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小説「ミス・サンシャイン」# 4|吉田修一

【前号まで】
昭和の大女優・和楽京子こと石田鈴の元で荷物整理のアルバイトをする大学院生の岡田一心は、彼女の作品を共通の話題にして、カフェの女性店員と交流を深めていく。肉体派女優と呼ばれた和楽京子は巨匠・千家監督の目に留まり、後に世界を席巻する『竹取物語』に出演した。

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凱旋帰国

 一九五〇年代のことである。その年、日本映画界はもちろん、まだ敗戦の色濃い日本全土を歓喜の渦に巻き込むニュースが駆け巡る。

 和楽(わらく)京子を主演に迎え、千家(せんけ)監督がメガホンを取った『竹取物語』がフランスのカンヌ国際映画祭に招待され、なんと作品がグランプリを、そして和楽京子が最優秀女優賞を、とダブル受賞したのである。

 カンヌはもちろん、海外の映画祭で日本映画が何かの賞を受賞するのは初めてのことであり、このニュースが当時の日本国民にどれほどの矜持と自信を蘇らせたかは想像に難くない。

 実際、この時期の通常国会ではカンヌ映画祭で作品がグランプリを獲った日を「日本映画の日」として、翌年から祝日にしようという法案さえ出されたほどである。

 当時、カンヌからの吉報を、まだ新人女優二年目だった昌子(まさこ)さんは日映の撮影スタジオで聞いたという。

「徹マンやってたのよ、あたしたち。スタジオの宿直室に立派な雀卓があってね、未だにはっきりと覚えてるけど、イノさんっていう満州帰りの照明さんがわざわざ持ってきた雀卓で、その雀卓で牌を混ぜると、まあ、いい音が鳴ったのよ」

 千家監督をはじめ、主演の和楽京子や日映のプロデューサーがカンヌで行われている国際映画祭に参加していることはみんなが知っていたらしい。ただ、その国際映画祭というものが、さてどの程度の価値があるものかについてはさほど知識はなかったという。

「……とにかく牌を弾いてたら、会社の幹部さんが飛び込んでくるじゃない。『おいおい、大ニュース大ニュース! 「竹取物語」がグランプリ獲ったぞ、グランプリ!』って」

 このとき昌子さんの耳には、「グランプリ」という聞き慣れないながらも、どこかおめでたそうな言葉だけがはっきりと残ったらしいのだが、この反応が昌子さんだけではなく、当時の日本国民にも瞬く間に広がっていく。

 とりあえず何かめでたいことがあったらしいと、深夜にも関わらず、撮影スタジオには近所に暮らす俳優や技術者たちが大勢集まってきたという。

 そこでカンヌ国際映画祭なるものがいかに権威あるものであるか、そこでグランプリを獲るということがいかに名誉なことかを、ヨーロッパ映画の買い付け担当である日映の幹部が力説したらしい。

「とにかくですね。これは大変に名誉なことであります! 我らが日映だけでなく、日本の映画界、いや、我が国日本にとってもこれほどの栄誉はないのでございます!」

 ただ、ヨーロッパ通の幹部がいくら唾を飛ばして説明しても、やはり昌子さんたちにはまだどこかピンとこない。お祭りが始まる気配だけがあり、それがなんの祭りなのかが分からないのである。

「……そのときね、誰だったか、『マーロン・ブランドやベティ・デイヴィスが賞を獲った映画祭だぞ』って声を上げたのよ。その瞬間よ。なんだか、その場にいる人たち全員が、ワッて何かに呑み込まれたみたいになって」

「ワッて呑み込まれるって、どんな感じですか?」と一心は尋ねる。

「だから、ワッてその場の空気が熱くなるっていうか、とにかくあなた、『欲望という名の電車』でしょ。『波止場』でしょ。それに『イヴの総て』。あたしたち、ぜんぶ、観てたもの。それこそ、戦後のなんにもないときに、同じ世界とは思えないような銀幕の向こうの景色を観てたんだもの。そこにいる人たちだったんだもの。それがよ、それがあなた、そのマーロン・ブランドやベティ・デイヴィスが出てる映画よりも、あたしたちが作った映画のほうがいいって評価されたわけでしょ。あのマーロン・ブランドやベティ・デイヴィスに、あたしたちの和楽京子が並んだわけでしょ。そりゃ、ワッと血が沸くわよ」

 一心は、鈴(すず)さんのうちで働いているあいだ、このときのように昌子さんから本当にいろんな昔話を聞かせてもらうのだが、なかでもこの当時のことを語る昌子さんが、一心は一番好きである。

 その当時の興奮がそのまま伝わってきて、まるで自分もその場にいるような気分になったし、昌子さんもまた当時の話をする自分がきっと好きだったはずである。

 一夜明けると、日本全土はフランスからの吉報に大騒ぎとなる。

 新聞やラジオは連日この快挙を伝え、各地で提灯行列などのお祝いが行われるなか、銀座のデパートには和楽京子たちがカンヌから帰国する日までの日数を示す大きな日めくりカレンダーまで登場したという。

 実際、凱旋帰国した彼女たちのニュース映像が残っている。たまに戦後の日本を振り返るようなテレビ番組で未だに放送されたりするので、知っている人も多いはずである。

 場所は、占領終了後にその滑走路や施設がアメリカ軍から日本政府に返還されてまだ数年しか経っていない羽田空港である。

 そのモノクロ映像のなか、羽田の空は晴れ渡り、大勢の記者が押し寄せた滑走路に、まだ真新しい日本航空のプロペラ機のタラップから、まずは千家監督がトレードマークのベレー帽を掲げて現れ、その背後から友禅をまとった和楽京子がはにかみながら姿を見せる。

 てっきりハリウッドやヨーロッパのスター女優のようなドレス姿で凱旋を果たすものとばかり予想していた記者たちは、まずその日本的な装いに驚き、その美しさにカメラのシャッターを押すのも忘れ、さらには「世界を制した大和撫子ここにあり」とばかりの和楽京子の楚々とした佇まいに大歓声を上げたと、ニュース映像は伝えている。

 実際、このときの和楽京子は奇跡のように美しい。

 輝くプロペラ機から降りてくる様子は、まさに歴史的瞬間であり、大げさに言えばマリリン・モンローやジャッキー・ケネディに彼女たちを伝説にした決定的な一瞬があるように、和楽京子という女優はこの一瞬で伝説になったと言っても過言ではない。

「……あのとき、慌てて機内で着替えたそうなのよ」と、昌子さんは当時の裏話も教えてくれた。

「……まさか長時間のフライトを着物で過ごせるはずないじゃない。本当はもっと普通のスーツか何かで降りてくるつもりだったらしいんだけど、着陸したときに滑走路に集まってるたくさんの記者が見えたらしいのね。それで鈴さん、スチュワーデスさんに手伝ってもらって、着物に着替えたらしいの。狭いところにカーテン引いてもらって」

 凱旋帰国した和楽京子の着物姿も大いに反響を呼んだが、さらには後日、カンヌ映画祭のレッドカーペットを、やはり友禅をまとって歩く和楽京子の写真が、全国に飛び交うことになり、当時多くの雑誌の表紙に使われている。

 肩を出し、裾の広がった豪奢なドレス姿の各国の女優たちのなか、黒髪を結い上げ、晴れやかな友禅で堂々とカメラのまえに立つ和楽京子の姿は、身内贔屓はあるとはいえ、現地の男たちの視線をその一身に集めていると記事は伝える。

 機内で慌てて着物に着替えた理由を、あるとき一心は鈴さんに尋ねたことがあるのだが、彼女は、「もう忘れたわよ、そんな昔のこと」と笑っていた。

 このカンヌからの凱旋帰国を機に、和楽京子という女優に対する世間の目ががらっと変わる。

 それまでは、彼女には解放的で性的なイメージがつきまとっていた。それがこの日を境に覆る。あのような大胆な演技をしながらも、彼女の芯には古風な日本女性の血が流れており、その秘められた清楚さこそが世界を驚かせたのだと喧伝されたのだ。

 帰国後の和楽京子は、まさに寝る間もないスケジュールだったはずで、「もう忘れたわよ、そんな昔のこと」と言った鈴さんの言葉は、まんざら照れくささからだけではなかったのかもしれない。

 その後、彼女は当時の政治家、文部大臣、人気力士、有名な日本画家、文豪、また、来日したハリウッドスターと、各界の著名人たちと立て続けに対談をする。

 その対談のすべてを彼女は着物で通す。これが彼女の意思や日映側からの要望だったのか、それとも対談相手や媒体によるイメージ戦略だったのかは分からないが、和楽京子が人気映画女優の一人から日本を代表する女性となっていったのは間違いない。

「当時の対談記事を今読むと、なんか、びっくりしますよ」

 一心はあるとき鈴さんにそう告げたことがある。

 まあ、いろいろと違和感はあるのだが、なかでも和楽京子を相手にする男たちが皆、口を揃えて、「あんたも、早く結婚しちゃいなさいな」とか、「ヴィヴィアン・リーと張り合うより先に、とっとと良い男を見つけて、子供でも持ちなさいな」と、今では考えられないようなセリフを平然と吐いているのだ。

「今の人たちはそうじゃないだろうけど、あたしなんて、対談のたびに料亭に呼ばれてくじゃないの。そこで相手の方にお酌して回ってたもの。女優がいるんだから、芸者はいらねえだろうなんて言われて」

「グランプリ女優がお酌してたんですか?」

「そうよ。グランプリ女優も帰国すれば、殿方にお酌しなきゃいけない、そんな時代だったのよ」

 鈴さんはあっけらかんと笑っていた。

 結局、レジまえの客がいなくなるまで、一心は外で十五分ほど待った。まさかカフェの入り口に立っているわけにもいかず、かといって通りの向かいの電柱に隠れているのも不自然なので、偶然を装えるように店のまえの通りを何度も行き来した。あいにくの雨だったが、おかげで傘が顔を隠すのを助けてくれた。

 客が途切れた瞬間、一心は雨から逃れてくるように店に駆け込んだ。濡れた袖を払う一心に、「いらっしゃいませ」と彼女が声をかけてくれる。

 一心は会釈して、いつもの豆でアメリカンを注文し、「あの、もしよかったら」と、千円札と一緒に映画のチラシを差し出した。

 一瞬、彼女は驚いたが、デジタルリマスターされた『竹取物語』が現在上映中であることは知っていたらしく、「あ、これ、気になってたんです」とチラシを受け取った。

 緊張が一気にほぐれた。まだ何も始まっていないのだが、彼女のその一言で、もう楽しいデートを過ごしてしまったような充実感だった。

「もしよかったら一緒に観に行きませんか」と一心は単刀直入に尋ねた。

「え? あ……」

 ただ、急に彼女の顔が曇る。

「あ、いや、もしよかったらでいいんですけど、周りにこういう古い映画に興味ある人いなくて、一人で行ってもいいんですけど、観終わったあと、映画について話したかったりするじゃないですか」

 おそらく顔は真っ赤だったはずである。一心は次の客が店に入ってこないか気が気ではなかった。

「あの……、私、付き合ってる人いて」

「あ、ああ。そうなんですね。いや、そうですよね」

「あ、でも、映画、ご一緒するのはぜんぜんいいんですけど」

「いや、でも、それだと悪いですから。か、彼氏さんに」

「え? どうして?」

「え? いや、だって。……あ、そうか。映画観に行くだけですもんね。すいません」

 途中からもう体が浮いているようだった。早くコーヒーを受け取って、いつもの席で顔を隠したい。

「これ、いつまでなんですか?」

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