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山内昌之「将軍の世紀」 寛政改革の行詰り (2)「小普請の喰うや九八が書上も」 勝小吉と川路聖謨

歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。今月登場する将軍は、第11代・徳川家斉です。

※本連載は、毎週水曜日に配信します。

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   水稽古いたち松浦いぬのくそ貧乏神にとぶらひの供

 これは、下谷あたりに多く住む御徒(おかち)が、将軍補佐・松平定信の登城前の対客に遅れる原因を詠んだ歌だ。西之丸下(西下)の定信邸に日参を心掛けても、障害に出くわした日は屋敷にたどりつけないか、遅刻して御逢いの時刻に間に合わないか、とかく邪魔になる原因がある。それはまず、徒士に命じられる水稽古のせいだ。夏には将軍の上覧に供するので水練をなおざりにできない。これが対客の日参を朝から邪魔する一因である。道を横切るいたちも宜しくなく、犬の糞を踏まずに出かけるのも一苦労だ。不浄物を踏むと具合が悪く、葬儀の供に出会うのも縁起がよくない。貧乏神にたたられて日々出かけるのも物入りだというのだろうか。西之丸下へ日参の象徴といえば松浦市左衛門である。毎日やってくるので競争相手の身としては気がかりで仕方がない(『よしの冊子』上、四)。

 松浦市左衛門とは、通称からして千五百石の旗本・松浦信安の子・信賢であろうか。父は家治の嫡子・家基の小姓や小納戸の役にありついたが、子の方は『寛政重修諸家譜』の編纂時にも無役であった。市左(右)衛門の家は延宝年中(一六七三~八一年)には下谷の宗対馬守上屋敷の一つおいて北隣にあったが、この時期の下谷にはない(『寛政重修諸家譜』八、巻四百七十六。『江戸城下変遷絵図集 御府内沿革図書』十五巻)。また、千五百石の大身旗本は、この日参をするには家格が高すぎる気もする。少し後の嘉永四年と文久二年の尾張屋清七の『東都下谷絵図』を覗くと、いかにも御家人とおぼしき松浦才一郎の長屋じみた小宅が加藤遠江守上屋敷のすぐ西(下谷広小路の東)に記載されている。市左衛門と才一郎との関係は分からないが、こちらの方が逸話ともしっくりくる。いずれにしても市左衛門は、下谷から不忍池脇を抜けて昌平橋あたりを渡り、大名小路から西之下の定信邸を目指して毎日まっしぐらに早足で通り抜けたのだろうか。

 市左衛門は「西下が天だ」と信じて、その天に日勤して勘定になるのが天命だと吹聴すると、周りが聞いて、そんなら貴公は日勤よりは「天(転)勤」だと笑われた。才もさほどとは思えない。定信の公用人や出入りの人に頼んでも「ほろろけんのあしらい」だった。「神へ百度参り候ても神託がなかれバどうふか信仰が薄くなる」というボヤキには実感がこもっている。質素節倹の意味を知らない「文盲なる御役人衆」がおり、勘定吟味役でも算勘にうとい者がいたことを考えれば、市左衛門だけが学問に薄かったとは思えない。結局、市左衛門は「互にめのかたき」にしていた松井久三郎と一緒に支配勘定となった。かなりの抜擢でめでたし、めでたしであった。(『よしの冊子』上、一・三・四・五)。字さえ読めない旗本・御家人がいたことには驚くが、彼らが番入りを目指して、対客や御逢に日参したのにも驚く。しかも、それが現代人もよく知る人物の父なのである。当人のたどたどしい言い分を聞いてみよう。

十六の年には漸々(ようよう)しつ(疾)も能(よく)なつたから、出勤するがいいといふから、逢対(あいたい)をつとめたが、頭の宅で帳面が出ているに銘々名を書くのだが、おれは手前の名がかけなくつてこまつた。人に頼んで書て貰た。石川が逢対の跡で、「こじきをした咄しをかくさずしろ」といつたから、はじめからのことをいつたら、「能く修行した。今に御番入(ごばんいり)をさせてやるから心ぼうをしろ」といはれた(『夢酔独言』)。

 名前を書けぬやら、乞食をしたやら、これでも徳川の直参である。四十一石一斗二合六勺九才・二人扶持という微禄でもとにもかくにも将軍への御目見以上なのだ。勝左衛門太郎惟寅(これとら)という大層な名前だが、普通には勝小吉で通っている。勝海舟の父である。江戸っ子の啖呵めいた言い草は、芝居のセリフや下級武士が町人に変身した「やつし」のようなところがある。尻はしょりで緋博多の帯・長羽織をして草履取りを連れて深傘をかぶった番町の旗本も天明から寛政の時分にはいたことだ。これが小吉だったとしても驚かない(『よしの冊子』上、一)。小吉の素朴な江戸弁をそのまま気取りのない英語にしたテルコ・クレイグ氏の翻訳を読むとかえって江戸人の闊達な気分を味わえるのではないか。

I was sixteen. My infection had cleared up. It was decided that I should apply for official service. I went to Ishikawa’s residence to pay my respects. In the front hall there was a register for those seeking jobs to enter their names. I couldn’t even write my own name and to my great embarrassment, had to ask someone else.
After I had presented myself, Ishikawa said, “Tell me about your experience as a beggar. Keep back nothing.” I told him everything from the very beginning. “Well,” he said, “you might say it was a kind of toughening-up experience, and you came through all right. I’ll see you to it that you get an appointment soon. Be patient.” (Katsu Kokichi. Musui’s Story: The Autobiograpy of a Tokugawa Samurai. Tucson: The University of Arizona Press, 1988)

 これは文化十四年(一八一七)のことだ。松浦市左衛門の話は天明八年(一七八八)だから、二人の間には三十年ほどの開きがある。無筆の小吉を心配した小普請支配の石川とは、左近将監忠房であろう。蝦夷地問題でも定信を補佐し、やがて勘定奉行から留守居まで上り詰める高級旗本の手本のような男だ。石川がどうにもできないほど小吉は身持ちが悪く、また出奔するくらいだから番入りが巧くいくはずもない。ところが小吉と同じ頃、石川に見出されてトントン拍子に出世したのが川路聖謨である。豊後日田代官所の手代の子が御家人株を買って奮励努力の結果、遠国奉行の数々や勘定奉行を務めて小吉と正反対の生き方をした男である。川路は後に石川を「此人の恩殊に多く」と感謝の念を生涯抱き続けた(「天保八酉年十月調」『遊芸園随筆』)。他方、「燈心もて竹の根を掘如くにて、やうやうにして」(一生懸命努力しても効果がなく、ようやっと)と苦心を表現したのは、石川より一回り以上上で定信に仕えた森山源五郎孝盛である。番入りしても上役の宅に毎日出入りするのは勿論、なかには日に朝夕、二、三度も出かけて機嫌伺いする者もいた。こうして小普請与(組)頭になった森山は、同役二十三人を礼席に招いて四十八両もする酒菓魚物を提供するなど物入りが続く。しかも、風流・風雅でなく、形の大小、数の多寡にこだわる饗応だから森山ほどの教養人ならげんなりしたに違いない。六歳のころに母から四書五経、小学、三体詩、古文の手ほどきを受けた森山には、小吉にない教養があり、将来に目付・火付盗賊改・鑓奉行などに昇進する基礎ができていた(『蜑(あま)の焼藻(たくも)の記』、『日本随筆大成』第二期二十二巻所収)。それでは、出奔から戻って改心して番入りにまた精を出す小吉はどうなったか。

夫から毎日毎日上下(かみしも)をきて、諸々の権家を頼んであるひたが、其時、頭が大久保上野介といいしが、赤坂喰違外(くいちがいそと)だが、毎日毎日いつて御番入をせめた。夫から以前よりいろいろ悪ひことをしたことを残ず書取て、「只今は改心したから見出してくれろ」とていつたら、取扱が来て、「御支配よりおんみつをもつて世間を聞糺すから、其心得にていろ」といふから、まつていたら、頭が或ときいふにや、「配下のものはなにごともかくすが、御自分は残ず行跡を申聞た故、処々聞合(ききあわせ)た所が、いわれたよりは事おおきい。しかし改心して満足だ。是非見立やるべし。精勤しろ」といふから出精して、合にはけいこをしていたが、度々書上にもなつたが、とかく心願ができぬからくやしかつた。

 これは文政八年(一八二五)のことだ。今度の小普請支配は大久保久五郎忠晦である。音は「ちゅうかい」であるが、「ただみち」と読むのだろうか。盗妖騒動に際して賊に踏み込まれた大久保忠温の子である。小吉が改心して真人間になったから御城に出仕させろとは、将軍直参の言い草とも思えない。大久保が隠密を使って身状(みじょう)を調べると、小吉は書き留められた悪事よりもっと大きな事を起こしていた。改心したのだから真面目に対客に来いとありがたい言葉だ。しかし小吉には微禄で貧しくても、強者に卑屈で弱者へ居丈高になる虚勢は見られなかった。御役に就いても、たとえば奥州へ巡見使に出た者は、休憩場所でも金五両をせびりとったり、船賃も払わぬ者がいた。他では通じても、これを水戸徳川家につながる松平播磨守(常陸府中藩)の陸奥領内でやったのだからたまらない。事件は表沙汰になった。

「小普請の喰うや九八が書上も始終出世のたねを植崎」。四十俵二人扶持の植崎九八郎政由(まさより)が必死に番入の手蔓をつかまえようとする様を詠った狂歌だが、どこか憐憫と共感をこめた歌である。四十一石の勝小吉とおつかつな九八郎は、文化元年七月に罪を得て鳥居丹波守、次いで片桐主膳正へ大名預りとなり大和国で死に家絶えになった(『よしの冊子』上、五。『寛政譜以降旗本家百科事典』第一巻、702)。一説には政治向きの機密を上書で漏らしたともいうが、小普請無役の九八郎がどれほど政務の秘を知っていたというのだろうか。九八郎と同じく番入りが叶わなかった小吉なら、この悲しい結末を切ないほどまじめに受けとめられたに違いない。大田南畝(蜀山人)によれば、九八郎は勘定の成田九十郎正之の次男であったが、天明二年七月の養家の小普請・植崎弥一郎政信の後を継いだ。九八郎は実父のように勘定畑を目指したのであろうか(『一話一言4』巻二十五。『寛政重修諸家譜』第二十、巻千三百三十二、第二十一、巻千三百八十九)。九八郎は、最近の世上の弊害、政務のあるべきあらましをすべて半紙四、五十枚にまとめて定信に出したので、世間もこれを聞いて喝采した。九八郎の努力はよかれあしかれ誰でも知っており、定信に登用された森山孝盛が多少の優越感と憐憫をこめて書き留めている(『蜑(あま)の焼藻(たくも)の記』)。

 小吉が九八郎のような運命をたどらなかったのは、天明から寛政にかけて成立した江戸っ子の良い気質が小吉に強く教養もなかったからだろうか。その伝法な調子は英語訳で楽しむと分かりやすいかもしれない。

 Every morning I put on my kataginu and hakama and made the rounds of the powers that be. I went to Commissioner Ôkubo Kôzukenosuke’s home in Akasaka Kuichigaisoto and begged him to recommend me for a post. I even submitted a list of the misdeeds I had committed, adding a request that I be considered, now that I had repented. An agent came from his office one day. He said, “ Be forewarned that Ôkubo-sama will be sending out investigators to gather information on you.” I wait expectantly.
Ôkubo spoke to me one morning. “Your followers simply refuse to tell on you, and though you’ve confessed everything, we find upon investigating that the mischief you’ve done is far more serious than you say. Be that as it may, you’ve repented, and that’s good enough for me. I will do my best to get you an appointment. Continue to report diligently.”
I showed up at his residence with renewed fervor and practiced fencing in my spare time. Often enough my name was entered on the rolls of candidates, but bot once was I given a post. And that I found very galling.

「半紙四、五十枚」の建言とは、「植崎九八郎上書」として知られる史料である(『日本経済叢書』第十二巻、国会図書館DC、二二〇~二二七コマ)。文化・文政期を世評した名著、武陽隠士の『世事見聞録』は、この上書を「いずれも見識広く、肝胆を砕き、国政の好策に似たる」「国家の根本を執り直し、万民を安んずる」次のような書物と並べて評価している。熊沢蕃山『大学或問(わくもん)』、荻生徂徠『太平策』『政談』、新井白石の著述類、太宰春台『経済録』、山下幸内『武門大和大乗』、本居宣長『玉くしげ』。『世事見聞録』(青蛙房)に解説を寄せた瀧川政次郎は、九八郎の田沼意次批判を含む十五箇条をまとめているので、ここで要約しておこう。

(1) 諸大名の苛斂誅求の制止、(2)御料代官・手代の収賄、奢侈の禁止、(3)老中・若年寄への贈物の制止と人材登用、(4)大奥勢力の抑圧、(5)江戸市民の救い米を関東郡代でなく町奉行に命じること、(6)米売買を禁じて米価を下げ、銭相場を引き上げて細民を利すること、(7)農民の離村と江戸集中の制止、(8)藪医者・茶の湯の師匠・生花の師匠・俳諧師・生臭坊主らの遊民の減少を図ること、(9)博徒の手入れ、目明し・岡引(おかっぴき)の廃止、(10)町方与力・同心、鷹匠らの非礼横暴の制止、(11)婚姻・養子縁組を持参金の高で決める風潮の矯正、(12)遊女・売女・春画・張型などの禁止、とくに岡場所よりの年賦上納金徴収の停廃、(13)江戸中の無宿・菰かぶりの佐渡送りの停止、代わりに荒地の開墾・耕作への使役、(14)町方の隠密・密告の禁止、(15)田沼時代の諸運上の廃止。 

 一見すると九八郎の提言はすべて定信の改革に適いそうだ。しかし、(3)(4)は幕府政治の高いレベルの急所を衝くものであり、(14)は『よしの冊子』のような定信の情報探索の手法をあてこすっているように見えたのかもしれない。そもそも定信は、山下幸内の目安箱上書をこだわりなく参照した祖父・将軍吉宗と違って、献言を身分の弁えがない政治発言として必ずしも謙虚に受け止めるたちではない。九八郎は、蝦夷地問題の青嶋俊蔵、ロシア問題の林子平がはまった“負のスパイラル“にからめとられたのだろうか。定信が辞めた後も九八郎はどこまでも不運なのである。享和元年(一八〇一)の『牋策雑収』は、家斉への建言書や経済から外交に及ぶ各種の上書を含む堂々たる著述であるが、採用されなかった。(『日本経済叢書』第十二巻、国会図書館DC、二二八~三〇〇コマ)。中々に遠慮のない筆致が災いしたのだろう。「王と率直に話したい人は穏やかな言葉を使うように」というペルシア王キュロスの母の言葉は九八郎にもあてはまるのかもしれない(『モラリア』3)。

★次回に続く。


■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。
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