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小説「観月 KANGETSU」#58 麻生幾

第58話
納戸(5)

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 七海がとった行動は自分でも驚いた。

 スウェットズボンからそっと取り出した携帯電話を呼び出した。

 メールは選択しなかった。

 もし襲われたのなら、通話状態にすることで、その証拠を涼に伝えたかった。

 そうすることだけが自分の命を守るものだと思う余裕もなかった。また、二人の関係に残された優しさがあることに賭けた、わけでもなかった。

 七海の頭にあったのは、命を守るためにすべきこと、それしかなかった。

 がたいのいい田辺に対して、女の力で何とかなるものではないことは明らかだからだ。

別府中央署

「今、管理官が仰ったごつ(とおり)、数日、帰宅でけんことを覚悟しろ」

 大分県警捜査第1課の植野警部が言い放った。

「第1容疑者とした田辺智之の所在を一刻も早う確認し、発見したならば、島津七海に対する殺人未遂容疑を直ちに連行する。つまり、これから大捕物が始まる、そげなことや」

 捜査員たちを見渡した植野はそう続けて勢いよく立ち上がった。

「これが捜査の熱気、ちゅうやつですか……」

 捜査本部を見渡す涼は紅潮した頬をしてそう言った。

「お前、コロシ(殺人事件)は初めちゃったか──」

 腕時計を見つめる正木はそう関心もなさそうに言った。

「はい、自分、これだけん大規模捜査に加わったんも初めてです!」

 涼は興奮気味だった。

「やったら、七海とかいう、あんかわいこちゃんに、今すぐ電話し、当分、遊べんち言うんやな」

 正木は抑揚もなくそう告げた。

「いえ、遊ぶなんて、まったく頭にもありません。よって連絡などしません」

 涼が慌てて言った。

「ところで、さっき決まった班編制通り、オレたちは──」

 正木がそこまで言った時、涼のズボンのポケットで携帯電話が振動した。

 涼は表情を変えなかったが、一瞬、視線がそこにいったことに気づいた正木が言った。

「電話に出ちやれ」

「いえ、今、仕事中でありますがゆえ──」

「ここずっと連絡しちょらんのやろ? 家族は大事や」

 正木は涼の肩をポンポンと叩いてから、人だかりができているデスク主任の遠井警部へ足を向けた。

 涼は頭を下げてから携帯電話を手に取った。

 案の定、ディスプレイには七海からの電話着信の表示があった。

 あれから気まずい思いが二人の間に塞がったことは分かっていた。

 ただ、当然、怪我をした七海のことがずっと心配でたまらなかった。

 しかし、早朝から深夜までの毎日の余りの忙しさで、思考が途絶えてしまったのだった。

 せっかく正木警部補が時間を与えてくれたのだ。

 ここはその言葉に甘えて、七海とのわだかまりを払拭したいと気持ちを切り替えた。

 電話に出た涼は最初、七海が何を言っているのかまったくわからなかった。

 ぼそぼそという音しか聞こえなかったからだ。

「七海、はっきり言えちゃ」

 涼は苛立った。

「こ、ろ、さ、れ、る」

 今にも消え入りそうな七海の声が聞こえた。

「なんだって?」

 涼は思わず声を上げた。

「た、な、べ、がここに──」

 その言葉は明確に涼の耳に入った。

「わかった、七海、オレの方ら言う。合っていたら息だけ吐き出せ」

 表情を一変させた涼が続けた。

「田辺がそこにいる? そうなんだな?」

 涼の耳に、七海が息を吐き出す音がはっきりと聞こえた。

「わかった。落ち着けよ」

 そう言いながら、涼は七海が怪我をしていることを思い出した。

「七海、お前は今、自宅にいる。そうだな?」

 さっきよりも大きな息が涼の耳に入った。

(続く)
★第59回を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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