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許永中の告白「イトマン事件の真実」〈過去の悪行から新ビジネスまで10時間語り尽くした〉

 今年夏、戦後最大の経済事件と呼ばれる「イトマン事件」で知られる許永中氏(72)が、自伝『海峡に立つ 泥と血の我が半生』を上梓した。許永中氏は現在、韓国のソウル在住。日韓関係が史上最悪といわれるタイミングでの出版となった。
 実は、かねてから許永中氏は自伝出版の計画を『文藝春秋』のインタビューで明かしていた。日本と韓国という“2つの祖国”への想い、逮捕されるきっかけとなったあの事件の真相を10時間にわたって語った本誌独占インタビューを公開する。/聞き手・黒田勝弘(産経新聞ソウル駐在客員論説委員)

「在日の許永中は悪人や」と言われて

黒田 変なことを聞きますけど、韓国語はどれくらい話せるんですか。

 うーん、センセイ(黒田氏)の半分くらいかな。

黒田 日本生まれ、日本育ちの在日二世としては出来る方ですね。どこで勉強したんですか。

許 ここで暮らしながらの実践です。日本ではNHKの通信講座で少し習いましたけど。ゆっくりならハングルも読めますし、書けますよ。韓国での生活は今年で5年目になりましたから。

黒田 奇妙なことに今、日本では“バブルブーム”なんです。1980~1990年代のバブル経済時代に関連する書籍が相次いで出版されるなど、当時を回顧する人が増えています。「許永中」はバブルの時代を象徴する歴史的人物と言っていいでしょう。「闇の金脈」「金融フィクサー」「最後の黒幕」「バブルの怪人」……あらゆるダークな形容句で語られてきました。

 なぜそのように呼ばれているのか、自分でも正直よう分からんのですわ。私は金融業をやったことは今まで一度もありません。金融業者はむしろ嫌いです。カネ自体を商品にしようなんて考えたこともない。

 確かに、大きなカネを動かし、大きなカネを他人に貸しましたけれど、利息を取ったことはありません。私は、「事業家」になりたかったんです。私の名前が出てくる事件には、大きな金融業者が絡んでいたので「金融フィクサー」なんて冠がついてくるんでしょうな。

黒田 これまで動かしたカネはどれくらいになります?

 数兆円にはなるでしょうね。ただ、生意気な言い方かもしれへんけど、私はある時期からカネ持ちではなく精神的なリッチマンになりたかったんです。その気持ちは今でも変わっていません。だからこそ、何事にも全身でぶつかり、Uターンはせず、前だけを向いて生きてきました。しかし、結局は「在日韓国人」の印象を悪くしただけでした。「在日の許永中は悪人や」と。

黒田 「許永中」という人間の実態はほとんど知られていないのに、イメージだけが膨らみ、虚像ができてしまったのではないですか。あの時代に何を見て、何を思い、何をしたのか――。今、あなたが当時の証言を残すことには大きな意味があると思う。それに、ビジネスがらみの在日韓国人列伝でいえば、一世がロッテの辛格浩(重光武雄)、三世がソフトバンクの孫正義を代表選手とするならば、あなたは二世の代表かもしれない。あくまでもマスコミ次元の話ですが。

 いやいや、それはホメすぎです。私はホンマに悪い人間です。胸を張って偉そうに物を語れる人間でもありません。でも、私が逮捕された“二つの事件”については言いたいことがあります。だから、今回は取材を受けることにしました。

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現在の許永中氏

インテリで恰好良かった父

 許永中氏(72)ほどバブルとセットで語られる人物もいないだろう。
 在日韓国人実業家として存在が知られるようになったきっかけは1991年の「イトマン事件」である。大阪の総合商社・イトマンから約3000億円が闇社会へと消えた「戦後最大の経済事件」だ。許氏は、イトマンとの絵画取引をめぐる特別背任などの容疑で大阪地検特捜部に逮捕された。
 その後、1997年の「石橋産業事件」で再び注目される。東京の石油商社・石橋産業が、許氏に手形を騙し取られたとして東京地検特捜部に告訴したのだ。2年間に及ぶ失踪の後、2000年に詐欺容疑で逮捕される。この二つの事件で実刑判決を受けた許氏は2005年に収監。2012年には母国での服役を希望し、国際条約に基づいて韓国の刑務所へ移送された。2013年9月に仮釈放され、翌2014年9月に刑期満了となり、現在はソウル市内で生活している。
 韓国で暮らす中で、許氏は在韓35年の黒田勝弘・産経新聞ソウル駐在客員論説委員(76)と知り合う。その縁で今回のインタビューは実現した。約10時間にわたって自らの足跡を語った。

◆◆◆

黒田 経歴から振り返りましょう。1947年、大阪市大淀区(現・北区)中津生まれです。ちなみに僕は1941年に淀川を越えた近くの東淀川区で生まれましたが、中津は戦前から戦後にかけて在日韓国人が多く住んでいた地区ですね。

 私の生家は古い長屋で、日本人の子どもが「ここから先は入ったらアカン」と言われる在日韓国人地区との境目にありました。壁一枚を隔てて隣は別の家やし、家の前は幅2メートルの通路だったので日差しが入らなかった。そこで両親と姉と兄と私の五人が一緒に暮らしていました。もう一人姉がおったんですが、1945年3月の大阪大空襲で米軍の焼夷弾を浴びて黒焦げになって死にました。長姉はその時、顔と左手に大火傷を負い、今もその後遺症で苦しんでいます。

黒田 お父さんは韓国南部の慶尚南道・晋州の出身で、漢方医だったとか。

 父は痩身のインテリで恰好いい人でした。ペ・ヨンジュンよりも男前でしたよ。当然、私には似ていません(笑)。長姉は父に似て美人なのに、顔半分がケロイドになってしまって、ホンマにかわいそうです。でも、頭が良くて負けん気が強くて、自慢の姉でした。家計は、母が“どぶろく”を造って売って支えていました。私は、地元の高校を卒業した後は大阪工業大学に進学し、19歳で実家を出ました。

黒田 インテリのお父さんのDNAを引き継いだのかな。就職が難しかった在日の子弟の場合、手に仕事をつけるということで理工系になったんですかね。

 ところが、大学は中退したし、不真面目な大学生でしたよ。あの頃、私はホンマにワルでした。28歳までに人間として手を染めてはならないことのすべてをしましたから。窃盗、詐欺はもちろん女に堕ろさせた子供は10人以上。殺人もしました。路上で売られたケンカを買ったところ、誤って相手を死に至らしめてしまったのです。一緒にいた仲間が罪をかぶってくれましたが。

黒田 体はでっかいし、腕っぷしも強かった。それで、ビジネスを始めたのはいつですか。

 22、3歳の頃です。木下和政という友人と小さな会社を作ったのがきっかけです。非合法な金儲けもやりました。安定的な収入源は競馬のノミ屋、つまり非合法の私設馬券屋です。これは何十億という収入になりました。私は堅気でしたが、こういう仕事をやっていると周りに本チャン(本物)のヤクザが大勢集まってくる。そうやって地元で人間関係を作っていきました。

 28歳の時に大淀建設を買収し、その頃に“同和の大物”と呼ばれた部落解放同盟飛鳥支部長の小西邦彦らと知り合いました。そして、大阪府の同和対策事業を請け負うようになりました。下水工事から競艇場の解体などあらゆる仕事を引き受け、事業は一気に大きくなり、大阪でどんどん有名になっていきました。例えば、グリコ森永事件(1984年~1985年)が発生した時、私は大阪府警にマークされ続けたんですわ。

黒田 あの事件は迷宮入りしましたが、まさか、あなたが犯人だったとか。

 いやいや、関係ありませんよ(笑)。しかし、大阪府警が関連捜査であれこれ聞いて回ったところ、10人中8人から「許永中」という名前が出てきたらしい(笑)。実際、大阪府警に事務所や倉庫の中を調べられましたよ。「かい人21面相」の脅迫文を書いたタイプライターを探していたらしい。捜査員はひと月に一回は訪ねて来ました。別に犯人じゃないんで堂々としていましたけど。在日・同和・暴力団・右翼。どれをつついても、私の名前が出てくるようになっていたんですわ。

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聞き手の黒田勝弘氏(右)

金泳三元大統領の隠し子を……

黒田 そういえば、「野村永中」という通名を使っていましたよね。“関西のフィクサー”野村周史氏に可愛がられて、養子になったということですが。

 私は子どもの頃は「湖山」、最初の妻と結婚した後は「藤田」と名乗っていました。確かに「野村」は野村周史さんの苗字です。野村さんの息子と一緒に事業をやっていたのですが、「実の弟のように息子を頼む」と養子縁組を申し込まれたのです。ところが、戸籍上の養子になるには、私の妻も子も野村さんの養子にならないといけなかった。それは無理だったので、名前だけ「野村」でいくことにしたのです。野村さんを通じて大阪府知事の岸昌さんや東邦生命の六代目太田清蔵社長など次々と人脈ができました。野村さんは東邦生命の総代理店をやっていました。太田社長は、「神さま仏さま」のような人で、何度生まれ変わっても、あれほど素晴らしい人には出会えないでしょう。

黒田 太田社長に「あなたは日韓の架け橋になりなさい。韓国の国士として生きていきなさい」と声をかけられたことが人生の原点になっているとか。あなたが1988年のソウル五輪前に就航させた「大阪国際フェリー」は、そうした想いの結晶なんでしょうね。

 はい。私はずっと日本と韓国が親善を深めてほしいと考えていました。その一助を担いたいという使命感だけで大阪国際フェリーを設立しました。父の故郷は韓国ですが、私の郷里は大阪です。大阪への思い入れは人一倍ある。だからこそ、大阪と釜山の間に「日本と朝鮮半島との大動脈」を引きたかった。儲けたいなどという気持ちは一切ありませんでした。

黒田 大阪国際フェリーの代表取締役には、久間章生氏(後の防衛大臣)が名前を連ねています。1986年の就航第一便には俳優の高倉健も乗っていますね。

 ええ、乗っておられました。偉ぶることがない律儀で立派な人格者でした。

 今思えば、あれは私の「表舞台」へのデビューでした。就航許可が下りた時、大阪のホテルで記念パーティーをやったんですが、大阪府知事の岸さん、衆議院議員の浜田幸一さん、中山正暉さん、鴻池祥肇さん、柳川組組長の柳川次郎さん……と、政財界からヤクザまであらゆる人々が集結しました。だから、「許永中とは一体何者や」となってしまったんです。

黒田 1989年には大阪韓国青年商工会を旗揚げしましたね。設立記念式典の主賓の挨拶は、亀井静香氏(後の建設大臣)で、人脈の多彩さはここでも際立っています。特に亀井さんとの仲は今も続いているそうですね。

 さらに、日本だけではなく韓国の政財界にもパイプがありましたね。例えば、全斗煥元大統領(在任1980年~1988年)の弟で、韓国の裏社会に影響力があった全敬煥氏との交友が知られています。韓国の要人たちとは、どうやって知り合ったのですか。

 在日の世界で韓国と繋がりがあるのは、ほとんどはもう故人ですが、東声会の町井(久之)さん、柳川組の柳川さん、会津小鉄会の高山(登久太郎)さん、稲川会の石井(隆匡)さん、住吉会の堀(政夫)さん、極東会の松山(眞一)さんなどかな。私は身体が大きかったので年齢が一回り上の先輩にも生意気な態度で接していた。だからでしょうか、在日の先輩たちが目をかけてくれ、そういう流れの中で出来た人脈です。そうそう、金泳三元大統領(在任1993年~1998年)の元愛人と隠し子の面倒を見たこともありますわ。

黒田 ええっ、それはすごい。金泳三の隠し子の存在は、韓国でも知られてはいましたが……。

 金泳三さんが野党時代のことです。知り合いの弁護士が一人の女性を連れてきました。「日本で韓国料理店を営んでいるのだけど、金銭トラブルを解決してほしい」という依頼だった気がします。その女性が、金泳三さんの元愛人だったんです。当時23、4歳の子供を連れてきており、その子が隠し子でした。

黒田 金泳三本人との繋がりはないんですか。

 ありましたよ。彼の右腕だった男から、「(金泳三が)東京に行くのに韓国大使館が対応してくれない。車を出してくれないか」と頼まれた。私は「よっしゃ、分かった」と運転手を付けてベンツを貸しました。ところが、金泳三さんが帰国した後、KCIA(中央情報部)が私を調べにきました。「なんでやねん!」と追い返しましたが、まさか彼が後に大統領になるとは……。

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イトマンとの最初の接点

黒田 1980年代、あなたはバブル景気とともに日本有数の在日韓国人実業家へとのし上がっていきましたが、景気は1991年を境に下降し、バブルは崩壊へと向かっていきます。

 イトマン事件が発覚したのはこの年でした。あなたは絵画を介してイトマンに関わっていきます。絵画を持っていき、イトマンがカネを出す――。こうした取引で約450億円というカネを動かしました。

 世間的には「許永中はイトマンから何千億円ものカネを騙し取って喰った。だから逮捕された」となってますね。これ、実に不本意な話なんですわ。イトマン事件は、本来は私の事件ではありません。

黒田 なぜイトマンに関わるようになったんですか。

 コスモポリタンという仕手グループを束ねている池田保次という男がおりました。以前は山口組系のヤクザで、私の知り合いでした。その池田から1980年代半ばに「ものすごく仕事ができる面白い男がいる」と一人の男を紹介された。それが協和綜合開発研究所所長の伊藤寿永光でした。その直後、なぜか山口組五代目若頭の宅見勝さんも来た。伊藤が連れてきていたんです。私はある事情があり、宅見さんとは犬猿の仲。伊藤はそれを知っていて宅見さんを連れてきた。「コイツ、嫌なやっちゃな」と思いましたよ。宅見さんはその後、伊藤の背後でイトマン事件に関わることになります。

黒田 伊藤氏はイトマンの河村良彦社長と蜜月になり、1990年に同社に入社すると筆頭常務に就任します。イトマンと許さんを繋いだのは伊藤氏ですか?

 そうです。ある日、伊藤がイトマンの専務・加藤吉邦さんを連れてきました。加藤専務は私に「弊社が所有しているロートレック・コレクションを買ってもらえませんか」と言いました。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックはフランスの画家です。私は当時、美術館が併設された「韓国国際文化センター」の設立準備をしていたので、絵画を買うと考えたのでしょう。

黒田 イトマンはなぜロートレック・コレクションを持っていたのでしょうか。

許 イトマンのメインバンクだった住友銀行の“天皇”磯田一郎会長の娘が「西武ピサ」という高級美術品専門店に勤めていました。イトマンの河村社長は元々住銀の常務で磯田会長の側近でした。磯田会長から「娘がロートレックの売り先を探している。イトマンで引き受けてくれ」と相談され、OKしたのでしょう。16億円で購入したと聞きました。加藤専務に「その絵をナンボで売ってくれるの?」と聞くと、「60億円です」と言う。私はパリで芸術の世界を垣間見ていましたから、それでも安いと思い、購入を即決しました。

 それからしばらく経つと、加藤専務は別の依頼をしてきました。「現在、イトマンは7000億円の貸し出し債権を所有しているが、ほとんどが不動産に偏っていて、リスクが大きすぎる。リスクヘッジをしたい。最近、三菱商事をはじめ商社は絵画を介して金融ファイナンスを始めているのでわが社もやりたい。7000億円のうち3000億円を予定しているのですが、許さんの絵画を担保にウチから3000億円借りてくれませんか」と。

黒田 今度は逆の依頼をしてきたわけですね。

 そうです。私の所有する絵を差し出す代わりに「カネを借りてくれ」と頼まれたんです。行きがかり上、私は承諾しました。

黒田 その絵画取引が原因で1991年7月、あなたは「不当に高く吊り上げた金額でイトマンに絵画を買い取らせ、損害を与えた」として、特別背任罪で大阪地検特捜部に逮捕されます。検察は「(許氏が)融資を引き出した際、イトマンに『企画料』という名目で計約49億円を還流させるなど資金的な運命共同体の伊藤氏らとの共謀があった」とも説明しています。

 それがおかしいと言いたい。特別背任罪は本来、会社の役員等が問われる身分犯ですよ。なぜ、私にそれが適用されるのか。また、私はなぜか「企画料作り」に加担したことになっている。社外の人間がそんな名目を知るはずがないんです。あれは伊藤と加藤専務がやったことでしょう。あの絵画取引はどこまで行っても私とイトマンの間の融資でしかない。しかも、イトマンから頼まれたことですよ。しかし検察は私とイトマンの7カ月間の絵画取引のうち最初の2カ月は「融資」、後の5カ月は「売買」と勝手に分類し、「許永中が値段を吊り上げた」と決めつけました。

 このストーリーは、住友グループのオーナー家の顧問弁護士だった元大阪地検特捜部長の小嶌信勝氏が作りました。小嶌氏は弁護士の身でありながら特捜部に入り浸って事件の筋書きまでやっていた。要するに、住銀本体は事件化しないようにするために、イトマンと私だけを切り捨てたのです。

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伊藤寿永光氏への思い

黒田 そういえば、後の石橋産業事件で主任弁護士を務めた木下貴司氏も“ヤメ検”でしたね。

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