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小説「観月 KANGETSU」#40 麻生幾

第40話
ストーカー(3)

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※本連載は第40話です。最初から読む方はこちら。

「島津さん、いらっしゃるかえ?」

 処置室のカーテンから顔を出したのは、髪の毛の薄い50がらみの男と、アラサー風の黒いパンツスーツ姿の女性だった。

 七海がぎこちなく頷くと、2人の男女は揃って警察手帳を広げて見せた。

別府中央署

 ノックとともに正木が顔を出し、熊坂洋平の前に座る涼を手招きで廊下へと呼び出した。

「彼女は無事だ。捻挫で全治10日間ちゅうところらしい。しばらくは、パトカーで自宅を警戒さする(させる)」

 正木はニコリともせずに説明した。

「ありがとうございました」

 涼は深々と頭を下げた。

「彼女のところへ行かせられなかったんな(ことは)我慢しちくりい(してくれ)」

 正木が言った。

「いえ、これが自分の仕事ですから!」

 涼は慌ててそう言ってからそのことを訊いた。

「で、田辺は?」

「自宅や大学にもおらん。まあまず、逃走したな。やんがち傷害容疑で指名手配がうたるるやろう」

 正木の表情が険しいことに涼はその時、初めて気づいた。

「何か?」

 涼が堪らず訊いた。

「そん田辺ちゅう男だが、マエ(前科前歴)があった。7年前、警視庁管内でだ。成人女性に対する強制わいせつ容疑で逮捕されたが、裁判で執行猶予がついた」

 正木が言った。

「お前の彼女、とんでんねえ奴に目をつけられたことになる。やばかったな」

 そう続けた正木だったが、表情の厳しさは同じだった。

「まだ何か?」

「実は、田辺には、さらに気になることがある」

「気になる?」

「熊坂久美が殺害された時間の前後、地取(じどり)捜査班が得た、現場近くで目撃された複数の不審者情報のうち、田辺と、顔貌(がんぼう)や人着(にんちゃく)ん似より人物がおるんや」

「まさか……」

「いや、おれも最初はそう思うた。しかしな……」

 正木は声をひそめて続けた。

「実は、田辺は、別件でも容疑があって、刑事課の別の班が内偵しちょった。そん班が情報を集めた中で、奴の飲み仲間ん一人が、島津七海が襲われそうになった夜の直後、つまり熊坂久美が殺された前日の夜、田辺が、杵築のパン屋んオヤジ殺しちやるやら、不満を口にしちょったちゅう話をしたとさっき聞いたんや」

「それじゃあ……もしかしち……七海、いえ島津七海を襲おうとしたんのを止められた逆恨みで、熊坂洋平の妻を……」

 驚愕の表情のまま涼が辿々しく言った。

「見えちきたな……。ただ気になることもあるにはあるが……」

 腕組みをした正木の表情はさらに厳しくなった。

「正木主任──」

 呼ぶ声がして正木が振り返ると、刑事課の入り口で、捜査本部の全般指揮と運営を行う、本部捜査第1課係長の植野警部が目配せしていた。

               *

「警備部は、『一切回答でけん』と? いったいどげなことです?」

 屋上に足を踏み入れた途端、振り返った正木が訊いた。

「いつもん通りのどくった(ふざけた)話です」

 捜査本部の全般指揮と運営を行う植野が吐き捨てた。

「しかし、東京でん(の)殺人事件の被害者、真田和彦に関する警視庁からん(の)在籍照会に対し、本部の警備部は、『庶務的な所掌事務』ちゅうことまでは回答しちょんのですよ。それが、同じ県警の、いわば身内に対しちは、門前払いん回答──。こげなこつが許さるることですか!」

 正木は声を張り上げた。

「参事官から聞いてもろうたにぃ、どうかしちょんよ、あいつら。警備やら公安やら本当に虫がすかん」

 そう言って顔を歪めた植野はさらに続けた。

「でもマサさん、ウチんヤマと、そん真田和彦とが、どこかで繋がっちょん、そりゃねえんやろう?」

 植野が訊いた。

「まあ、そうですが……」

 正木が言い淀んだ。

(続く)
★第41話を読む。


■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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