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記憶の余得|藤原正彦「古風堂々」

文・藤原正彦(作家・数学者)

幼い頃から悪戯で親に心配ばかりかけたが、記憶力だけはよかった。5歳の時には九九を、6歳までには世界各国の首都から将棋、囲碁、麻雀まで覚えてしまった。勢いは中学校でも衰えず3年間で英単語6000以上、独仏語では基本文法に加えそれぞれ1000以上の単語を覚え今も覚えている。新しい知識がスポンジのように吸いこまれるのが脳にとって快感だったのだろう。

3年ほど前、小学校2年生まで通った神田の小学校の同窓会の知らせがきた。たった2年しか通っていないからと気後れして、それまで欠席していたのだが、「最後の同窓会」と銘打っていたので出席した。半世紀以上ぶりということで司会者にスピーチを頼まれた。私は思い出を語った。「2年生の夏に、長い髪を真中から左右に分けたつぶらな瞳のくらしなれい子ちゃんが転校してしまいました。話したこともなかったのに、引越しの日の午後、私は彼女の家のそばまで行って、トラックに乗って去って行く彼女を物陰からじっと見ていました。トラックが消える時は気の遠くなるような気持でした。生まれて初めての慕情、別れの淋しさでした」。H君が「そんな子いたっけ、覚えてないなあ」と言い、女性2人が「そう言えばそんな子いたわね」とうなずき合っていた。「主婦の友」の社宅から通っていた利発なS君、フランス人形のようなH子ちゃん、優等生のI子ちゃんのこと。父兄会で見たS子ちゃんのお母さんが、転校してからも思い出すほどの美しさだったこと、幼稚園生の弟も例外的な可愛さだったこと。計算競争でいつもT君に負け、「何でお前そんなに速いんだ」と問いつめたら、「僕、算盤を習っているから」と色白の頬にうぶ毛を光らせながら言ったこと。白髪の税理士となったT君が、後方で頬をなでていた。私の前の席にいたまん丸顔のけい子ちゃんが好きだったのに、彼女は隣りのK君と仲がよく、ふざけて押したり引いたりしていたこと。押すのはよくても引くのは許せなかった。餓鬼大将の私は級友たちを子分として意のままに仕切っていたが、K君に「けい子ちゃんといちゃつくな」とはどうしても言えなかったこと。仕方なくK君のように笑う時に舌先を前歯にはさめば、けい子ちゃんに好かれるかもと、家の鏡の前でこっそり練習したこと。皆が笑った。けい子ちゃんは欠席、K君は闘病中だった。

「私は2組の餓鬼大将として時々1組の連中に待伏せされました。そのたびに俊足を用い逃げたのですが、ある時、父に相談しました。父は藤原家伝来の喧嘩必勝法を授けてくれました。『大勢に囲まれた時、全員を相手にすると袋叩きに遭うから、最も強い奴一人だけをめがけて突進しろ。両腕を水車のようにぐるぐる回しながら突進する。水車戦法だ。効果はお父さんが実証ずみだ』」。皆が笑った。「ある放課後、校庭で1組のボスと子分数人に取り囲まれました。最強の魚屋の息子Wが腰を低く身構え拳を前で握りしめ、喧嘩なれしているのか不敵な笑みを浮かべ私へ臨戦態勢をとりました」。私の兄と同級の兄をもつI君が「Wは今は寿司屋だよ」と言った。「父の『今だ、行けえー』と言う声が聞こえました。教え通り歯をむき、この世のものとは思えない形相で、腕をぶん回しつつ突進しました。と、Wが視界から消えたのです。Wは地にひれ伏していました。そして『おみそれしやした。もう二度としません、ご勘弁を』と謝り、皆もWにならったのです」。再びI君が「そんなことがあったのか、まだ焼け跡のあった頃だからなあ」と言った。皆が、「それにしても、6年までいた僕達よりはるかによく覚えているなあ」と口々に感心した。

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