見出し画像

山本健人(医師・外科専門医) 外科の歴史をたどる

文藝春秋digital
文・山本健人(医師・外科専門医)

星座に関心のある人なら、カニ座を「Cancer(キャンサー)」と呼ぶことはご存知だろう。実はcancerには「がん」という意味もある。なぜ、がんがカニなのか。これは、古代ギリシャの医師ヒポクラテスが、がんを「カルキノス」(ギリシャ語のカニ)と呼んだことに由来する。紀元前400年頃のことだ。乳がんが乳房をえぐるようにして広がる様子が、まるで脚を広げたカニのように見えたからである。

実は、18世紀頃まで最も多いがんは乳がんだった。最大の理由は、乳がんが体表面の病気であることだ。19世紀より前の全身麻酔がなかった時代には、体内の異常を疑っても、皮膚を切って体内を見てみようなどという発想すらなかったはずだ。体内の病気はかつて、その存在を知ることも治療を施すことも難しかったのである。最も見つかりやすいのが乳がんだったというわけだ。

長い医学の歴史を振り返れば、「つい最近」まで外科医は、体内ではなく体表面の治療を担ってきたことが分かる。私は外科医として、日々メスで身体を切り開き、臓器を摘出したり血管を縫い合わせたりして体内の病気を治療しているが、この姿を外科医の典型的なイメージだと思われたなら、それは実に現代的な発想なのだ。

興味深い話を紹介しよう。イギリスでは、外科医をドクターではなくミスターと呼ぶ習慣がある。一方、内科医はドクターである。かつて西欧諸国では、手術は医師の仕事ではなく、床屋の仕事だったからだ。ミスターという称号は、「医師といえば内科医」であった時代の名残である。

当時の床屋は、散髪だけでなく、いぼの切除などの小手術から怪我の治療まで、さまざまな業務を行っていた。戦争の際に従軍したのも、こうした床屋外科医である。戦地では、多くの兵士たちが大きな傷を負う。しばしば傷は膿み、感染は全身に広がって兵士の命を奪う。消毒薬も抗生物質もなかった18世紀以前、傷の感染を予防するために、熱した油で傷口を焼いたり、手足を切断したりするのが一般的だった。麻酔もなしに、である。患者は痛みのあまり絶叫し、時に失神した。今では想像もできないほど外科治療は未熟だったのだ。

この続きをみるには

この続き: 863文字
この記事が含まれているマガジンを購読する
月刊誌『文藝春秋』の特集記事を中心に幅広いテーマの記事を配信しています。政治家や経営者のインタビュー、芸能人の対談、作家のエッセイ、渾身の調査報道、一流作家の連載小説、心揺さぶるノンフィクション……月額900円でビジネスにも役立つ幅広い「教養」が身につきます。

文藝春秋digital

¥900 / 月

一流の作家や知識人、ジャーナリストによる記事・論考・ルポルタージュなどを毎日配信。執筆陣のオンラインイベントも毎月開催中。月額900円で記…

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
文藝春秋digital

記事へのご意見・ご感想をお待ちしています。「#みんなの文藝春秋」をつけてご自身のnoteにお書きください。編集部がマガジンにピックアップします。皆さんの投稿、お待ちしています!

文藝春秋digital
月刊誌『文藝春秋』の特集記事を中心に、一流の作家や知識人による記事・論考を毎日配信。執筆陣のオンラインイベントも毎月開催中。月額900円で記事読み放題&イベント見放題のサービスです。