPALSのセカンド・シングル〈I WANNA KNOW〉を高田馬場駅前の老舗レコードショップ「ムトウ楽器店」の視聴機で聴いた瞬間、林ムネマサの不敵なヴォーカルの存在感と色気、押し寄せるサウンドすべての素晴らしさに僕は膝から崩れ落ちるような衝撃を受けてしまう。この現象はサニーデイ・サービスの〈恋におちたら〉を聴いた時に受けた心の打撃と同じもの。悦びと悔しさが入り混じる「美しい嫉妬」としか言い表せない感情であり、人生で何度も味わうことが出来ない究極の体験として胸に刻まれている。歳が近いゆえにどこかライバル視していた林ムネマサにシンガー、ソングライターとして「完全に負けた」、そう思った。勢いに乗り堂々たるカリスマを放つ彼は途方もなく格好良く、最年少、途中加入ゆえに先輩達の様子を伺っていた STARWAGON 時代の面影は完全に消えていた。

 1999年の暮れに《フライデー・ナイト》と題され発表されるセカンド・アルバムのために、僕らはプロデューサーを探すことになった。メジャー契約から1年以上かけて制作したファースト・アルバム《アニメーション》は、自分達のやりたいことを何も考えずに詰め込んだ玩具箱のような作品。ストリングスやホーン・セクションも含む贅沢な編成、プロフェッショナルなスタジオにおける録音を繰り返してついに完成したアルバムだったが、長すぎた制作期間の間に音楽界の状況は激変していた。下北沢という竜宮城から僕らが運良く持ち帰った玉手箱は完全に朽ち果て、ゴールドラッシュはあっけなく終わりを迎えていた。

 プロになって2年。心で響くメロディとリズムを純度高く掘り起こす為には客観的なアドバイザーが必要だった。「プロデューサーは必要ない」などとデビュー前に嘯いていた自分達はもう存在しない。そこで僕がミーティングで挙げたのが師匠・湧井正則さんの名前だった。今は表立った音楽活動をしていないが博覧強記の湧井さんがバンドを俯瞰してジャッジしてくれれば、新たなオリジナリティに満ちたサウンドとして昇華出来、今後に繋がるのではないか......。意を決した僕は湧井さんがバイトとして働く高円寺のレコードショップ「CIRCLEDELIC」を訪れ、久しぶりに会う彼に話を持ちかけることに。中心に存在していたはずの自分が「切り捨てた」もしくは「逆に切り捨てられた」メンバー達が集結したPENPALSの大躍進について、プライドの高い彼はどう思っているのだろうか。断られるかも知れない。少しばかりの不安と共に僕は恐る恐るオファーの言葉を彼に告げた。

「あの......、湧井さんにお願いがあるんです。もし良かったら、僕らの次のアルバムをプロデュースしてもらえないでしょうか? 突然なんで返答に困るかも知れませんが」

「ほおぅ......」

 長身の彼の右手がゆっくり上がり、眼鏡に少し触れてその角度を変える。店内に敷き詰められた古今東西の中古レコードの匂いが静かに、そして誇らしげに僕の鼻にゆっくりと吸い込まれてゆく。誠意を込めて気持ちを伝える僕を待っていたのは、それまで見たこともない湧井さんの表情だった。

★第28回へ続く。

★今回の1曲――PENPALS – TELL ME WHY(1997)


■西寺郷太(にしでら・ごうた) 
1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド「NONA REEVES」のシンガー、メイン・ソングライターとして、1997年デビュー。
以後、音楽プロデューサー、作詞・作曲家としても少年隊、SMAP、V6、YUKI、鈴木雅之、岡村靖幸、私立恵比寿中学などの多くの作品、アーティストに携わる。
日本屈指の音楽研究家としても知られ、近年では特に80年代音楽の伝承者としてテレビ・ラジオ出演、雑誌連載など精力的に活動。マイケル・ジャクソン、プリンスなどの公式ライナーノーツを手がける他、執筆した書籍の数々はベストセラーに。代表作に小説『噂のメロディー・メイカー』(扶桑社)、『プリンス論』(新潮新書)、『伝わるノートマジック』(スモール出版)など。
現在 Amazon Music Podcast「西寺郷太の最高!ファンクラブ」でホストを務める。
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