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本郷恵子さんの「今月の必読書」…『パトリックと本を読む 絶望から立ち上がるための読書会』

迷い続ける誠実さを綴る

「ハーバードの学位をどぶに捨てる気か?」

「あなたの産んだ子どもじゃないのよ」

「殉教者になるなよ」

両親や友人にくりかえし諫められても、彼女は生徒を見捨てることができなかった。

本書の著者ミシェル・クオは台湾系移民の家庭に生まれ、ミシガン州で育った。両親は、教育がアメリカ社会における安全と豊かさをもたらすと信じ、娘が成功したエリートになることを願った。娘は期待に応えてハーバード大学に進学したが、一方でマイノリティとしてのロールモデルを求めて、キング牧師やマルコムXなどの公民権運動の活動家に夢中になった。人の役に立つ仕事をしたいと思いつめ、教育困難地域に教師を派遣するNPOに登録し、ミシシッピ・デルタと呼ばれるアメリカ南部の最貧地域に向かう。

彼女が着任したのは、普通の学校を追い出された不良たちが送り込まれるオルタナティブ・スクール。公教育の最後の砦となるはずの場所だが、そこにいるのは暴力と無気力、説明のつかない衝動やすべてを拒絶する頑固さに取り憑かれた子どもたちで、彼らが切実に学ぶのは人生をあきらめることだった。

それでもクオ先生は奮闘した。本を読ませ、詩を書かせ、考えさせた。なかでも15歳のパトリックは、いわば教えがいのある生徒として彼女の興味を引いた。励ましに飢え、努力したがっているように見えたのだ。彼は最も成績の上がった生徒として表彰された。

クオは2年の任期を終えて、生徒たちに別れを告げ、ロースクールに進学する。だがパトリックが殺人を犯したと知らされて、再びデルタに向かう。心の中では「あなたがデルタを去らなければ、パトリックは監獄に入っていなかったかもしれない」という声が響いている。彼女は拘置所のパトリックのもとに通い、一緒に本を読み、詩を暗唱し、手紙を書かせる。読書の力によって人は予測を超えた存在になれる。

教師と生徒の人生は、少しの間交錯するに過ぎない。多分クオはパトリックという生徒に夢中になりすぎている。クオの親身な助けを得ることで、パトリックはたしかに成長する。だが彼女が離れてしまえば、パトリックの筆跡は乱れ、生活は混乱し、希望は萎れてしまう。彼がおかれている環境はあまりにも劣悪で、人間性そのものが蝕まれざるをえないのだ。クオはパトリックの人生をサルベージすることができたのだろうか。彼女の方法に傲慢や独善が潜んでいなかったといえるだろうか。

本書には答えは示されていない。ひとりの若い女性が、人生を賭して他者と関わり、さまざまな問いに対して迷い続ける誠実さこそを綴った記録である。

(2020年8月号掲載)

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