出口さんカンバン

出口治明の歴史解説! ジャンヌ・ダルクを「発見」した人物は誰だ?

歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2020年3月のテーマは、「女性」です。

★前回の記事はこちら。
※本連載は第18回です。最初から読む方はこちら。

【質問1】女性の英雄といえば、いまでも映画やゲームなどで取り上げられるジャンヌ・ダルクの勇姿が一番に思い浮かびます。なぜ、これだけ有名なのでしょうか?

ジャンヌ・ダルクはフランスの国民的ヒロインですね。彼女が名を馳せたのは、ひとえにナポレオンのおかげです。今から説明しますが、国民国家(ネーションステート)の創出に彼女がうってつけだったからです。ジャンヌ・ダルクは、1412年頃にフランス東部のドンレミという村で生まれたとされています。

当時のフランスは、諸侯たちがイングランド側とフランス側二派に分かれて内戦を繰り返す百年戦争の最中でした。フランス王位をめぐってイングランド王家が介入したのが戦争の発端です。ジャンヌ・ダルクが登場する直前は、イングランド側が優勢で、パリを含めた北部フランスを制圧し、フランス全土を侵蝕しつつありました。長引く戦争でフランス経済はガタガタ、そのうえ前世紀の黒死病(ペスト)の影響で人口も激減しており、フランスは崩壊寸前の大ピンチでした。

ジャンヌは12歳のときに神の啓示を受け、「イングランド軍を放逐して、王太子のシャルルを王位に就けよ」という声を聞きます。彼女は1429年にシャルルに会い、「大天使たちにあなたを助けろと言われたので、イングランド軍を撃退する許可をください」と話します。負けつづけて追い詰められていたシャルルは、田舎から出てきた農民の娘が話すことに耳を傾けました。年齢でいえば、いまの女子高生に軍隊の一部を任せるようなものですよね。藁をもつかむ気持ちだったのでしょう。

ジャンヌは軍人として、甲冑を身に着けて戦地へ赴きます。オルレアン包囲戦(1428-1429)で積極策を唱えて勝利に導き、ここからフランス軍の反撃が始まりました。1429年にシャルルは王位に就き(シャルル7世)、ジャンヌは神の声を現実のものとしたのです。

しかし、イングランド側も黙ってはいません。ブルゴーニュ公国と連合軍を組んだコンピエーニュ包囲戦(1430)でジャンヌは捕虜となり、異端審問にかけられて火あぶりの刑となりました。シャルル7世は彼女にあれだけ助けられたのに、ジャンヌの身代金を払わなかったため、見殺しにしたと批判されています。

しかしその非難は、後世の感覚によるものかもしれません。ジャンヌ・ダルクが当時から国民の間で英雄扱いされていれば、シャルル7世も「是が非でも助けなあかん」と身代金を差し出したかもしれません。しかしネットもテレビも新聞もない時代です。彼女を知っていたのはごく一部の人たちに限られていました。そのために、彼女を助けようとする国民運動のようなものは起きなかったのです。

ジャンヌ・ダルクの存在は歴史の影に隠れてしまいました。すっかり忘れさられたジャンヌを新たに英雄として取り上げたのはナポレオン・ボナパルト(1769~1821)です。ジャンヌの時代から300年後。現在の日本が、暴れん坊将軍の徳川吉宗(1684~1751)を再びフューチャーするようなものです。

以前、紹介したように、ナポレオンという偉大なグランドデザイナーが登場したのは、フランス革命(1789~1799)の末でした。ルイ16世やマリー・アントワネットがギロチンにかけられ、イングランドはじめ王政の欧州列国は、「わが国にも飛び火したらかなわん」と対仏大同盟を結びます。フランスは四方八方から攻められて、もうおしまいか、という瀬戸際に立たされました。

ナポレオンは新聞に「ジャンヌ・ダルクは英雄だった」と書かせます。300年前も国家存亡の危機があった。その危機を救ったのは、田舎から出てきた乙女だった。彼女が戦場で旗を振ったからフランス軍は1つになって勝つことができた、という単純明快なストーリーです。我々はそのジャンヌの子孫なのだと訴えたのです。

ナポレオンが国民に伝えたかったメッセージは2つ。「国がまとまってワンチームになるとめっちゃ強いで」と「僕も田舎のコルシカ島から出てきた若き救世主やで」ということでした。

1つ目のワンチームは、ネーションステート(国民国家)です。それまで「〇〇家の領地」「○○公爵の領地」しかなかったところへ、「フランスという国家」「フランス国民」という新しい概念を打ち出したのです。日本も江戸時代の266藩の集まりが、明治維新で1つの国、1つの国民になったのと同じです。

アメリカの政治学者ベネディクト・アンダーソン(1936~2015)は、ネーションステートのことを「想像の共同体」と呼びました。これこそが巨大なワンチームの本質ですね。

この「想像の共同体」に不可欠なものは、マスメディアです。ジャンヌ・ダルクはナポレオンによって新しく「発見」された英雄といっていいでしょう。そして、メディアが、ジャンヌの名声を歴史に深く刻み込んだのです。

【質問2】「世界三大美女」に数えられる楊貴妃は、「傾国の美女」と呼ばれています。でも、本当に彼女の美貌によって国が傾いたのでしょうか? ほかに理由があるのに女性が責任を押し付けられているんじゃないでしょうか。

おっしゃる通り、楊貴妃(719~756)はそれほど悪い人ではありません。運命の巡り合わせといいますか、あくまでもタイミングの問題だと思います。

彼女が生きたのは唐の時代(618~907)で、日本でいえば奈良時代(710~794)の前半にあたります。フルネームは楊玉環(よう ぎょくかん)。貴妃というのは、皇后の次の位を示す皇妃の位です。

当時、唐の皇帝は、第6代の玄宗(在位712~756)でした。玄宗が皇帝の座に就いてしばらくは、「開元の治」と呼ばれ唐の絶頂期を迎えたほど政治が安定していました。玄宗はなかなかの名君だったのです。

一方の楊玉環は現在の四川省にあたる蜀州で生まれ、幼い頃に両親を亡くして叔父に育てられます。14歳のときに玄宗の第18子である寿王(李瑁)の邸に入り、17歳で結婚して寿王妃となりました。この寿王は18番目の皇子ながら皇太子に推されたこともあり、うまくすれば玉環は皇后になる可能性がありました。

しかし、寿王は皇太子になれませんでした。玄宗の寵愛を受けていた母の武恵妃が没し、後ろ盾を失ったからです。 

しかも、武恵妃を失った玄宗が、玉環を見初めて内縁関係になりました。寿王は母を亡くした上に、父に美貌の嫁を取られた形となり、まさに泣きっ面に蜂です。

さすがの玄宗も、息子の嫁を奪うのは世間体が悪かったのか、玉環はいったん道教の女道士になりました。出家して寿王とは離婚したことになり、それから玄宗の後宮に入ります。江戸城の大奥みたいなものですね。玉環が22歳、玄宗が56歳のときです。

王環は、賢くて物腰が柔らかく、音楽や歌舞の才能がありました。才色兼備のパーフェクトな女性でしたから、やがて玄宗の寵愛を一身に集めます。

貴妃となったのは27歳のときです。皇后に次ぐ地位ですが、玄宗には皇后がいなかったので、後宮のナンバーワン、実質的には皇后でした。白居易(772~846)の長恨歌に「王は早朝の執政を止めてしまった」と詠われたほどの惑溺ぶりでした。おかげで彼女の叔父、従兄、姉たちなどの楊一族はみんな出世をとげることになりました。

楊貴妃の一族である宰相の楊国忠と現在の北京を守っていた節度使の安禄山は、ライバル関係となり、玄宗と楊貴妃の寵愛と政治の実権を巡って激しく対立します。その権力争いが発展して安禄山が安史の乱(755~763)を起こし、玄宗と楊貴妃、楊一族は蜀州へ逃れようとします。楊貴妃の故郷ですね。

しかしその途中で部下たちが叛乱を起こし、楊一族を次々と殺しました。そして玄宗に「国を傾けた悪女」の楊貴妃を殺すように迫ります。玄宗は「彼女は関係ないやろ」と抵抗しましたが、追い詰められた楊貴妃は首を吊って自害しました。

玄宗が述べたように、楊貴妃は悪くありません。玄宗が政務を投げ出したのは、楊貴妃が美しすぎたせいではないからです。

玄宗は712年から44年間にわたって皇帝を務めました。初めの開元年間(713~741)は政治力を発揮し、税制や地方行政などの内政も、北方の外敵を封じ込める外交もうまくいき、唐の絶頂期を迎えました。「開元の治」と讃えられたほどです。

しかし治世が30年以上になれば、さすがの名君も政治に飽きてきます。国家の安定が実現すればなおさらでしょう。

楊貴妃を後宮に迎えたのは、まさしく開元年間が終わる頃でした。治世が30年を超え、武恵妃が死んでしまい、心身ともに疲れ果てていたのでしょう。

フランスのルイ14世(1638~1715)が、王妃の死後にマントノン侯爵夫人に溺れるのは、登極(とうきょく、天子の地位につくこと)から40年後。ルイ15世(1710~1774)が、ポンパドゥール夫人に溺れるのは、登極から30年後。2人とももういい加減、政治に飽き飽きしていたのでしょう。

日本のリーダーは、それほど在位期間が長くはありません。平清盛(1118~1181)が実権を握ったのは、平治の乱から死ぬまでの22年間ほど。源頼朝(1147~1199)が鎌倉幕府のトップの座にいたのは14年ほど。同様に、織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康もトップの座にいたのは20年足らずです。

どれだけタフでも、常に最終判断が要求されるリーダーが務まるのは20年が限界でしょう。それ以上は、頑張ろうにも頑張れないのです。リーダーが長期政権で心身ともに疲れてきたら、政治は自ずと乱れるものなのです。

楊貴妃が自害という悲劇的な最期を迎えたのは、見初められたのが、玄宗の絶頂期であり、あとは転がり落ちるしかなかったタイミングだったことが最大の原因ではないでしょうか。

それなのに「国を傾けた悪女」といわれるのは、おそらく、前回も書いたように男尊女卑の学問である朱子学の影響です。朱子学にかかると、やたらと女性が貶められるのです。

「絶世の美女」によって国が傾いたという記述があったら、それは政治に飽きてしまったおざなりな指導者の責任だと思って間違いはないでしょう。

(連載第18回)
★第19回を読む。

■出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。ビジネスから歴史まで著作も多数。歴史の語り部として注目を集めている。
※この連載は、毎週木曜日に配信予定です。

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