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緊急座談会《危機のリーダーの条件》 第2章 明治維新「人材発掘とグランドデザイン」大久保利通、西郷隆盛、山縣有朋、伊藤博文、勝海舟

日本を救えるのは誰か?明治維新から米中対立まで、全5時間の大討論!/葛西敬之(JR東海名誉会長)、老川祥一(読売新聞グループ本社会長)、冨山和彦(経営共創基盤グループ会長)、片山杜秀(慶応大学教授)

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(左から)葛西氏、老川氏、冨山氏、片山氏

明治維新の原動力とは?

——ここからは時計の針を大きく巻き戻したいと思います。コロナ禍において、有事に対応できない国であることを露呈してしまった日本ですが、かつての明治維新では凄まじいスピードで「国のかたち」を作りかえました。その意味で今一度、明治維新に光を当てる意義はあるのではないでしょうか。

日本は明治維新によって、廃藩置県や秩禄処分(華族・士族への家禄支給廃止)、岩倉使節団の派遣などの近代化改革を断行し、目覚ましい成果を上げることができました。その原動力はどこにあったのでしょう。

葛西 島国の日本は周囲を海で守られているため、古来より外敵による侵略はないに等しいという特殊な環境下にありました。そのため専ら国内問題に終始する内向きの状態が約2000年にわたり続き、強いリーダーは必要とされず、宮廷内あるいは閣内での少数のコンセンサスに基づき統治がなされてきたというのが特徴です。ところが19世紀に入って、欧米列強はアジアに勢力を拡大し、1840年には清国とイギリスの間でアヘン戦争が勃発しました。日本は長崎・出島を通してこうした世界情勢の最新情報を仕入れており、自ずと民族独立の危機意識が高まりつつあった。そこに黒船来航のインパクトが起こり、明治維新へと繋がっていったわけです。

老川 江戸幕府は、実は驚くほど情報通でした。アヘン戦争でイギリスが清国を打ち負かしたことが、幕府に相当なショックを与えていたのは間違いありません。

1853年の黒船来航では、来航当日すぐに、浦賀奉行所の与力・中島三郎助が通訳を連れて浦賀に向かいました。浦賀に通訳がいたのは、アメリカから江戸に艦隊が派遣されるらしいと情報がすでに入っていたからです。艦内に入った中島は大砲を見て、「これはパクサンズ砲ですね」と、すぐさま言い当てたそうです。さらに「射程距離はいかほどか」と、突っ込んだ質問もしている。海外の最新技術についても相当の知識を備えていました。

問題は、それほどの情報と危機意識を長らく持ちながら、当の幕府が具体的な対策シナリオを練っていなかったことです。仮に欧米列強が日本に進出した場合、国としてどのような対応をとるべきかについて、積極的な政策を見出せないままでした。情報あれども対策なし。これは現在の日本のコロナ対策にも通じる気がします。

岩倉具視

岩倉具視

独裁に始まり、独裁に終わった

片山 黒船来航前、江戸幕府にとっての最大の脅威はロシアでした。1792年にラクスマンがロシア皇帝の命を受け、日本との通商を求めて根室に来航した時から、幕府の危機意識は高まっていたのです。

実はこの頃から、日本では様々なレベルで有事の政治システムの検討が始まっています。幕府は長年、譜代大名の中から任命された老中数名が江戸城で、言わば密室政治をおこなっていた。意思決定はブラックボックスの中で行われていたのです。平時はそれで問題ありませんでしたが、国家の非常時となれば、武士は藩のしきりを超え、町人や農民まで巻き込んで、一体となる必要がある。数名の老中の密室政治では、国家総動員を促すのはとても無理です。なるべく大勢が意思決定に加わって、責任意識を持たないと総動員体制は作れません。

そこで水戸の徳川斉昭や老中の阿部正弘が、黒船の時代に推進したのが、後の言葉を当てはめれば「挙国一致の政体」です。幕政に、薩摩・土佐・越前など力のある藩を参加させ、更に朝廷の意見も重く聞くものでした。

しかし、「挙国一致」はすぐに退けられました。老中政治で追いつかなくなる緊急時には、合議でなく独裁というのが徳川の政治の伝統なのです。そのために大老という、平時には居ない緊急独裁官が出てくる。大老に任じられた井伊直弼は安政の大獄で、合議にこだわり天皇の意を尊重する勢力をまとめて弾圧しました。

ところがうまく行かなかった。なぜか。すでに政治は幕府と朝廷の2頭立てで動き始めていたのに、井伊の独裁権は幕府にしか及んでいなかったからです。井伊が斃れるともう強権は成り立たない。上は天皇から下は浪人までが勝手なことを言う時代になりました。

公家や下級武士たちはそこを掻き分けて、むろん暴力も派手に使って、明治維新を成し遂げました。彼らがその時に学んだのは、みんなの意見を聞いては話がまとまらない、国家の危機は強権や独裁をもって乗り切るのがよいということです。そこで天皇というワン・トップを絶対化し、井伊直弼のような独裁をおこなうという結論に達した。初期の明治政府は、維新に功のあった志士たちによる、議会も開かない強権的密室政治と言えます。結局、明治維新とは、井伊直弼の皇帝独裁から志士たちのプロレタリアート独裁へ、つまり「独裁に始まり、独裁に終わった」と言うべきものでした。

自由に考え行動できた下級武士たち

葛西 薩摩藩や長州藩の下級士族が国家存亡の危機に際してなぜ見出され、リーダーとして国家建設を成し遂げることができたのかとよく話題になります。この点について私は、彼らの活躍は歴史的必然だったと考えています。江戸時代には、幕藩体制が確立されましたが、上・中級の武士たちはこれに組み込まれ、自由な思考や行動を制限されていた。下級武士たちは幕藩体制の枠の辺縁で、身分・階級に捉われることなく、自由に考え行動することができました。そして彼らに藩ではなく、民族に対する帰属意識が存在したことは、後の国民国家建設へと繋がる、ある種の心の準備となっていたと言えるでしょう。薩長では、そういった下級武士が積極的に登用されていた。薩摩藩では、藩主・島津斉彬が西郷隆盛を見出し、自分の分身のように使いました。弟の島津久光もそれを真似て大久保利通を側近として引き上げました。この西郷と大久保の下に薩摩の下級武士が集結し、精忠組が結成された。

また長州の毛利敬親は、常々藩士に「うむ、そうせい」と言っていたため「そうせい侯」と呼ばれるほどで、部下に任せ自由にさせるタイプの藩主でした。藩主があれこれ言わないので、長州の下級武士たちは京都や江戸で諸藩の同志と交流し、民族意識を高めることができたのです。そしてその旗印が尊王でした。

薩摩藩や長州藩は江戸から離れているため、幕府の力が及びにくかったことも幸いしたと思います。

冨山 薩摩藩と長州藩は外様の大藩として数百年にわたり幕府から冷遇されていました。薩長の武士たちはずっと不満を抱いてきたわけで、その中でもさらに冷遇されてきた下級武士たちからは、倒幕や廃藩置県の発想も自然に出てきたのかもしれませんね。

老川 私が注目しているのは、当時の教育制度の充実です。東京・湯島に建てられた幕府直轄学校「昌平坂学問所(昌平黌)」では、幕臣のほか、藩士や浪人の聴講も認められていました。各藩では藩校が設置され、幅広い分野の教育が受けられた。薩摩藩や長州藩にいたっては、イギリスなど欧州に留学生を送り込んでいました。留学先で、「なんだ、お前も来てたのか」と、異なる藩の藩士同士が鉢合わせることもあったそうです。

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湯島聖堂

「運」と「タイミング」が重要

片山 蘭学を学ぶなら長崎か大坂、剣術を学ぶなら江戸の道場まで行かせた。そうして藩を超えた武士たちのネットワークが形成されていったことは、明治維新の準備段階としては大きいですね。

江戸時代が下るにつれ、商業の発達で貨幣経済が浸透し、武士が農民から年貢を巻き上げるコメ経済との釣り合いがとれなくなった結果、諸藩は経済危機に陥っていました。これは慢性的な危機です。幕府や藩は教育に力を入れ、優秀な人材をなんとか育成・登用しようとした。農民や町人の家で頭の良い子供がいれば、武士の養子にする形で引き取って学問を叩き込みました。

老川 幕末のような大混乱期は、しっかりとした素養を身に着けていないと乗り切れない。下級武士たちは様々な知識を蓄え、見識を深めていたからこそ、国家の大事業を成し遂げられたのだと思います。

ただ、いくら優秀な人材がいても、活躍の場を与えられなければ意味がありません。黒船来航時、当時老中だった阿部正弘は自分一人では対応を決め切れず、全国各藩、幕臣に海防についての意見書を公募しました。いわゆる「処士横議」です。様々な意見が寄せられたなかで、阿部の目に留まったのが若き幕臣・勝海舟の意見書でした。この意見書がきっかけとなり、勝は31歳で目付海防掛に取り立てられる大出世を果たしたのです。

先ほど紹介した『指導者とは』で、ニクソンはリーダーに必要な条件として「運」と「タイミング」を挙げています。勝海舟が運を掴むことが出来たのは、有事に際して幕府が優秀な人材を求めるというタイミングに恵まれ、それに勝が手を挙げたからでしょう。平時では誰の目にも触れず、将軍に謁する機会もなかったかもしれません。そう考えると国家に危機が訪れる時こそ、真のリーダーが出てくるものかもしれません。もっとも、そのためには若者たちが勉強して、教養や知性を磨いていなければなりませんが。

冨山 明治維新はある種、「ミドル層」が起こした革命ですね。人間は組織で上の立場になればなるほど、様々な与件(議論の余地がないとされる事実)に縛られてしまいます。幕藩体制下では、上級武士たちは江戸幕府の与件でがんじがらめになっていました。これでは大胆な改革はおこなえない。かといって完全な外野の人材になると、建設的な議論ができません。そうした意味で、権力の中枢でも外でもなく、その辺縁に位置した下級武士こそが維新を可能にしたのは必然と言える。

勝海舟

勝海舟

国鉄改革はミドル層の革命だった

片山 明治維新は、旧体制の既得権益層を退場させ、天皇のもとで国民全員が横並びとなる仕組みを作るものでした。身分制度をやめる決断は、既得権益を持つ上級武士では、絶対に踏ん切りがつきません。ミドル層の下級武士が革命を担ったからこそ、上手くいった面はあると思います。

冨山 コロナ対策も、日本が強硬な手段を取れないというのは変更可能な与件で、法律的な制約なんか取っ払えばいいと考えてもよかった。極論かもしれませんが、昨年秋の臨時国会でそのための法律を通すこともできたんです。

例えば、今日の座談会にいらっしゃる葛西さんが携わられた国鉄改革も、さまざまな与件を取っ払っていくミドル層による革命です。国鉄改革は1980年代で、当時の葛西さんは本社の課長クラス。江戸時代でいう下級武士の立場で、国家的大事業を成し遂げたわけです。御著書も読ませていただきましたが、「課長の立場でこんな工作を?」と思うくらい、大胆な発想や行動をされていて驚きました。

葛西 国鉄改革に携わっていた頃、東大の恩師・岡義武先生の『明治政治史』をよく捲っていました。大久保や西郷が明治維新に取り組んでいた様子を本で読み、非常に勇気づけられましたね。

国鉄は東京オリンピックが開かれた1964年度に単年度赤字に転落して以来、ずっと赤字続きでした。国鉄では運賃、賃金、要員数、設備投資など、経営の重要事項が全て国の予算の一部だった。国の予算は政府が立案し、国会の決議を経て初めて成立します。自社なれ合いの政治体制のもとでは、政治的妥協は必然。故に施策は常に不十分で、時期遅れという宿命を負っていました。赤字が出れば財投借入で問題を先送りという手法の繰り返しです。その結果、1981年に累積債務は16兆円まで膨らみ、さらにこれが毎年約2兆円ずつ増えていくという状況にまで経営は悪化した。もはや国鉄を清算し、民営化するという道しかありませんでした。

ちょうどその頃、国家財政が悪化したこともあり、中曽根内閣が「増税なき財政再建」を掲げ、行政改革を実行しようとしていた。我々はこの機会を捉え、政府に協力し、国鉄を分割民営化しようと考えました。そういう意味では我々は本社中枢の中堅エリートの一部であり、政府に協力していたのです。上層部は現体制を維持し、問題の先送りを続けようとした。確かに中堅だったからこそ、思い切った発想ができたというのは、下級武士の話と通じるものがあるかもしれません。

国鉄を民営化するためには、地方ごとにコストを反映した運賃を設定し、労働賃金は地方の物価を反映させたものでなければならない……というと、地域分割しかありません。絶妙のタイミングと人の配置に助けられ、なんとか分割民営化を成し遂げることができました。

日本の人材システムの問題点

冨山 明治維新を進めた大久保や西郷のような優秀な人材をどうやって育てて登用するか。国家的課題であると同時に、リーダーの課題でもあると感じています。

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