不確実であることの美|中野信子「脳と美意識」
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不確実であることの美|中野信子「脳と美意識」

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※本連載は第34回です。最初から読む方はこちら。

 わからないということを味わえる人は周りを見渡してみてもごく少ない。現代の人々は迅速に答えを出すことを求められすぎて、わからないという状態を味わい、自分でじっくりと考えて答えを出すことの楽しみを、どこかに忘れてしまっているのではないかと思える。AなのかBなのか、それともどちらでもないのか、そのどちらでもあるのか……答えが出ない状態は、脳に負荷のかかることでもあるから、これに耐えられるかどうかはその人の知性を測る上ではかなり有効な指標になり得る。

 膨大な知識を持ち、何もかもにクリアな答えを迅速に出すことのできる人が、頭が良いとは私はあまり思わない。それはすでに機械がやっているか、できるようになるのも時間の問題という領域の話だ。例えばどんなに俊足のランナーであっても新幹線と張り合って東京から京都までを2時間を切るスピードで走ることのできる人はいないだろう。そもそも張り合うこと自体が愚かだ。賢い人間ならば、自分がテクノロジーと張り合って速く走ろうとするよりも、新幹線をどれだけコスパよく使えるかに注力するだろう。

 アメリカの心理学者ハイダーは認知的均衡理論を提唱している。人間は、他者との関係が不均衡になることを避けるように行動しているという理論である。この中で、人間の確信の根拠がどこにあるのかにも触れている。確信は、その対象を考えるときに常にそれに特徴的な印象が生起し、しかも自分の周囲の他者も自分と同じ考えであることが信頼できるときに形成される、という。

 たとえば、何か一つの仮説を思いついたとしよう。その仮説についての印象が特徴的で、自分は常に同じ感じをそれに対して持っているとき、周囲の人間たちが同じような印象を持っているということを繰り返し確認してしまうことで、その考え方はもはや仮説ではなくなり、確信となってしまう。

 インターネットという特殊な認知空間の中では、自分が検索したものや購入したもの、閲覧したものに応じてそれに類似の情報が提供されるように設計されているという使用上の特性から、こうした「確信」が生成されやすい。確証バイアスが自然に無自覚に形作られてしまうという罠が基礎から仕込まれているということだ。

 誰かが、自分はこうだと確信している、と言っているときこそ、注意する必要がある。その「確信」は、その人物の認知の中にあったもやもやとした印象が、特定の傾向を持った複数の(時にはソースを同じくする)情報によって、その信頼度を増幅させた結果、発出されているものである場合が少なからずあるだろうからだ。

 このようにして生成された確信は、よほどのことがない限り、崩されることはめったにない。これは、生きる上での戦略として人間が脳に内在する機能として身に着けてきた効率的な学習方法であるから、一朝一夕に変えることも難しく、また消去することもできない。私たちにできることは、ただ「気をつけること」だけなのだ。

 私たちの世界は、実に多くの根拠のない「確信」で満たされている。それは私たちの心を楽にもし、脳にかかる負担を減らし、コスパ良く生きるための必要な礎石として私たちの生活を支えている。

 しかしながら一方で、狭い情報の圏内で形成された確信的文脈が、極端な事実の歪曲を孕んでいたり、柔軟な修復力も伴わない場合、誰かを傷つけ、それは巡り巡って自分と自分の大事な人に致命的なダメージを与えてしまうこともしばしばある。

 自我を安定させ、手っ取り早く安心と満足感を得るには、答えを迅速に出して、わからなさを排除することがその方法ということにはなるのだが、その危険性を深く理解したうえで、敢えて、わからなさを味わうという知的なぜいたくを、時間のあるうちにぜひ読者には奨めてみたい。これは成人してからも成長する脳機能領域を発達させるための有効な方法であるといえる。こういうトレーニングを多くの人は学校教育の現場ではしてきていないと思うが、私たち日本人は歴史的に、わからない、という心地よさ、こうしたあいまいさを、美意識として尊んできた伝統を持っているのではないだろうか。もう一度そこに立ち返って、答えを出さないということの価値を、再考してみてはいかがだろうか。

(連載第34回)
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■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。京都芸術大学客員教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。


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