西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#28
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西寺郷太 小説「'90s ナインティーズ」#28

最終章
See You Again

★前回の話はこちら。

※本連載は第28回です。最初から読む方はこちら

「俺、ノーナ大好きだから。頼んでくれて嬉しいよ……」

 長身細身、トレードマークの上だけ縁のある眼鏡をかけた湧井正則さんは、この時30歳になっていた。心の奥から嬉しそうに微笑み、優しい声でそう答えた彼は今、高円寺の中古レコードショップ「CIRCLEDELIC」でスタッフとして働いている。ネルシャツにデニムを着たその風貌は出会った4年半前からほとんど変わっていない。藤原ヒロシさん、MUROさんなど多くのDJも通い詰める名店「CIRCLEDELIC」での仕事は、スタッフも古今東西あらゆるジャンルの音楽を熟知するエキスパートであることが条件。湧井さんはその店で音楽に浸かり働きながらソロ・アーティストとしての音楽プランを再スタートさせている現状に誇りを持っているようだ。会うまでに抱いていた不安をよそに前向きでエネルギッシュな彼がそこにいて僕はホッとした。仕事終わりに僕が学生時代、住んでいた頃によく通った高円寺駅前の焼き鳥屋「大将」に一緒に飲みに行き、数年ぶりに彼とビールで乾杯。思いのほか勢いよくジョッキを重ねたため、僕が買ったばかりのクラークスのデザートブーツに少しビールをこぼし慌てていると、湧井さんはその姿を見て手を叩いて大笑いした。

「やっぱ、おもしれーわ、ははは」

 酒の席で湧井さんは前年発売されたばかりで彼が夢中になっているハードディスク・レコーダー「Roland VS-1680」の説明をしてくれた。僕らソングライターのほとんどはそれまで4トラックのカセットMTR(マルチ・トラック・レコーダー)で楽曲のデモを制作していた。カセットテープの両面(A面=左1右2・B面=左3右4)を同時に使うことで、例えば1にリズムマシン、2にベース、3にギター、4にリード・ヴォーカルと4つの楽器、歌が録音出来る。ただ、キーボードやコーラスなどを含んだ少しでも凝ったデモテープを作ろうとすると4つだけでは足りなくなる。その時、苦肉の策として3つのトラックが埋まった段階で適度な音量で混ぜて「ピンポン」、つまり空いているトラックにダビングすることで1つにまとめ、元々のトラックに新たな楽器や歌を増やすという作業を繰り返すのだ。高校時代の僕にとっては4トラック・カセットMTRすらも簡単に手が届かない夢のマシンだったのだが、プロになる直前のある時点から僕は高価な8トラック・カセットMTR「TASCAM MIDI STUDIO 688」を使うようになっていた。しかし、独特の「味わい」はあると言ってもカセットの音質や機能には限界があったのが事実。しかし湧井さんが手に入れた「Roland VS-1680」は、なんとデジタルで16トラック・レコーディングを自宅スタジオで可能にしたというプロ・ユースの恐ろしいハードディスク・レコーダー。仮にピンポンをしてもアナログのように音がこもったり劣化する心配はなく可能性は無限だった。16万9000円する豪華な機材を手に入れ、偏愛するその表情には一点の迷いもない。

「いや、これさえあればサンプリングでどんなグルーヴも作れるからさ。タメもプログラム出来るから正直ドラマーいらないのよ、バンドはもう面倒くさいよ、ははは。新しく『バードマン』って名前でソロで作品作ってリリースするからさ。でも、その前に……、頼んでくれたノーナだなぁ……、ふふふ。小松のドラムも奥ダニエルのギターも最高だからなぁ。色んなアイデアあるよ」

 湧井さんだけは、何故かギタリストの奥田のことを「奥ダニエル」と呼んでいた。

 湧井さんと出会ったのは、阪神・淡路大震災が起こる直前、1994年12月。秋葉原駅そばの凸版印刷内「電子メディアサービス」でのバイトでのことだ。僕は当時、大学3年生。21歳になったばかりの自分にとって途方もなく年上で大人だと感じた派遣社員・湧井さんは今の自分と同じ歳、まだ25歳だったのかとふと思う。会社にやってきた彼と初めてバイトの昼休みに交わした会話を、高円寺でジョッキを重ねながら僕は懐かしく思い出していた。

「湧井さん、最初に僕と話した時のこと覚えてます?」

「凸版で?」

「僕が『音楽やられてるんですか? 周りの方にちょっとだけ聞いたんですが』って言ったら、まず湧井さん、しれっと『少しだけ』って言ったんですよ」

「ほぉー、ふふふ」

「で、僕が『湧井さん、どんな音楽がお好きなんですか? 僕はビートルズとモータウンが好きなんですが』って言ったら、なんて言ったと思います?」

「あはは、俺、なんて言った?」

「『僕は……、なんでも聴きますね』って言ったんですよ!」

「あはは」

「『なんでも聴く』って最悪の答えやん、『なんなんだ』とそん時は思ったんですけど、あはは。初対面で仲良くなりたいからどんなワードでもいいから、きっかけが欲しいのに、って。でも結局知り合ってみると本当になんでも、どんなジャンルにも詳しいから驚きましたよ。あの時の答え、嘘じゃなかったなって」

 結果的に湧井さんはこの時期の僕ら3人にとってこの上なく素晴らしいプロデューサーだったと今、振り返ってみても思う。こうして1999年、夏から秋にかけてレコーディングしたセカンド・アルバム《フライデー・ナイト》は、すでに録音を終えていたファースト・シングル〈バッド・ガール〉以外を湧井さんに任せることとなった。サックス奏者の山本拓夫さんに共同プロデュースを依頼した〈バッド・ガール〉は、それまでの下北沢ギター・ポップ的立脚点から、AOR、アーバンなシティ・ポップ、ファンク的グルーヴへの方向性への大転換。この曲を筆頭に自分たちにとってキャリア最大の変革と言ってよいセカンド・アルバムの制作を湧井さんとともに乗り切れたことは若き日の素晴らしい想い出となっている。肝心のセールスは振るわなかった。しかし、我々の進むべき道を示し、独自性が確立されたのがこの時期であることは間違いない。湧井さんは僕以上にスティーリー・ダン・フリークの小松、奥田と「楽器演奏家」としてのシンパシーを共有していた。僕らはこの時期リリースされたばかりのサミュエル・パーディのアルバム《ミュージカリー・アドリフト》に心酔、ジャミロクワイの初期ツアーメンバーふたりによって生み出された「90年代的AORサウンド」は我々の1つの指針、共通言語となる。日本の音楽ファンの間で大絶賛され時代を彩るスマッシュ・ヒットとなったこの名盤が、イギリス本国では先行シングル〈ラッキー・レディオ〉の売上不振のため即契約解除されたため発売されず、日本のみでリリースされていたという意外な事実を僕は随分後で知った。

 世紀末を迎えた1999年。音楽業界は大きく変化していた。最大の分岐点は、1998年末に黒船のように突然襲来した、わずか15歳のシンガー宇多田ヒカルによるデビュー・シングル〈オートマティック〉。東京、赤坂のTBSでメジャー・デビュー・アルバム《アニメーション》のためのラジオ・キャンペーンに勤しんでいた25歳の僕は、放送局の天井のスピーカーからわずかな音量で響く〈オートマティック〉を初めて聴いた瞬間、そのあまりにグルーヴィーなサウンドとネイティヴなフェイクにジャネット・ジャクソンの新曲が掛かっていると勘違いしてしまったほどだ。途中から日本語になる展開に驚いた僕はそれが10歳下の新人のデビュー曲だと知り、圧倒的なクオリティと鮮烈なヴォーカル、自由自在な歌詞の乗せ方に驚愕する。怒涛の上昇気流の中で1999年3月にリリースされた彼女のファースト・アルバム《First Love》は、発売1ヶ月後に累計500万枚を突破し、日本国内のアルバムセールス歴代1位を記録。10代半ばの女王が、ポップ・ミュージック界の頂点に即位、戴冠。これほど強烈な「代替わり」はそれまで経験したことがなかった。

「椎名林檎」なる奇抜なイメージの女性アーティストのシングル〈ここでキスして。〉を聴いたのもFM石川、FM富山を回っていた北陸でのラジオ・キャンペーン中のこと。ラジオ局で親交の深かったディレクターや、金沢で必ず立ち寄っていた居酒屋割烹「田村」のマスターが「この前、この店に来た新人の林檎ちゃんはすごい! 絶対に売れる」と興奮気味に口々に言うので自ずと気になった。その言葉通り、彼女もオリジナルで先鋭的な才能をオーバーグラウンドで爆発させメガスターとなってゆく。そして、何より自分にとって衝撃的だったのは少し前に渋谷のライブハウス「ON AIR EAST」で共演したこともあるシンガー・ソングライター aiko の4枚目のシングル〈カブトムシ〉の凄まじさ。ほんの1、2年前、楽屋に挨拶をしに来てくれたロングヘアーの「少女」がステージで歌っていた楽曲のいくつかは、1度しか聴いていないのに覚えて口遊んでしまうほどキャッチーで脳裏に焼きついていた。彼女が放った心の深淵に響くバラード〈カブトムシ〉を聴くと「素晴らしい音楽は難解すぎて日本の大衆には伝わらない」などというライブハウスでの打ち上げや居酒屋での論理がいかに嘘であり言い訳でしかないかがわかり、僕は逃げ道を無くした。

 アルバムのレコーディングを通じて知識溢れる湧井さんの優しさや気配りに、僕は彼のことがさらに好きになった。STARWAGON 後期に彼が漂わせていた神経質で無愛想なムードはその緩んだ表情から完全に消えている。ただし、半年以上再び密に関わってゆく中で次第に湧井さんが予定していた自身のソロ作品ではなく、僕やノーナに対して完全に音楽的重心を預けるようになってきたことが気がかりだった。大先輩であり現在はソロ・アーティストとして再起を図る湧井さんにプロデュースを任せる、という関係性は僕からすればあくまでもこのタイミングならではのことであり、永遠のものではなかったからだ。湧井さんはこの頃から、どんどん一度完成した自分自身の作品をやり直し続けるサイクルに突入してしまう。愛機「Roland VS-1680」を駆使し、聴かせてもらった新曲が素晴らしいと僕が心底感激しても、彼はそのメロディと歌詞を次のタイミングで大幅に変えてしまうのだ。たとえばスネアのタイミングも細かく設定すれば0.01秒後ろにずらすだけでも体感上のグルーヴは少しずつ変化してゆく。手を加えるたびに「もっと良くなった」と……。結局、僕が彼の掲げる新屋号『バードマン』の作品の完成ヴァージョンを聴くことはなかった。バンド時代のように他者からの制約や〆切がない分、完璧主義の彼は創作活動のピリオドを打てなくなってしまったようだ。

 秋になり《フライデー・ナイト》が完成すると、僕はどのタイミングで自分の決断を彼に告げるか迷っていた。自分はもっと先に行きたい、行かねばならない。ヒット曲を生み出さなければプロとして長く音楽と共に生きることは出来ないのだから。2000年春にリリースする予定の次のシングルのプロデューサーの人選の時期が目前に訪れていた。答えは決まっていた。自分がアドバイスを全身で乞うべきはレーベル・ディレクター、渡辺忠孝さんの実兄であり、幼少時から最も大きな影響を受けたメロディメイカーのひとりである筒美京平さんしかいないのではないかと……。

 その決断は繊細かつ情の深い湧井さんを必ず傷つけることになるだろう。ただ歳を重ねるごとに数少なくなるチャンスに対して必死で焦る僕は、闇のような未来に薄く光る星に対してなりふり構わずただただ手を伸ばすことしか出来なかった。1997年秋に交わした3年間のメジャー契約の最終年がすぐそこに迫っている。「90年代」が、名実ともに終わろうとしていた。

★今回の一曲――aiko – カブトムシ(1999)

■西寺郷太(にしでら・ごうた) 
1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド「NONA REEVES」のシンガー、メイン・ソングライターとして、1997年デビュー。
以後、音楽プロデューサー、作詞・作曲家としても少年隊、SMAP、V6、YUKI、鈴木雅之、岡村靖幸、私立恵比寿中学などの多くの作品、アーティストに携わる。
日本屈指の音楽研究家としても知られ、近年では特に80年代音楽の伝承者としてテレビ・ラジオ出演、雑誌連載など精力的に活動。マイケル・ジャクソン、プリンスなどの公式ライナーノーツを手がける他、執筆した書籍の数々はベストセラーに。代表作に小説『噂のメロディー・メイカー』(扶桑社)、『プリンス論』(新潮新書)、『伝わるノートマジック』(スモール出版)など。
現在 Amazon Music Podcast「西寺郷太の最高!ファンクラブ」でホストを務める。
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