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新天皇・雅子皇后の素顔「雅子皇后の『おもてなし』」

令和の時代、日本が「普遍主義の中の多文化共生」「普遍的価値と伝統文化の両立」というメッセージを国際社会へ発信する時、新天皇・雅子皇后のおふたりは、日本にとっての“最高のソフトパワー”となる――。/文・西川恵(ジャーナリスト)

上皇后から引き継がれたおもてなし

 今年5月下旬、皇居前にあるパレスホテルに、色とりどりの花を見事にアレンジした花束が、都内の花屋から届けられた。ホテルの担当者は大事そうに受け取ると、それをスイートルームのある上階に運んだ。廊下の前で警備員がチェックすると、花束は部屋の中に運び入れられた。

 スイートルームの宿泊者は米国のドナルド・トランプ大統領とメラニア夫人。贈り主は雅子皇后だった。花束には封筒が添えられ、5月28日までの3泊4日の日本の滞在が楽しいものになるようにとの心のこもった手紙があった。

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令和初の宮中晩さん会

 翌6月下旬には大阪のホテルに、やはり色とりどりの花束が届けられた。G20大阪サミットに合わせ実施された「女性のエンパワーメント(地位向上)に関するイベント」に出席するために滞在していたオランダのマキシマ王妃に贈られたのだった。この贈り主も雅子皇后で、やはり心のこもった手紙が添えられていた。

 この雅子皇后のおもてなしは美智子上皇后から引き継がれたものだ。上皇后は皇后だったとき、国賓が来日すると必ず直筆の手紙を添えて、バラの花束を宿泊先に届けた。バラの品種は「プリンセス・ミチコ」。雅子皇后は同じバラとはいかないから、花屋にさまざまな花をアレンジしてもらっている。花束は国賓で来日した賓客だけに贈っているが、マキシマ王妃は皇室との交流が長いことも考慮されたのだろう。王妃はこの心遣いを喜ばれ、電話でお礼を述べ、天皇、皇后と近況について話されたそうだ。

天皇の諸行事にはカップルが似合う

 今上天皇が即位されて4カ月余。この間、天皇、皇后両陛下はトランプ米大統領夫妻を国賓で迎え、マクロン仏大統領夫妻を公式実務賓客として接遇された。8月30日には、第7回アフリカ開発会議(TICAD)のため来日中のアフリカ32カ国とアフリカ連合の首脳らを皇居・宮殿に招き、茶会を催された。雅子皇后も首脳らと言葉を交わし、質問された。その夜は明治記念館(東京・港区)での第3回野口英世アフリカ賞授賞式と記念晩餐会にご夫婦で出席された。

 皇室外交の観点から言えば、この4カ月余は、今月22日の「即位の礼」に向けての助走期間と言っていいだろう。この間、確認されたことが幾つかある。1つは、何と言っても雅子皇后が天皇の横で務めを果たし、存在感を示されていることだ。

 令和になる前、人々は内心、「新皇后は大丈夫だろうか」との危惧を抱いていた。皇太子妃の時と同様、病気と折り合いをつけながら休み休みいかねばならないだろう、との思いがあった。しかしこの心配が振り払われたのが5月1日の「即位後朝見の儀」だった。

 映像で流れる、天皇の脇に立つ皇后は、それまでの病弱な、どこか自信なげな様子とは打って変わって、堂々とした振る舞いを見せられた。皇后としての覚悟とも決意ともとれる意志を、その姿に見た人は少なくなかったのではないか。引き続く4日の即位を祝う一般参賀でも、宮殿・長和殿のベランダに天皇と共に6回立たれ、しっかりと存在感を示された。人々の安堵は新皇后への親近感を一気に高め、頑張っておられることへの声援へと変わった。3年前の上皇の退位表明後、世論の皇室への関心は高く、今日に至るまで各種世論調査でも「親しみを感じる」という人が7割台を占めている。

 助走期間を通じて確認された2つ目は、天皇の諸行事へのお出ましは、やはりカップルが似合うことだ。皇太子時代、国内、外国での諸行事や国際親善に努められた天皇は、単独でも支障なくやり遂げられてきた。

 しかし令和になって皇后の体調に好転の兆しが見え、カップルで外国の賓客を迎えたり、ご一緒に地方に行かれたりすることが増えると、天皇が生き生きしているように見受けられる。皇后が関係者と熱心に話される脇で温かく見守られている様子にも、皇后と責務を分かち合っている喜びが感じられる。天皇は雅子皇后とカップルで公務を務められることが本当に嬉しいのだな、と思う。1プラス1が3にも4にもなると改めて実感されているかもしれない。

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 マクロン大統領夫妻を迎えた6月下旬の宮中午餐会でも、雅子皇后は隣の大統領と話題が尽きないようで、終始会話を楽しまれていたという。「拝見していて、大統領は皇后に強い印象を持たれたように思いました」と、その場に居合わせた人は語っている。もし天皇単独だと、隣の大統領夫人と話せても、向かいにいる大統領とはテーブルの幅もあってじっくりと話しにくい。それを皇后が担ってくれるなら、あとで互いがゲストと話したことを知ることができる。また自分が観察したことと皇后の観察の違いなど、いろいろと共有できる。

 トランプ大統領の歓迎晩餐会でも、皇后は隣の大統領としきりに言葉を交わされていた。話題を絶やさず、相手が興味のある話をし、相手からも上手に話を引き出す。外交官の父と母の、外国で客人を招いた時のもてなしを身近に見てきて、また自身も外交官としてもてなしを仕事の一部としてきただけに、そのあたりはしっかりと身につけられているのだろう。

雅子さまの「とっさのご判断」

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 もう1つ、マクロン大統領の午餐会で私の目を引いたことがある。マクロン大統領夫妻を宮中の玄関に出迎えられた時、皇后はライトブルーのスーツで、天皇も同系色のネクタイだった。これを見た時、皇后はフランス国旗の青にスーツの色を合わせ、天皇のネクタイも選ばれたのだろうと、確証はないが思った。駐ベルギー日本大使だった兵藤長雄氏(故人)もファッションについての皇后の機転について書いている。まだ皇太子と雅子妃だった天皇と皇后が99年12月、ベルギーのフィリップ皇太子とマチルドさんの結婚式に列席された時のことだ。

「当初、(雅子妃の)お召しのスーツは深紅のものを予定されていた。ところが実際に教会に到着されたときは、目の覚めるようなブルーのスーツに変わっていた。それは、雅子妃のとっさのご判断であったことを後から知った。式場に行かれる前、妃殿下はテレビに映し出されていた教会の模様を御覧になっていて、式場に深紅の絨毯が敷き詰められていることを御覧になった。同色のスーツではと思われた妃殿下は即座に鮮やかなブルーのスーツに変えられることを決断された。このご決断は大成功で、教会に御到着時からテレビに大写しになった両殿下は、深紅の絨毯、黒のモーニング姿の殿下、妃殿下のロイヤルブルーのスーツで一際冴えた印象を与えたのであった」(「文藝春秋」2002年1月号)

 私も皇太子と雅子妃が結婚後、初の外国訪問でアラブ諸国を回られた時、写真で雅子妃の服装を見て、なるほどと思ったことがある。94年11月、サウジアラビアで、「赤い砂漠」と呼ばれるネフド砂漠を訪れた時、イスラム教の戒律を考えてか、雅子妃は体の線を隠すように膝丈まであるコートのような服を着ていた。髪もなるべく出さないように深めの帽子を被られていた。その服と帽子の色が緑だったのだ。

 イスラム教の開祖ムハンマドはターバンの色が緑だったため、緑はイスラム教徒にとって聖なる色とされている。国旗に緑色を取り入れているイスラム教国が多いのもそのためだ。雅子妃は訪問にあたって専門家から聞かれたのかも知れないが、わざわざ緑色の生地を選んで洋服を仕立てられたことは間違いないだろう。この雅子妃の服はサウジの人々に「自分たちの文化を大事に思ってくれている」との思いを抱かせたはずだ。

 皇室外交にとって皇后が健康を回復されるかどうかは、おもてなしという点からも大きなものがある。いま国内の旅行は1泊が限度だが、外国訪問は何泊もしなければならない。今月22日の「即位の礼」とそれを祝う「饗宴の儀」は皇后のご健康を占うリトマス試験紙になるだろう。「饗宴の儀」は今月22日から31日まで、とびとびに計4回もたれる。これを無事にこなされれば、皇后にとって大きな自信になるはずだ。「饗宴の儀」の最大のハイライトは、160カ国を超える国と国際機関の元首、代表や祝賀使節をもてなす初日22日の宮中晩餐会である。参列者は安倍晋三首相、衆参両院議長などを含め410人に上る。会は午後7時20分に始まり、終了は午後10時50分。3時間半の長さだ。

 まず両陛下が国内外の招待者とあいさつを交わし、ご一緒に舞楽を鑑賞される。その後、豊明殿で晩餐会となる。食事は1時間と、通常の宮中晩餐会よりも短かい。食事が終わると招待者は春秋の間で、飲みものを手に約20分、両陛下と歓談する。日本側の招待者はここで退出するが、外国の賓客は松風の間に招き入れられ、1人1人改めて天皇、皇后と言葉を交わす。90年の「饗宴の儀」でも設けられたが、これは「両陛下は全使節と言葉を交わし、感謝の意を表する」との意味がある。

 皇室は「どの国の賓客も差別せず、平等に、最高のもてなしで遇する」との原則を堅持している。これは世界でもまずない。米ホワイトハウスでも、英バッキンガム宮殿でも、仏エリゼ宮でも、はたまた中国の中南海でも、「自国との関係性においてもてなしの軽重を決める」のはふつうのことだからだ。それだけに皇室の原則を知った人は驚く。実際にアフリカの小国の元首であっても、宮中晩餐会では大国の元首と同様に、最高の料理と、最高レベルのフランスワインでもてなされる。

 昭和天皇の「大喪の礼」の時は、コトの性格上、皇室は饗宴をもたなかったが、明仁天皇、美智子皇后はすべての外国の元首と使節に会われ、あいさつされた。外務次官として現場を指揮した村田良平氏(故人)は参列した外国の賓客の反応についてこう書いている。

「各国代表の中には、両陛下の式場での堂々たるお振る舞い、特に雨中自ら傘を差しながら毅然として起立しておられたことに深い敬意を覚えたと述べると共に、いかなる国をも差別することなく全弔問使節にお声をかけるための時間を割いてくださったことに衷心より感謝していると述べる者が少なくなかった」(『回顧する日本外交』)

 同じ立憲君主国でも皇室と他の王室ではたたずまいが相当に異なる。誰をも平等に遇するもてなしもそうだが、質実で堅実な皇室の暮らしぶりや、歴代の天皇、皇后のうわべだけでない賓客との真摯なやりとりなどに、日本人のありようを見る外国の賓客は少なくない。「慰霊の旅」の時、宗教を越えた祈りの姿を見た外国人もいる。欧州やアラブの王族は自国産品の売り込みのキャンペーンに代表団を率いて外国を訪問するが、皇室ではそういうことはあり得ず、皇室が独自のスタイルを保持してきたことは間違いないだろう。

中国からの参列者の「格」が上がった

「即位の礼」に参列する外国の賓客は、米国のペンス副大統領、中国の王岐山副主席、トルコのエルドアン大統領といった首脳のほか、英国のチャールズ皇太子、オランダのウィレム・アレクサンダー国王、ベルギーのフィリップ国王など、皇室が交流をもってきた各王室の顔触れが揃う。

 戦後の皇室外交は事実上、上皇と上皇后によって築かれてきた(他の皇族の貢献はもちろん認めた上で)。皇室の家長として昭和天皇は来日する賓客を先頭に立ってもてなされた。しかし年齢や、また戦争発動者としての責任もあって、外国訪問は米国と英国など欧州数カ国にとどまった。この空白を埋めたのが、昭和天皇の名代で各国を訪問された上皇、上皇后だった。ご結婚(1959年)して、平成末期までの約60年間、お二人は体力的、精神的な負担を押して世界を回り、来日する外国の賓客を接遇された。これは政府同士の関係とは異なる位相で国同士の絆を固め、国際社会における日本のよきイメージを高めるのに貢献してきた。

 王室からの参列者の中で目を引くのはオランダのウィレム・アレクサンダー国王だ。昭和天皇の「大喪の礼」の時、オランダ政府はファン・デン・ブルック外相を参列させた。欧州の王室で、王族を参列させなかったのはオランダだけだった。

 これにはオランダの厳しい対日世論があった。大戦中、日本軍は占領した蘭領インドネシアで、オランダの民間人、軍人を強制収容所に入れ、栄養失調や暴行で多数の人が亡くなった。戦後、皇室とオランダ王室は親密な関係を築いたが、オランダ人の引き揚げ者の間には日本への恨みが深く残った。「大喪の礼」の時には、使節を送らないように求める反日デモが起きた。ベアトリックス女王(当時)は事前に明仁天皇、美智子皇后に電話で「私は列席したいが、両国のためには出ない方がいいと判断しました」と伝えている。翌90年の「即位の礼」には自分の名代で現国王のウィレム・アレクサンダー皇太子を参列させたが、女王自身は参列を控えた。

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 その後、91年に同女王が国賓で来日、00年には明仁天皇、美智子皇后が国賓でオランダを訪問されるなかで、両国政府の間で多様な策が打ち出され、オランダの対日世論は大きく改善した。ウィレム・アレクサンダー国王の参列は、30年前には王族どころか首相さえも送れなかったオランダの世論の大きな変化を物語る。

 中国の王岐山副主席の列席は、昨今の日中関係の改善の脈絡で説明されている。前回の即位の礼では呉学謙副首相だった。王副主席は共産党政治局常務委員の経験者で、党政治局員だった呉氏より格は上だ。参列に両国の政治関係が反映していることは間違いないが、それだけではないと思われる。

 17年12月、中国外務省の耿爽(こうそう)副報道局長は明仁天皇の退位日が決まったことに絡む質問で、92年10月の天皇訪中について「中日関係を発展させるために前向きの貢献をされた」と述べた。これまで中国が総括的に天皇訪中にコメントしたことはなく、これは中国政府の公式の結論といえた。皇室が日中関係で果たした前向きの役割、さらには「慰霊の旅」に象徴される皇室の平和志向への評価も、王副主席の列席を後押ししたと見ても間違いではないだろう。

 天皇は両親が培ってきたものの恩恵に浴していることへの感謝を、吐露されている。英国留学時代、欧州各国を旅行すると、そこの王室から手厚い接遇を受けられた。

「私は、ヨーロッパの王族の方々からこのような温かいおもてなしを受ける度に、私の両親が長年かけて築き上げてきた友情によるものであることを常に認識し、その恩恵を受けている自分が幸せだと思ったし、このような交際を次の世代にも継承していく必要性を強く感じた」(『テムズとともに』)

皇太子時代に築いたアラブ王室との絆

 天皇は皇太子時代から、天皇、皇后である両親を皇室外交の面でもサポートされてきた。その1つの成果がアラブ王室との交流である。

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 戦後の皇室とアラブ王室との交流は、平成になるまでこちらから訪問するより来日するアラブ王族の方がはるかに多かった。日本からは明仁皇太子と美智子妃が昭和天皇の名代でヨルダン(76年)とサウジ(81年)に、三笠宮崇仁親王と百合子妃がヨルダン(80年)を訪れた計3回のみ。一方、アラブ王室からの来日は、サウジとヨルダンが中心で、特定の国に偏っていた。

 徳仁皇太子が初めてアラブ世界に足を踏み入れられたのは独身時代の91年、北アフリカのモロッコだった。初めてのイスラム圏でもあった。3泊4日の旅は皇太子に深い印象を与え、同行記者団に「モロッコは非常に楽しかった。イスラムの文化圏にいることをつくづく実感した。街角や家の中からのぞいている人の表情が明るく、人なつっこくて忘れられない」と語られている。

 この訪問によって同世代の徳仁皇太子とモハメド6世皇太子は関係を深め、皇室とモロッコ王室の絆が構築された。皇族と王族の行き来が増え、国王に即位したモハメド6世の国賓での来日(2005年)に繋がった。

 雅子妃とご結婚(93年6月)後に最初の訪問先に選ばれたのもアラブ世界だった。94年11月と95年1月の2回に分けて、サウジアラビア、オマーン、クウェート、ヨルダンなど王室を戴くアラブ7カ国を回られた。

 この訪問では、公式行事に男女が同席しないイスラムの慣習に基づき、各国で皇太子と雅子妃は別々に晩餐会に臨まれた。皇太子が男だけの饗宴に出席している間、雅子妃は女性王族の集まりに参加し、通訳なしで会話をはずませた。外国人の男性が入ることの出来ない女性王族の世界で雅子妃は交流を深められたのだ。

 サウジでは、夫妻は首都リヤド郊外のネフド砂漠を訪れ、赤色を帯びた雄大な景色をカメラに収め、砂漠に設営されたテントで羊の丸焼きを楽しまれた。先に触れた、雅子妃が緑色の服と帽子を身につけられていたのはこの時だ。オマーンでは砂漠に張られたロイヤルテントに国王を表敬。また幾つかの国では、邦人技術者が働く油田開発や天然ガスのプラント建設現場に足を運び、技術者とその家族を励まされた。

 国際親善を果たされる溌溂としたカップルの様子は、アラブ各国のメディアに大きく取り上げられた。お二人が欧米にありがちな上から目線ではなく、謙虚で、平等に接してくれることへの好感もあっただろう。カップルが体現する日本のよきイメージは好感をもって受け入れられた。

 元々、アラブの王室は日本の皇室に敬意と親近感を抱いてきた。万世一系といわれる世界でも珍しい長い歴史と伝統を保持し、皇室が日本国民の幅広い尊敬と支持を集め、「自分たちもこうありたい」という羨む気持ちもある。皇室が華美や贅沢から一線を画していることにも、イスラム教の精神に通じるものを感じてきた。

 これに続くご夫妻の外国訪問もヨルダンだった。99年2月、フセイン国王が亡くなり、カップルで葬儀に参列された。フセイン国王は4回来日した親日家で、日本は皇位継承第1位の皇太子ご夫妻を差し向けることで、その死を悼んだのである。また徳仁皇太子はサウジ王室の王族が亡くなった05年8月(ファハド国王)、11年10月(スルタン皇太子)、12年6月(ナイフ皇太子)、15年1月(アブドラ国王)と弔問に訪れられた。

 皇室と王室の関係が築かれることで、とくにアラブ側の日本への関心は高まった。先のアラブ7カ国訪問の首席随員を務めた大河原良雄・元駐米大使(故人)は「中東の王族との接触の途が開け、中東諸国が日本に十分な認識を持つようになった」とその意義を語っている。

 ご結婚されてからの皇太子時代の約26年間に、今上天皇、皇后はご夫妻で延べ14カ国を訪問された。

 雅子妃は02年のニュージーランドと豪州の訪問までは国際親善に尽くす意欲に溢れていたが、それ以降病気になり、体調と相談の上での訪問となられた。一方、皇太子単独での訪問は延べ48カ国に上っている。

 戦後世代の天皇と皇后によって担われる皇室外交はどのようなものになるだろう。平成の皇室外交は国際親善の主旋律の中に、「慰霊」と「和解」が通奏低音のように響いていた。これは上皇、上皇后の戦争体験に根差した強い平和への希求と無縁ではなかったし、また平成になって、内外で「歴史問題」が避けて通れない課題となって浮上したことも背景にあった。上皇、上皇后が天皇、皇后として丹念に続けられた慰霊の旅が日本の信頼性と道義性を高めたことは間違いないだろう。

 もう1つ、令和の皇室外交を考える時、上皇と天皇の人々との向き合い方の違いも押さえる必要がある。昭和天皇は戦後、「象徴」となってからも、自らに権威があると考え、そう振る舞われてきた。この「君主」としての意識は明仁天皇にも引き継がれた。小学高学年まで大日本帝国憲法の下で育ち、昭和天皇に不断に接していたことを考えれば当然でもあった。しかし今上天皇は自らを権威ある「君主」として自己規定するには、育った環境が大きく異なる。とくに独身時代の83年から85年までの02年4カ月、英国のオックスフォード大学で学び、寮生活を送られたことは大きかった。

 自分で洗濯をし、アイロンがけをし、アフリカやアラブの学生とも交流し、大学最寄りの店で買い物をし、友人とパブに行き、クレジットカードで支払いをされた。朝は食堂で朝食を終えると、郵便受けから購読している英紙ザ・タイムズをとり、講義までのひととき、自室で自分の淹れたコーヒーをすすりながら、新聞を読むのが日課だったとも『テムズとともに』に書いている。

令和の皇室外交を読み解くキーワード

 今上天皇は「権威」への意識よりも、「国民と対等にある」との意識が強いように思う。その上で皇室外交を読み解くキーワードは両陛下が共通に持つ「経験に裏付けられた国際感覚」と「普遍的価値」の2つだと思う。

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 日本にいると東西の視点で世界を見がちだが、欧州で暮らすと南北の視点も育つ。かつて植民地にしたアフリカ、中東、中南米の地域であり、世界を広角に見る目と、皮膚感覚で世界をとらえる仕方、そして日本を世界の中に位置づけて客観視する視線が育つ。皇后も大学と外交官時代、米国と英国で約6年過ごされた。子供の時は外交官だった父親の転勤で、モスクワ、ニューヨーク、ボストンで暮らしている。経験に裏付けられた国際感覚では天皇に優るとも劣らない。

 天皇、皇后が影響を受けられたであろうポスト冷戦の「普遍的価値」にも触れておこう。天皇が英国に留学中の80年代半ばは、ゴルバチョフ・ソ連書記長が登場し、東西融和が進み出した時期だ。30代を目前にした89年に「ベルリンの壁」が崩壊し、冷戦が終結。人権や民主主義が地球全体の普遍的価値となり、グローバリズムが一気に花開いた。いまでこそ米中ロの大国は自己主張を強めているが、80年代後半から90年代を通して、国際社会には協力と融和の新しい世界秩序が誕生したとの期待が満ちていた。国の利害を超えた地球市民という考えが広く共有され、国や国連やNGO(非政府組織)など、多様な主体が協働して地球規模の問題に取り組むグローバル・ガバナンスという概念が生まれたのもこの時期である。20代半ばから30代を通して天皇と皇后は、この協力と融和の空気を胸一杯吸われた。

 その意味は小さくない。先に挙げた「経験に裏付けられた国際感覚」には地球市民としての視座や、地球規模の課題への関心が内包されていると思うからだ。天皇は「水」をテーマに研究を行い、その講演をまとめた著作を最近出された。これを読んでも地球の視座から「水」を捉えられているのがよく分かる。 

 ここで改めて皇室の伝統文化の継承者という両陛下の役割に立ち戻って考えたとき、この国際感覚と普遍的価値に敏感なことは重要である。「普遍主義の中の多文化共生」「普遍的価値と伝統文化の両立」というメッセージを説得性をもって発信していけると思うからだ。それは日本の立ち位置にも繋がる。疑いなく皇室は日本の最高のソフトパワーの1つである。


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