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藤原正彦 パンドラの箱 古風堂々34

文・藤原正彦(作家・数学者)

整理整頓が苦手で、幼い頃から「出しっ放し、やりっ放し」と母に叱られていた私だった。中1のときにはじめて4畳の個室が与えられ、29歳で渡米するまではここで、机、大きな本棚、散らばった本や論文、脱ぎ捨ての衣類などのすき間に万年床を敷いて寝ていた。「何がどこにあるか分かっているからいじらないでよ」と母に釘をさしておいたのだが、見かねた母は時折掃除をしていたようだ。自分で掃除した記憶がないのに雑然さが悪化しなかったからだ。

この正月に、心を改め整理整頓を思い立った。寝室脇の納戸の屋根裏に放りこんだままになっていたダンボール箱の整理である。30年余り前、家族と渡英している間に家を新築したのだが、旅立つ直前の多忙の中、家にあったものを内容も確かめぬまま投げ入れたいくつものダンボール箱だ。久しぶりに屋根裏を見上げると赤いマジックで「古い手紙」と書いてあるダンボールが2つ目についた。合わせて500通をこえる手紙がつまっていた。20代末に渡米してから35歳で結婚するまでのエアメールだった。これだけは他人の手で整理されたくない、私の名誉にかかわる、いつ愛人宅で頓死するとも限らない、女房や息子達に読まれたら死んでからもバカにされる。鋭敏な私は瞬時にこう思ったのだ。

エアメールは大きく3つに分かれた。数学者からのもの、アメリカの女友達からのもの、私と両親との間のやりとりである。数学者からのものは、研究上のやりとりやクリスマスカードの他は、日本の同僚や先生方からの連絡といったものだった。お世話になった先生方のほとんどが故人となっているのに今更ながら暗然とした。

最も面白かったのはアメリカにいた私から両親に送った手紙だった。「ルバング島の山中に30年近く潜んでいた旧日本兵小野田少尉の帰国は、こちらでもかなりの話題となっています。何人かに感想を聞かれたので、『感激した』と答えておきました。逆にある男子学生に尋ねたら、一言、『時間の無駄』と言いました。僕は日本精神の純粋さについて1時間ほど説教し、最後に『これが天皇陛下とニクソンの違いだ』と言ったら感心したようにうなずいていました。こちらではニクソンは悪の権化です」。同じ頃のものにこんなのもあった。「アパートの子供達と仲よくなりました。大学から車で帰ると砂場で遊ぶ4歳から8歳くらいまでの子供達がキャーと叫んで車に駆け寄り、口々に『遊ぼう』と叫びます。車を降りるや『オンブして』『ぐるぐる回しをして』などとねだります。『今日は忙しいから』などと言うと、遠くから『やーい、ウンコ、オシッコ』とか『オシッコで濡れたパンツはいてるくせに』などと言います。ゲイリー(5歳)とリサ(4歳)の母親から、『子供達が家であなたのことばかり話すので夕食に招待したいんですが』と言われました。この人は少し前に、僕が『コロラド大学に通っている』と言ったら、『新入生ですか』と聞いた人です」。

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