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フェイクとケーキ|中野信子「脳と美意識」

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※本連載は第27回です。最初から読む方はこちら。

 言葉だけが独り歩きするSNS時代の怖さについて今一度、注意喚起したいという思いを書く。多くの人が知っている例かもしれないけれども今回は以下の話を取り上げてみようと思う。

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」というフレーズは有名だろう。コロナ禍で菓子業界がどうなっているのかは統計データを各自参照いただくとして、これだけ不要不急と叫ばれてしまうと、手が届かないほど高価なものではなくとも生活必需品とは言えない生菓子やケーキを買うのを躊躇う気持ちがどこかにわだかまっていく感もある。

 正確には、このフレーズはフランス語で Qu'ils mangent de la brioche !(キル マンジュドゥ ラ ブリオッシュ、意味は「ブリオッシュを食べればいいじゃない」)である。これを英語に意訳した言い回しがLet them eat cake であり、それをさらに日本語に訳すと、「ケーキを食べればいいじゃない」になるというわけである。

 ブリオッシュは、現代日本の一般的な感覚ではパンの一種と思われるかもしれない。しかし、ブリオッシュというのは、バターと卵をたっぷりと使った「ぜいたくな食べ物」なのである。とても、庶民の暮らしに日常的な食べ物として普段から登場するようなものではなかったのだ。どちらかといえば高級な嗜好品である。

 これまで長らく、悲劇の王妃マリー・アントワネットがこの言葉を発したとされてきた。が、実はこれを彼女が言ったという証拠はどこにもない。典拠となる書物では「あるたいへんに身分の高い女性」(une grande princesse) が言ったとして紹介されており、現在では、ほぼ創作であるということが明らかになっている。

 この典拠とされる書物とは、フランスの哲学者、ジャン・ジャック・ルソーの自伝『告白』である。『告白』では、著者本人があるとき、ワインの供にパンが欲しいと思い、パン屋に出掛けようとしたが、自身の服装がふつうのパン屋にはそぐわないものだったので、高級菓子店に出掛けた、というシーンが描かれている。この際、「あるたいへんに身分の高い女性」の言葉を思い出した、とルソーは記述しているのである。

 この記述より先に「パンがなければブリオッシュを」だとか「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」などとマリー・アントワネットが言っているという記録はどこにもないのだ。

 言葉とは恐ろしいものだ。

「いかにもこういうことをマリー・アントワネットという女性は言いそうだ」という思い込みが、自分たちの困窮した生活実態をよそに贅を凝らした暮らしを謳歌していた当時の「上級国民」たちへの怨嗟、剰えまだ我々に重税を課して搾取を続けようとしているのか、という憤りを燃料として、瞬く間に燃え広がってしまうのである。発言の真偽は確認される間もなく、広まってしまえば人間の感情はそれを真実と認めようとしてしまう。

 ちなみに、マリー・アントワネットはこの本が書かれた当時、わずか9歳であった。まだウイーンの宮廷で母マリア・テレジアの下、幸福な少女時代を送っていた頃である。

 さらにいえば、『告白』の中でルソーは、「盛って」いる。丁寧に読めば史実とは異なるエピソードも入っており、この高貴な姫の話も創作である可能性があるのだ。

 奈良先端科学技術大学院大学の石井信教授(現・京都大学大学院教授)らの研究グループは、人間が不確実な情報をもとに「この判断が正しい」という信念を形成する過程が、前部前頭前野で行われていることを明らかにしている。この領域は、社会性、つまり社会へ適合する能力を司っていると考えられている。これが私たちの振る舞いは、真偽や正邪よりも、感情や、世間の動きにより影響を受けて決定されているということを示唆するとすれば、もっと美しい生き方を目指す姿勢を常に忘れないようにしなければ、あっという間に私たちは誰かを吊し上げ、その人が痛みを受ける姿に喜びを感じる野蛮さに飲み込まれてしまうということになるだろう。

(連載第27回)

■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。京都芸術大学客員教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。

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