
八千草薫さん最後の手記「ちょっとだけ無理をして生きたい」【全文公開】
10月28日、女優の八千草薫さんがすい臓がんのため亡くなっていたことが分かりました。88歳でした。宝塚歌劇団出身で、数々の映画・ドラマ・舞台で活躍されていた八千草さんは、闘病生活のさなか、「文藝春秋」2019年8月号に最後の手記を寄せていました。文藝春秋が撮影してきた八千草さんの秘蔵写真とともに、その全文を公開します。八千草薫さんのご冥福をお祈り致します。
良い加減に力を抜き、楽に生きる
馬馬虎虎。
今は亡き主人がよく言っていた言葉です。宝塚出身の私がだんだんと映画に出演するようになった頃、慣れない現場でガチガチに緊張することが多かった。主人はそれに気づいていたのでしょう。私の緊張をほぐすように、この言葉を何度も言い聞かせてくれました。
八千草薫さん ©文藝春秋
これは中国の言葉で、「まあまあふうふう」という読み方をするのだそうです。本来は「いい加減な」とか「やっつけに」という意味があるようですが、私達夫婦は「良い加減」という解釈で使っていました。肩に力を入れすぎず、ほどよく生きる、といったニュアンスになるのでしょうか。主人にこの言葉を教えてもらってからの私は、良い加減に力を抜き、楽に生きることが出来るようになった気がします。
歳をとるにしたがって、「まあまあふうふう」はいっそう、私の心の奥深くまで染み込んできています。
昔は「歳をとる」という現象について、深く考えることはありませんでした。気づいたら20代、30代、40代……あっという間に時を刻んでいました。
年齢を少し意識するようになったのは、80歳を過ぎてからだと思います。ペットボトルの蓋が開けられなくなる。階段を昇るのがしんどくなる。今まで簡単に出来ていたことが難しくなりました。舞台で勢いあまって転んでしまったこともあります。
こうして振り返ると、自分の体がどんどん変わっていくのを感じます。否応なく“体力の衰え”という現実を突きつけられると、やっぱりショックを受けますよね。あーあ、とため息もついてしまいます。
NHK『阿修羅のごとく』撮影風景 ©文藝春秋
「歳をとる」というのは、皆、経験したことがないですから、いつでも初体験。未知のものは誰だって怖いでしょう。
体力、筋力、思考力が低下していくなかで、不安になることもあります。でも、どうにもならないことを、うだうだと考え続けるのはつまらない。それで50歳まで若返るわけでもないですしね。変わっていく自分をちょっとずつ受け入れていくしかありません。だから悩みが出てきたときは、「えいっ!」と思い切って、考えること自体を諦めてしまいます。そうやって楽しく、肩の力を抜いて、歳をとることができればいいなと思っていますね。
「しょうがないな」
八千草薫(88)は、大阪府生まれ。1947年に宝塚歌劇団に入団する。1951年に『宝塚夫人』で映画デビューを果たし、『宮本武蔵』『蝶々夫人』などに出演。1957年に宝塚を退団し、映画監督の谷口千吉(2007年に逝去)と結婚。その後も舞台『二十四の瞳』、テレビドラマ『岸辺のアルバム』に出演するなど、様々なジャンルの作品で活躍を続けている。1997年に紫綬褒章、2003年に旭日小綬章受章。他にも数々の賞を受賞している。
©文藝春秋
今年2月、ヒロイン役を務める予定だったテレビドラマ『やすらぎの刻~道』(テレビ朝日)を、体調不良を理由に一部降板。それと同時に、所属事務所のホームページで「がん闘病中」であることを公表した。今年6月に出版したフォトエッセイ『まあまあふうふう。』(主婦と生活社)では、病気を通して考えたこと、これまでの女優人生、日々の暮らしと人生の心構えなどを綴っている。
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2018年に「すい臓がん」と診断され、6時間を超える大きな手術を受けることになりました。それまでも病気の兆候はあり、2017年の春先には「乳がん」が見つかっていました。でも、それはとっても小さながんだったので、手術も比較的軽いもので済み、その日のうちに病院から帰宅することが出来ました。なので、すい臓がんは、私が人生で初めてかかった大きな病気だったのです。
診断が出たとき、私は意外とショックを受けませんでした。その時、どんな感情だったのかを表現するのは難しいのですが、「あ、とうとう来たんだ」という感覚でした。そうやって現実がすとんと、自分の中に落ちてきたのです。
もっと若い頃にがんになっていれば、不安を抱えたのかもしれません。「夢があるのに」「まだまだ生きると思っていたのに」と、悲観的になったかもしれません。でも、今の私は80歳を超えていて、この先そんなに長く生きる年齢ではない。寿命がすぐそこに見えているという事実が、私を冷静にさせました。
TBS『娘たちはいま』左から八千草薫、野添ひとみ、吉永小百合、尾崎奈々 ©文藝春秋
それに、くよくよ悩んだからといって病気は治りません。
「まぁ、病気になってしまったものは、しょうがないな」
そう思って、日々をしっかりと、精一杯生きていくしかないのだと思います。決して強がりを言っているのではありませんよ(笑)。
2017年に放送されたテレビドラマ『やすらぎの郷』の続編である『やすらぎの刻~道~』の放送が、今年4月から始まっています。病気を理由にこのドラマの役を降板すると決めたときは、さすがに心が落ち込みました。これまで病気を理由にお仕事を休んだことは一度もありませんでしたから。
脚本の倉本(聰)先生とは、これまで何本もドラマをご一緒させていただいています。先生は、演者が元々持っているものを膨らませるようにして、登場人物を作り上げていかれる方です。『やすらぎの郷』で演じた戦前の大スター・九条摂子はちょっと変わった役で、私としてはかなり大胆に演じたつもりですが、自分と似ている部分も発見できて、興味深く感じました。
ここ数年は年齢のこともあって、ドラマのお仕事をいただくたびに「これが最後かな」と覚悟して臨んでいました。『やすらぎの郷』もそうです。これが最後の作品になってもいいと思っていたほどでした。でもまた続編で役をいただけて。やっぱり、とても嬉しかったですよね。
自宅の居間でスイカを食べて ©文藝春秋
その矢先、今年の1月中旬に、がんが肝臓に転移しているのが見つかりました。私は一人二役で出演することになっていて、すでに片方の役は撮影が済んでいる状態。思い入れのあるドラマなので最後まで迷いましたが、もう一役を降板させていただく決断をしました。
役者さんの中には、「舞台で死ぬのは本望だ」とおっしゃる方もいます。そんな最期を迎えられたら、それはもちろん素晴らしいことです。でも私はずっとこう決めていました。
「誰かに迷惑をかけるようになったら、女優はやめよう」
映画やドラマなどの作品作りには、驚くほど多くの方が携わっていらっしゃいます。途中で何かあれば大勢の方に迷惑がかかってしまう。そこまでして、女優という仕事をしていたくはないのです。
©文藝春秋
歳をとったり、病気になったりすると、周囲の人たちがいろいろと気を遣ってくれるようになりました。道に段差があると、先回りしてさっと手を差し出されることもしばしば。ありがたいのですが、「自分で歩けるのに」と、ちょっと嫌な気持ちになることもあるんです(笑)。
焦って無理をしすぎると、周りに迷惑をかけてしまう。逆に、全く無理をしないと人生の可能性を狭めてしまいます。これからは、欲は持ちすぎず、“ちょっとだけ”無理をして生きていこうと思っています。
例えば道を歩いていても、コンクリートで出来た平坦な道はつまらなくて飽きてしまいます。逆に自然の中のデコボコした道は歩きにくいですが、「ここに足を置けばいいかな」と考えながら歩けるので、ちょっとわくわくしますよね。
女優業もそうです。今は闘病を続けていますが、体調に自信が持てるようになったら、出来る範囲でちょっとだけ背伸びをし、徐々に復帰していければと思います。
ウマがあった主人
今は亡き主人・谷口千吉とは、お芝居の世界で出会いました。映画監督をしており、私より19歳も年上でした。私は父を早くに亡くし、「父親」というのがどういう存在なのかを知らずに育っています。主人から「君は父親と結婚したつもりでいるんじゃないか」と、からかわれていましたね。私が26歳のときに結婚してから50年、95歳で亡くなるまでずっと一緒にいました。
主人は天真爛漫で話好き、おおらかでユーモアのある人間でした。まるで小さな子供みたいに、無邪気な一面もありました。
自宅の居間で御主人と寛ぐ八千草薫 ©文藝春秋
今でもよく思い出すのは、主人がお風呂に入っているときの記憶です。お湯加減がいいのか、「ああ、いい気持ちだな」「いやあ、いい気持ちだな」と、何度も何度も声に出して言うのです。とても大きな声なので、リビングにいる私のところまで聞こえてきます。何か返事をしなくちゃという気になって、「それはよかったですね!」とわざわざお風呂場まで言いに行ってあげていました。
長い結婚生活の中で喧嘩をしたことはほとんどありませんでした。私たちは好きなもの、面白いと思うことの価値観があい、主人といる時の私はすごくリラックスした状態になれていました。どこか似たもの同士で、ウマがあった、ということなのかもしれません。
主人が亡くなった2007年は、ちょうど結婚50周年でした。
19歳も離れた人と結婚したのですから、当初から先立たれることは覚悟していました。でも、山登りが趣味だった主人は体がとても丈夫で、「100歳くらいまでは元気に生きてくれるんじゃないかな」と楽観視していたのです。それが90歳を過ぎた頃からだんだん元気がなくなって寝込みがちになり、ご飯もあまり食べなくなってしまいました。
着物姿の八千草薫 ©文藝春秋
最期は肺炎で亡くなりました。その日、私は屋外でのロケが入っていました。しかも、神奈川・厚木の山奥まで行かなくてはならないので、何時間もかかるお仕事です。病院の先生は「もう何時間も持たない」とおっしゃるのだけど、ロケを休むことはできません。深い眠りに入っている主人にそっと「さようなら」とお別れの挨拶をしました。
50年も連れ添っていたのですから、もちろんすごく落ち込みました。でもある時、「しょうがないな」って思ってしまったのです。人の寿命は神様が決めるもの。主人が亡くなった過去は変えられません。
今でもふとした時に寂しさはやってきます。でも、その感情を否定することなく、寂しさと上手く寄り添いながら生きています。
主人がいなくなっても、私の周りには、彼との「思い出」がたくさん残っています。
主人は「何だか分からないけれど面白いもの」を見つけて持ち帰るのが趣味のような人でした。だから、家には変てこなものがたくさん置いてある。豚の貯金箱。巨大なマツボックリ。きのこの形をした物入れ。ヒマラヤで拾った石ころ。他にも、犬、猫、鳥、羊……様々な動物の置物がずらっと並んでいます。私が持って帰ってきたものもあります。例えば、ライチョウの置物。家電量販店にディスプレイとして飾ってあったのを見つけたのですが、あまりにも素敵で思わず「これ、いただいていいですか?」と持って帰ってきてしまいました(笑)。
ホテルでオーストリア料理を楽しむ ©文藝春秋
私はものが捨てられない性質で、「断捨離」という言葉が苦手です。ものを捨てるというのは、それにまつわる「思い出」も捨てるということ。自分の身を切られる感覚があるのです。だから私は今もたくさんの「思い出」に囲まれて生活を続けています。
80歳を過ぎた頃、「終活」をしようと思い立ち、遺言状をつくりはじめたことがありました。これが存外、大変な作業でした。時計や首飾りなど一つ一つの品物について、「これはあの方に」と書き付けていくのです。それはつまり、思い出を切り捨てていくという作業なので、だんだん苦しくなり、気分が暗くなっていくんですね。それで途中で断念してしまったという過去があります。
でもね、最近になって改めて決心して、遺言状をちゃんと作成しました。独り身なので、身支度を整えておかないと周りの人に迷惑をかけることになってしまうでしょう。それだけは絶対に避けたかったのです。
人見知りの原点
©文藝春秋
女優という仕事、現在の生活スタイル、人生についての考え方――。それらには、幼少期の体験が大きく影響していると思います。
私は2歳だったときに父を結核で亡くし、親元を離れて大阪市内の親戚の家に預けられていました。母は私を預けて仕事をし、1週間に数回程度は会いにきてくれていました。親元を離れて“よその家”で育てられる――。私の遠慮がちで人見知りな性格は、ここから始まったのだと思います。心のどこかが常に緊張して、人の気持ちを考えすぎるところがありました。
そう言えば、小学校の時にこんなことがありました。親戚が集まって、皆で食事に出掛けた時のこと。他の従兄弟たちが何を頼むか話しているけど、私だけ黙っているんです。「何が食べたいの?」と聞かれて「なんでもいい」と答えたら、「それは子供の返事じゃない。子供はなんでも好きなことを言いなさい」って、祖母に叱られました。あまり大人に甘えるという経験がなかったですね。でも大人になって主人と結婚してからは、甘やかされてのびのびと育っちゃったみたい(笑)。
小学2年生になった頃、私は体を悪くして、兵庫県の六甲に住む祖父母の家に3年間預けられたことがあります。周囲には緑豊かな畑が広がり、六甲に連なる山々をすぐ近くから眺めることができる、とてものどかな地域でした。だからなのか、今でも自然のなかに身をおくと心が安らぎます。
病気で転校したため、しばらくは学校にも通えないし、外でも遊べません。暇をもてあまし、家に置いてあった本に手をのばしました。それをきっかけに、たちまち物語や空想の世界に夢中になったのです。記憶に残っているのは江戸川乱歩の『怪人二十面相』やフランシス・ホジソン・バーネットの『小公女』など。祖父母が買ってくれた児童文学全集から大人向けの雑誌まで、片っ端から読み漁りました。
八千草薫、女優「日本の顔」和泉多摩川駅ホームで ©文藝春秋
それらの物語を通して、私はお姫様になったり、冒険家になったりと、空想の世界に浸っていました。そうやって夢のような世界への憧れが芽生えていったのです。
「こんな世界で生きていけたらな」
それが女優を目指すきっかけとなったのではないでしょうか。
その女優生活も今年で72年。仕事を頑張りながらも、それとは別の世界、プライベートを大切にするのが私にとっては非常に重要なことでした。何か一つのことにのめりこむということがなかなか出来ない性格で、興味があることを見つけると足を踏み入れたくなるのです。欲張りなのかもしれません。
今振り返ると、こっちに行ったりあっちに行ったりとふわふわしていて、仕事に対する厳しい姿勢が足りなかったのではないかと少し反省することもあります。ですが、別の世界を持っていたことで、様々な貴重な経験ができ、結果的に視野を広げることにも繋がりました。
ドラマの撮影中 ©文藝春秋
私にとっての別の世界。その一つが「山」になります。
主人は山登りが大好きで、結婚してからは私もよく連れていってもらいました。2人とも、冬の雪山が大好きでした。主人は背が高くて歩幅が大きいので、私を置いてどんどん先に登っていく。それを後から追いかけていくのですが、たった1人で、真っ白で幻想的な風景の中を歩いていると、山に大きく包み込まれているような感じがしたのです。
「山に登る」というより「山に入る」という感じ。自然の中に自分が入っていく、という感覚です。人間も動物なので、自然と一緒になるとすごく気持ちがいいんです。「自然」というと、紅葉などの景色を思い浮かべる方が多いと思うのですが、そういう「眺める自然」だけでなく、肌に触れる空気がヒヤッとしていたり、「五感で味わう自然」もあるのです。
そして「動物」もまた、昔から私にとって大切な存在でした。
小さい頃、家の近所に小型犬から大型犬まで、7匹ほどの犬を飼ってらっしゃるお宅がありました。その子たちの匂いを嗅いでいるととても落ち着くので、私は夜になるとそのお宅にうかがって、彼らに混じってすやすやと寝てしまうことが多かった。ノミがパジャマの中にいっぱい入ってくるので、母親にはよく怒られましたが(笑)。
今、我が家で暮らしているのは猫が1匹、犬が1匹。そして、庭には毎日小鳥たちがやって来ます。動物たちとは言葉を交わすことはできませんが、ずっと一緒にいると心が通じ合っているような気がします。そうでなくとも、なんとか彼らの気持ちを汲み取ってあげたいという気持ちがわいてくるのです。
自宅の居間で愛犬と ©文藝春秋
家の庭には、4メートル四方の小さな池があります。そこにはメダカ、オタマジャクシ、ヤゴなど様々な生き物が暮らしています。最近はオタマジャクシが小さなカエルになり、池からたくさん出てきてちょこちょこと歩いています。そういえば、アオダイショウがするすると庭に入ってきたことがあります。つい1週間前には屋根裏でハクビシンを見つけました。よその家の猫ちゃんたちは、勝手に遊びに来て、庭で日向ぼっこだけして帰っていきます。
家の庭からは、些細な四季の変化を感じとることもできます。鳥が花の種を落としていくので、春には庭のあちこちに花が咲き、夏は雑草が腰の高さにまで生い茂り、秋には池のヤゴが羽化してトンボが庭を舞うのです。
「今」を大事に
©文藝春秋
ただ自然の中に身をおいて、四季を感じ、動植物と触れ合う。そんな時間が私にとっては何よりの宝物なのです。こうしてのんびりと暮らしていると、「ひょっとして、私は人間よりも動物に近いのかな?」と思うことがあるくらいです。
その生活の中で気づいたことがあります。時間というのは、人間にも動物にも植物にも平等に与えられるものです。死も一緒です。生きとし生けるものに、確実に訪れます。私も病気をしたことで、自分の「死」が近づいたことを感じました。
ですが、全ての生き物の中で人間だけが、取り返しのつかない過去を嘆いたり、どうなるか分からない未来を不安がったりしています。過去や未来のことを心配しても何にもなりません。どうにもならないことは考えなくていいのです。
では何を大事にして生きればいいのか。
それは「今」です。1日をきちんと大切に生きるというのが、本当はとても難しい。目の前のことをごまかして先に進んでも、結局はうまくいかなくなります。私は「今」というこの瞬間から逃げず、一瞬一瞬を大事にして生きたいです。
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