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“京大卒の医師”はなぜ放浪の果てにタイ森林派の僧侶になったのか

ヨーロッパを代表する僧院で修行する日本人僧侶、アチャン・ニャーナラトー。彼が多くの人を引きつける理由とは。/文・佐々涼子(ノンフィクション作家)

<この記事のポイント>
●アチャン・ニャーナラトーは、本名は中尾茂人といい、イングランド南東部チルターンヒルズにある「アマラワティ僧院」で修行する日本人僧侶
●ニャーナラトーは、京都大学出身。医師免許を取得しながらも、アジア諸国を放浪の末にタイ森林派の寺に辿り着いた
●定期的に日本に帰国して、各地で瞑想指導や法話を行うニャーナラトーに、多くの人が惹かれている

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ニャーナラトー氏

名門の副僧院長

イングランド南東部、チルターンヒルズの東端にある「アマラワティ僧院」は、イギリスで最も大きなテーラワーダ仏教(上座部仏教)の寺院だ。広大な自然がそのまま残っており、地元の伝統的な工法で造られた本堂は、ヨーロッパの建物の上に東南アジア風の尖塔が乗ったヨーロッパとアジアを融合した建物だ。

タイ森林派仏教の伝統を受け継ぐこの僧院には、比丘(びく)(修行僧)ら約60名が在籍。在家の瞑想実践者も年1000人ほど受け入れており、世界中の人々が“内なる平和”を求めて集まってくる。仏教徒の祭り「ウェーサーカ祭」の折には、メイ首相(当時)から祝いのメッセージも届いた。

このヨーロッパを代表する名門僧院で2001年以来、主要メンバーとして修行してきた人物こそ、アチャン・ニャーナラトー(62)。本名、中尾茂人という日本人だ。「アチャン」とは10年以上修行をした僧侶につける尊称で、「ニャーナラトー」は「知識を喜ぶ」という意味の法名。彼はイギリス人の僧院長をサポートしながら、僧院の運営と、後進の指導に携わっている。正式な役職名ではないものの実質的には副僧院長という役割を担ってきた。

本堂と僧侶 image (1)

アマラワティ僧院

「Useless(役立たず)だ」

アマラワティ僧院の朝は早い。4時に起床し、5時から在家信者も交えて瞑想と読経をする。掃除の後に朝食。食事はすべて在家信者からの布施によって賄われている。建物の手入れ、補修などの作務を終えると、11時に昼食。出家者は午後になると、食事を一切取らない。午後は各々が、瞑想や経典の勉強など、自分の課題に取り組んでいる。

ある日、若い西洋人修行者がニャーナラトーの元に相談に来た。母親が心臓の手術を受けることになったので、家に戻るか、修行を続けるか、迷っているという。それを聞いたニャーナラトーは「お母さんが先でしょう」と思ったが、そうとは言わずにただ青年の話に耳を傾けた。

しばらくして青年はいったん家に帰り、母親の手術を見届けると、再び僧院に戻って出家した。のちに「迷っている時に、ああしろ、こうしろと言わず、自分の判断が落ち着くまで待っていてくれたのが有難かった」と礼を言いに来たという。本人にとって「答えに出会うまでの時間」を尊重することが大事だ、とニャーナラトーは言う。

長年の修行仲間、イギリス人のアチャン・ウィマローもこう評する。

「多くの後輩比丘たちが彼に相談をしていました。ユーモアのセンスもあって、私などは必死でジョークを言わないと笑ってもらえないが、彼は法話の時も座っているだけで聴衆から受け入れられる(笑)。出会った頃、彼は非常にまじめに修行をしていたのをよく覚えているよ」

私がニャーナラトーの存在を知ったのは、今から数年前。ふと耳にした朝のラジオ番組に彼が登場していた。「京都大学出身で医師免許を取得しながらも、アジア諸国を放浪し、厳しく戒律を守るタイ森林派の寺に辿り着いた僧侶」。そう紹介された彼の言葉が、耳に残っていた。

「修行の最初の頃、辛かったのは、こんな所で修行をして、自分は何の役に立っているのかという疑問でした。医師として人を助けることができるにもかかわらず、森に籠って社会から隔絶した生活をしている。自分の命が何のためにあるのか、と悩みました。イギリスに移ってからのことです。托鉢をしていると初老のイギリス人が近づいて来て、我々のことを『Useless(役立たず)』と言いました。『働くべきだ』と――」

それは、二言目には「生産性の向上」や「成果主義」が叫ばれるようになった日本社会においても、突きつけられてきた問いではなかったか。〈あなたはこの社会の役に立つ人間か、それとも役立たずか〉

しかし、あのラジオの「続き」がどうしても思い出せない。ニャーナラトーは初老のイギリス人に何と答えたのか、なぜその答えに至ったのか。彼の半生を辿りつつ、その質問をぶつけてみたい。

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僧院の内部

苦悩が込められた歌

1958年生まれのニャーナラトーは、奈良県大和郡山市矢田町の出身。父親は同県生駒市の小中学校で校長まで勤め上げた教師だった。家は農家でもあり、母親は農業をしながら子どもたちを育てあげた。

幼い頃から成績優秀で、家でも学校でも「優等生」だったニャーナラトーだったが、小学6年生だったある日、心に「異変」が起きる。

「突然、死が怖くなったんです。幼い頃は、死んだら極楽に行くんだろうなとおとぎ話のように漠然と思っていた。しかしこの時、現実に起こるものとして『死』というものを突きつけられたような気がしました」

具体的なきっかけがあったわけではないという。だが、「死」という解決し難い問題を常に心のどこかに抱えることになった。もちろん、そんなことばかり考えているわけにはいかない。受験社会の中、流れのままに勉強を重ね、中高一貫の名門、現在の奈良女子大附属中等教育学校に進学。高校時代の担任、松本博史(のちに神戸女子大教授)が振り返る。

「生徒の中には、中尾君を本人のいないところで『中尾氏』と呼ぶ者もいた。ものをつきつめて考えるタイプで、頼りがいのある雰囲気だったんですね。教師たちも何かといえば彼に頼っていました」

ある教師は、顧問を務める部活動に部員がいなかったため、3年生のニャーナラトーにその存続を任せた。彼は請われるがまま入部し、学園祭では展示のために学内でアンケートを取り、生徒たちの意識調査を敢行。彼が任されたのは「同和問題」について。ニャーナラトーは語る。

「小学校ではきちんとこの問題を学びましたが、附属校では生徒の理解が乏しいと思えました。そこでまず生徒たちの実態を知るためにアンケートをして集計し、発表したんです」

松本は、ニャーナラトーの知性と実行力に感心した。心配ごとや困りごとがある時に相談したくなる雰囲気は、当時から変わらないのだ。

だが、表向きの明るさとは裏腹にニャーナラトーは高校2年生の国語の授業で、こんな歌を詠んでいる。〈若者と呼ばれるはずの魂(しらたま)は暗(くら)き闇夜に食われゆきぬや〉

若者らしい希望溢れる志を否定するかのような内容――他の生徒の歌にはない苦悩の込められた歌だった。

「何をやっていても心の底から晴れるということはなかった。普通に学校生活を送りながらも、自分自身の心の闇を、いつもどこかで意識しているところがありました」

本人 image (5)

医学部4回生のある夜に

ニャーナラトーは78年春、「命を扱う学問だから」と、京都大学医学部に進学。とりわけ彼の関心を惹いた分子生物学や生化学は、早石修らのもとで京大が世界の最先端を走っていた。早石門下の一人がノーベル賞学者の本庶佑である。

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