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死者65名 熊本豪雨災害は「脱ダム」ブームの人災だ!

今回氾濫した球磨川は日本三大急流の一つ。豪雨に見舞われれば、“暴れ川”になるのは当然だ。もし今、川辺川ダムが建設されていたら、ここまでの被害にならなかった。「脱ダム」ブームの罪を問う。/文・藤井聡(京都大学大学院教授)

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藤井氏

「一種の人災」

「(川辺川)ダムの工事を着工する直前になって、知事が代わってダムをやめた。(熊本豪雨災害は)一種人災の面がある」

経団連の山内隆司副会長は、7月16日の記者会見で、強い口調でこう述べました。熊本県の蒲島郁夫知事が2008年にダム建設を取りやめたことを「一種の人災」と断じたのです。私もまったく同感です。

7月3日から4日にかけて、熊本県を集中豪雨が襲い、県南部を流れる球磨川水系は、12カ所で氾濫・決壊しました。被害が大きかった人吉市では、堤防が2カ所で決壊しています。

この水害によって、65名が命を落とし、2人が行方不明になりました。14名が亡くなった特別養護老人ホーム「千寿園」がある球磨村では、浸水の深さが最大9メートルにも達したとみられています。

人吉市内の堤防は、右岸の中神町馬場地区で約30メートル、左岸の同町大柿地区で約10メートルにわたって決壊。その付近は、球磨川がS字状に蛇行しており、「いつ氾濫や決壊が起きてもおかしくない」と以前から指摘されていました。

球磨川は、多くの支流から大量の水が流れ込む一方で、川幅が狭く、最上川、富士川と並ぶ日本三大急流の一つに数えられています。豪雨に見舞われれば“暴れ川”となるのは当然です。7月の豪雨では、支流を含めて15本もの道路橋が流失・崩壊しました。

しかし、河川技術者たちにとっては、とくに“驚き”ではありませんでした。今回、氾濫・決壊が起きた場所は、水害の危険性がきわめて高い「Aランク」が1カ所、堤防の高さは想定水位を上回るものの十分な余裕がない「Bランク」が6カ所、堤防に壊れた跡などがみられる「要注意」が5カ所だったからです。

そのため技術者たちは、洪水対策を進言してきました。そして長所短所を総合的に考えた上で“最善の策”として提案し、行政も“最も効果的だ”として長年にわたって進めてきたのが、「川辺川ダムの建設」だったのです。

40年にもわたる建設計画は、7割ほど進んでいて、言わば“完成間近”でした。ところが、知事の一声で、2008年に突如として中止になってしまいました。経団連の山内副会長が「一種の人災」と断じたのは、こうした経緯を踏まえてのことです。

カンバン_熊本県人吉市で氾濫した球磨川

熊本県人吉市で氾濫した球磨川

完成直前に中止されたダム建設

被害が大きかった「人吉エリア」は、大昔(100万年以上前)は「湖の底」(「古人吉湖」)だったところで、現在は四方を山々に囲まれた「盆地」となっています。球磨川水系が“暴れ川”になっても不思議でないのは、地理的構造から見れば“一目瞭然”です。

ですから、過去にも洪水被害が繰り返されてきました。

とくに1965年には、「昭和40年7月洪水」「球磨川大水害」と呼ばれる戦後最大の水害が起きました。今回と同様に、梅雨後期の停滞前線による集中豪雨に見舞われ、球磨川の上流から下流まで広域が浸水しています。

その結果、人吉市は、市街地の3分の2が浸水し、家屋の流失・損壊は1281戸、床上浸水が2751戸、床下浸水が1万戸以上という甚大な被害に見舞われました。

この大水害が発端となり、翌66年に治水対策としてスタートしたのが「川辺川ダム建設」です。

「昭和40年7月洪水」では、人吉地点は最大で毎秒7000トンという洪水に襲われました。1960年に完成した球磨川上流の市房ダムの洪水調節能力では、まったく太刀打ちできません。そこで、約10倍の洪水調節容量をもつ「川辺川ダム」が計画されたのです。

「人吉エリア」で氾濫を防ぐには、少なくとも毎秒7000トンの流量を43%もカットしなければなりません。そのために不可欠な対策が「川辺川ダム」だったわけで、これさえ完成できれば、既存の市房ダムやその他の様々な治水対策と併せて、目標とする43%の流量カットが実現できるはずでした。

そのような状況で、2008年9月に、蒲島郁夫知事が「ダム建設反対」を表明したのです。同年3月に知事選で勝利した際は、ダム建設に「中立」の立場でしたが、就任後に設置した有識者会議などで検討した結果、半年後に、「建設反対」を表明しました。

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蒲島氏

さらに、人吉市の田中信孝市長(当時)も建設の白紙撤回を求め、建設予定地である相良村の徳田正臣村長(当時)も反対を表明しました。当時の「脱ダム」ブームのなかで、世論も、メディアのほとんども、建設反対の論調だったのです。

翌09年9月には、「コンクリートから人へ」をスローガンに掲げた民主党政権が誕生します。とくに「東の八ッ場(やんば)ダム(群馬県)」と「西の川辺川ダム」が“目の敵”にされました。

この2つのダムの建設中止は、民主党のマニフェストにも盛り込まれ、民主党政権の前原誠司・国土交通大臣は、就任直後に両ダムの計画中止を表明しました。

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前原氏

「脱ダム」ブームの嵐のなかで、治水技術者たちの声はかき消され、計画の7割まで進んでいた「川辺川ダム建設」も、正式にストップしてしまったのです。

「ダムによらない治水」とは

今回の集中豪雨が過ぎた7月5日、蒲島知事は、報道陣に「ダムによらない治水を12年間でできなかったことが非常に悔やまれる」と述べました。知事は、2008年9月の県議会で、ダム建設の白紙撤回を求めるにあたって、「ダムによらない治水」の検討を極限まで追求すべきだ、と主張していたからです。

しかし、この12年間、実質的に何も進められませんでした。

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