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連載小説「李王家の縁談」#11 |林真理子

【前号まで】
昭和三年(一九二八)。佐賀藩主の鍋島家から梨本宮家に嫁いだ伊都子妃には二人の娘がいた。伊都子は娘の縁談のため奔走し、それぞれ朝鮮の王族李王家と公家である広橋家へ嫁がせたが、姪の節子が秩父宮殿下の妃に選ばれたことを知り、心穏やかではいられないのであった。

★前回の話を読む。

 昭和四年、五年と続く年は、伊都子(いつこ)にとって喜びごとが多かった。

 何よりも嬉しいことは、広橋伯爵に嫁いだ規子(のりこ)に、女の子が生まれたのである。父親そっくりの、大きな目をした子は、樹勢子と名づけられた。若い夫婦が命名したのである。

 伊都子はさっそく駆けつけて、小さなふわふわとしたいきものを抱く。赤ん坊は小さなあくびをした。こんないとおしいものがあるだろうかと伊都子は目を細め、八ヶ月で死んだ幼な児のことを思い出さずにはいられない。あれは確かに異常なことであった。小さな貴い命があっけなく奪われたのである。

 日本に生まれた日本人の樹勢子は、おそらく誰からも危害を加えられず、すくすくと育つことであろう。そこへいくと晋(しん)は、半分日本人の血が混じっているために殺されたのだと考えると、伊都子はやりきれなくなるのである。やはり、方子(まさこ)と朝鮮王家との結婚は、不自然なことだったのだろうか……。

 いや、そんなことはない。目の前には完成したばかりの李王家の邸宅があった。紀尾井町の二万坪に建った李王家のこの屋敷は、皇族妃の伊都子でさえ息を呑むほどの素晴らしい建物だ。

 明治二十五年につくられ、関東大震災で焼失した永田町の鍋島邸は、辰野金吾が建築の指揮をとった三階建ての西洋館であった。

 当時日本でいちばん豪華な邸宅といわれたが、今考えると文字どおりの西洋館だったのかもしれぬ。当時の日本人が必死で模倣した、イギリス風の巨大な建物であった。

 李王邸は大きさでは鍋島邸に譲るものの、その意匠の素晴らしさは当代の日本の建築がたどり着いた最高峰となるに違いない。凝りに凝ったチューダー様式は、宮内省内匠寮(たくみりよう)の工務課長らが心血を注いだものである。

 アールデコ風の鮮やかなステンドグラスに導かれて、優雅な曲線の階段をあがる。広々としたレセプションルームにもうけられたシャンデリアは、李王夫妻がヨーロッパで購入してきたものだ。床をとってみてもイタリアから取り寄せた大理石、タイル、日本の職工たちによる寄せ木と、変化にとんでいる。

 この新邸は、日本から与えられた李王夫妻のとてつもなく豪華な玩具といってもよかった。もともと建築に興味を持つ李王は、設計図にもあれこれ指示を出し、海外の文献を取り寄せたりしている。シャンデリア以外にも、家具のあれこれをヨーロッパから取り寄せた。方子もカーテンや家具選びに夢中になり、しばらくは不妊治療のつらさを忘れるほどであった。

 昨年の秋、方子は帝大の産婦人科で子宮後屈の手術を受けている。過去に子どもは出来た体だしと、ためらう方子に、

「今、子どもが出来なかったら、出来るようにすればいいのです」

 と手術を勧めたのは伊都子だ。娘の心を救うには、それしかないと考えたからである。

 移転の日は、三月三日の桃の節句となり、親しい者だけで小さな宴が行なわれた。

 大食堂のテーブルには、李王家のコックがつくるフランス料理が運ばれてくる。パリで修業してきた彼は、節句の日にちなんで、ハマグリを使ったブイヤベース仕立てのスープを出した。

「お雛さまがないのが寂しいけれど、いいお節句になりましたね」

 方子の花嫁道具の中に、雛人形を入れるかどうか最後まで迷ったのであるが、異国の王室だからと遠慮したのである。

「けれども女の赤さんがお生まれになったら、来年はご入りようになろう」

 方子にささやくと、さっと顔が赤くなった。というのも、ほんのつい先日、引越の最中、方子は体の変調を見た。妊娠していたのである。用心して葡萄酒にも手を出さない。

 その傍で静かにスプーンを運ぶ徳恵(トケ)がいた。当然のことながら、徳恵とその従者たちもこの邸に引越してきたのである。徳恵の部屋は二階のバルコニー付きの部屋だ。専用の便所と風呂場もついている。

 このところ徳恵の容態が安定しているので、伊都子は安堵していた。これも自分が紹介して、帝大の精神科の医者に診せたためである。「早発性痴呆症」と診断された。そしていくつかの投薬のせいもあろうが、この新しく美しい邸に引越すという興奮が、徳恵を明るく健康的な娘にしているようだ。日本語もすっかりうまくなっている。

「これならば、どこかに嫁がせることも可能であろう」

 伊都子はこのところ、爵位を持つ若い男たちをそれとなく調査しているのである。それは規子の時にやったばかりだ。規子の婿選びも万全の態勢で、というわけにはいかなかった。山階宮武彦王から一方的に破談を言いわたされたために、一日も早く縁談をまとめなければならなかったのだ。

 徳恵の場合の不利は、規子どころではない。

 なにしろ精神を病んでいるのである。今、容態が安定している間に、秘密裡に早くことを進めなければならなかった。が、これは騙しているということにはならないだろう。

 結婚さえすれば、たいていの女はすべてことがうまく運ぶのだ。伊都子は固くそう信じていた。女の孤独や不安も解決される。家庭を持ってこその女の幸せなのである。特に高貴な女は、自分の血を次の世代に伝えるという役目があるはずであった。そのことによって夫からも守られ、大切にされるのである。だから必ず子どもを産まなくてはいけない。

 そして今や自分の努力と計画はすべてうまくいき、方子は妊娠し、徳恵も楽し気にここにいる。この新しい邸での幸福は、すべて自分がつくり出したものだと思うと、伊都子は胸がいっぱいになるのである。

 この年、宮中でも慶事があった。大正天皇の三男にあたられる高松宮宣仁親王と、公爵徳川慶久の次女、喜久子姫との婚儀がとり行なわれたのである。

 喜久子姫の父、慶久はかの最後の将軍慶喜の七男であった。よって喜久子姫は、朝敵の孫ということになる。

 が、世間も伊都子も全く驚かなかったのは、喜久子の母が有栖川宮の女王であったからだ。男子がおらず絶えてしまった有栖川宮の祭祀は、高松宮が引き継ぐことになっていたので、二人の婚約は子どもの頃から決まっていたのである。

 とはいうものの、障害がなかったわけではない。誰でも知っていることであるが、才能ある美男子で、少々変わり者とされていた慶久公は、三十七歳の時に自死した。それ以来實枝子未亡人は、愛妾の生んだ娘たちとも分けへだてなく、小石川第六天町の邸で喜久子姫を育て上げたのだ。

 この縁談を最後に認めたのは、やはり節子(さだこ)皇太后といわれている。愛らしく美しい喜久子姫を大層気に入られ、秩父宮勢津子妃と同じように自ら教育されているのだ。

 高松宮と喜久子妃は、婚儀の後、天皇の名代として、一年二ヶ月にわたるヨーロッパ旅行に出かけた。ハネムーンも兼ねているという。李王夫妻とは違い、各王室を訪ねる旅だ。

 この最中、大宮御所から伊都子に呼び出しがかかった。

「大宮御所の藤が大層見事に咲きました。昔話をしたいので、いらっしゃいませんか」

 という口上つきである。

 大宮は学習院で二つ齢下であるが、昔話をするほど親しいとも思えなかった。方子の婚約の際に、ふと疑念を抱いたのも事実だ。

 とはいうものの、確かにそれも遠い日になりつつある。お互いに孫を持つ年齢となり、節子皇太后は天皇の崩御と共に宮城(きゆうじよう)を去られた。そして大宮と呼ばれる身分になられると、観桜会の際など、「伊都君さま」と親しみのこもった声で呼びかけることも多くなっていた。

 大宮御所は赤坂離宮の中にある。こちらも新天皇のおぼしめしで新築がなったばかりである。といっても平屋の日本建築で、李王邸とは比べるべくもない。

 しかしこの中に入る時は、やはり宮城と同じほどのややこしいしきたりが必要である。

 まずは最初に出てくる緋の袴姿の典侍たちに、長い挨拶をする。

「こんにちは。ご機嫌よう。まことに涼しいことでございます。大宮さんにも何のお障りもあらっしゃりませんで。明石の典侍さんにも何のお障りものうて……」

 と頭を下げるのである。

 寡婦となられた大宮は、濃い紫色の丈の長いお洋服をお召しである。えりが高くきちんと喉まで隠れるようになっている。眼鏡をかけられるのも最近のことだ。

 大宮は「九条の黒姫さま」に戻ったような、ざっくばらんな口調になられた。皇室の方々はみんなやや早口で、そして京都訛りがある。

「伊都君さまとも、ゆっくりとお話をしたいと思っていたのだけれど、こう見えても私もいろいろやることがあるのですよ」

 ハンセン病や知的障害を持つ子どもたちの支援をなさっていらっしゃるのだ。

「ところで方君さんはお元気でいらっしゃいますか。まだお子はお出来にならないのですか」

「それが……」

 大宮に隠すこともはばかられ、伊都子はぽつりぽつりと語り始める。

「このあいだせっかく子どもが出来たのですが、すぐに流れてしまいました」

 妊娠五ヶ月だった方子が、流産したのは四月のことである。移転のあれこれで忙しかったのだろうと伊都子は慰めた。

「そうでしたか。なんとお気の毒なことでしょう。最初のお子さまのことで、私もずっと胸を痛めているのですよ。なんとか一日も早く、元気なお子さまをおつくりいただきたいものです」

 やさしく同情を寄せる大宮は、やはり皇后でいらした時と違う。以前は言葉を選び選びおっしゃっていたようなところがおありだったが、今はすっきりと発せられる。

 いつしか、今、欧米を旅行中の高松宮の話題となった。

「手紙によると、喜久君さんは馬車に乗ると、いつもすやすやお休みになるそうですよ」

 楽しそうにお笑いになる。

「それはそれは……。やはりお若いといっても毎日気がお張りでお疲れなのでございましょう」

 喜久子妃はまだ十八歳の若さなのである。

「それどころか、召し上がる時によくものをこぼすので、高松宮がパリで赤ん坊のよだれかけを買ってあげたそうです」

 幼ない時から詩をお書きになっていた芸術家肌の宮さまは、美しくあどけない妻を大切にしていらっしゃるらしい。

「もしかしたら、あちらで赤さんが出来るかもしれないが、それはそれでいいではありませんか」

「はい、私もイタリアで生まれましたので、伊都子と名づけられましたから」

「そうですね。イタリア生まれのお美しい方と、学習院時代、私たち大層憧れたものです」

 皮肉とは思えない、のどかな大宮の口調である。昔、避暑地で自分に接近してくる皇太子時代の天皇に腹を立て、おひとりで東京に帰ったことなど、遠い思い出話になったようである。

 話題はいつしか華族にもおよんでいく。途中で中食(ちゆうじき)として、こぶりの鮨と口取りが出て、伊都子はすっかり恐縮してしまった。大宮は華族の動静にもお詳しい。

「朝香宮さんところの女王さんが、伊都君さまのお里に嫁(い)かれるそうですね」

「はい、有難いことでございます。直泰(なおやす)は鍋島の後継ぎでございますのに、ずっとゴルフに夢中でございまして、いったいどうなることと案じておりましたが、朝香宮さんから来ていただけることになりました」

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