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〈テキスト版〉東浩紀×先崎彰容「2022年の論点」人新世、ポリコレ、新しい資本主義、シラス…

文藝春秋digital

1月17日、批評家の東浩紀さんと先崎彰容さんによる文藝春秋digitalウェビナーでの対談「2022年の論点 人新世、ポリコレ、新しい資本主義、シラス…」が開催されました。

《動画版はこの記事の一番下にあります》

「家族」や「生活」といった身近な言葉を基調としながら、今日的な政治的連帯や、持続可能な組織論、そして東さんが運営する「シラス」というプラットフォームの社会的意義などを論じたオンライン対談のテキスト録を公開します。

2022_01 東✕先崎

先崎:東浩紀さんが作られた人文系配信プラットフォーム、シラスは各所で話題になっています。今日はそういった事業の話も聞きたいですし、ほかにも人新世、ポリコレ、新しい資本主義といった2022年を大きくとらえる深い哲学的な話についてもお聞きできればと思います。まずは簡単な近況からお聞かせいただけるでしょうか。

:先ほど紹介のありましたシラスというプラットフォームを一昨年の10月にオープンしまして、今のところ30チャンネルくらいが開設されて、登録者が3万人くらいになりまして、結構順調に伸ばさせていただいています。今論壇というものが機能不全だと言われていますけど、僕としては長い尺でじっくりと話す動画を有料で売るというのはひとつの回答になると思っています。昔から考えていたものがようやく実現した手ごたえがあり、これからも伸ばしていければと考えているところですね。あともう一つは、『ゲンロン』という雑誌を僕は作っているのですが、そこで去年、「家族」という概念の再解釈を試みた論文(「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」『ゲンロン12』所収)を出しました。先日、朝日新聞でインタビューも載りましたが、今いわゆるリベラルの間では、家族という言葉がとにかくよくないものとして言われることが多いのですが、人間は家族なくしては生まれてこないし、なんらかの形で家族を作ってしまうのは人間の性です。だから家族という言葉を嫌うのではなく、むしろもっと柔軟なものに変えていくことが必要なのではないかというのが僕の考えで、そういう哲学的な仕事もやっています。この哲学の仕事と、シラスのプラットフォームの運営というのは密接に関係しています。会社を経営するというのはある種家族について考えることになります。そこで開放性と閉鎖性のはざまをどのように作っていくのかが、事業の成功のカギでもあり、哲学的にも大事なことなんだと、そういうことを今は考えています。

■家族を再解釈する哲学

先崎:このあとじっくり議論していく哲学的な論点のひとつになるはずですが、僕は東さんの話に出てきた「はざま」という言葉が重要だと思いました。僕が最近書いた、『人新世の「資本論」』はおかしいんじゃないかという論考(「『人新世の〈資本論〉』に異議あり」『文藝春秋』2022年2月号所収)ともつながります。簡単に論考の内容を紹介すると、『人新世の「資本論」』という本は、地域コミュニティみたいなものをじっくりと作っていくという話が、いきなり社会全体に対してノーを突きつけるような過剰な運動集団に豹変してしまっている。それに対する違和感を、ドストエフスキーや吉本隆明を使いながら論考では書きました。また、東さんの観光客の哲学の話にもつなげたいと思っていました。観光客の哲学には、アイデンティティの問題を今どのように考えるべきかという論点が含まれている。簡単に言えば、人間のアイデンティティを階級で規定するのがマルクス主義哲学ですが、それに対して、現代のアイデンティティはもっと多様で複雑です。たとえば自分は国民でくくることもできるし、デモ参加者とかテロリストとしてくくることもできる。こうした時代に東さんは、今有効なアイデンティティは家族なんだと規定されている。しかし今はその家族が閉鎖的であると考えられてしまっている。プラトンの頃から始まり、おひとりさまを提唱する上野千鶴子に至るまでの長い歴史において、リベラル陣営は家族という枠組みは閉鎖的であり壊さなくてはならないと常に言ってきた。しかしそれは家族というものを単純にとらえすぎているので、もう少し伸縮性のある概念として家族を再解釈しなくてはいけない。僕はそのように東さんの哲学をざっくりと理解していますが、この辺りについて、東さんからお話しいただければと思います。

:今要約していただいことに尽きているんですが、まず人間というのは個人では生きられないから集団を作る。その集団が完全に開放的だと、その場限りの集まりになってしまうのでアイデンティティにならない。持続性のためにはある程度閉鎖性を持たなくてはいけない。とはいえ、メンバーが入れ替わるなど変化することも必要です。そういう集団のモデルとして、一番近いものを考えていたら、僕は結局家族というものが一番それに近いのではないかと思ったんですね。

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2人の議論は通常の放送時間を超過して続けられた

1990年代に共産主義が力を失って以降、ばらばらな個人が大きな理論もなくなんとなくその場の勢いで連帯することにばかり、左翼は可能性を見てきました。ネグリとハートのいわゆる「マルチチュード」論ですが、身近な言葉だとハッシュタグデモとかがそうです。でもそれは持続性を持たないから、運動として世の中を変えることはできない。だから、柔軟性があって、かつ持続性もある運動原理をどのように再構築できるかということは、僕の関心ごとのひとつです。日本の左派のあいだでは、家族という言葉は家父長制と同一視されていて、閉鎖的で暴力的で権威主義的なものだと思われてしまっている。でも実際には、家族という言葉はいろんな局面で使われる言葉です。たとえば企業とか仲間とかをファミリーみたいに言うこともありますよね。ペットを家族と呼ぶことだってあります。それは自然な感覚で、家族という感性は実はすごく柔軟なものなんじゃないかと。この柔軟な感性を備えた家族という言葉をもとにして、連帯のあり方を考えていく方がいいんじゃないかと今は考えています。

先崎:哲学の議論をもう少し続けさせていただきたくて、東さんは『一般意志2.0』では、要は政治性のない人たち、あるいは社会性のない人たちのような、どちらかといえば政治へのコミットから断絶したひきこもりがちな人たちがどのように連帯していくかという方法を模索されていたと僕は読みました。現在の選挙の投票率は55%前後で、ふたりにひとりが選挙に行っていないことになりますが、こうした現代の政治へのコミットについて東さんのお考えをお聞きしてよろしいでしょうか。

:今の質問はつまり、「『一般意志2.0』ではひとりひとりがばらばらな状態のまま社会をつくることを考えていたが、今の東さんは社会には連帯が必要だと考えているように見える。その整合性はどうなっているのか」という質問ですよね。それに対してはこう思っています。

『一般意志2.0』の時には、たしかに先崎さんがおっしゃったようにばらばらの個人を前提にしていたのですが、それと同時に、僕のもともとの人間観というのは「人間はだめだ」というものなんです。人間は非常に感情に流されやすいし、自分でちゃんとものを考えないし、論理でも説得されない。討議的な理性とか、ちゃんと話せばわかりあえるというのは、まったくではないけどかなり幻想であって、重要な局面でそれは機能しないんだ、というのが僕の人間観なんですよ。

『一般意志2.0』ではルソーの思想を参照しています。ご存じの通りルソーは、政治思想家であっただけでなく、文学者でもあり、告白文学や恋愛文学の創始者でもある。彼の根底にあった人間観は弱い人間であり、合理的に判断できない人間です。そういう人間を前提にして、じゃあ社会をどう作るかということを考えたのがルソーの『社会契約論』だったというのが僕の考えです。ルソーは、議論なんてしてもしょうがない、だから人とつながらなくてもいいんだと言っているのですが、同時にルソー自身は人とすごくつながりたかった人でもあり、彼の書く人間像は常に孤独を訴えて人に評価されたいと言っている、そういう弱い人間なんです。そういう人は、そのまま孤独にいられる人間でもないわけですよ。

現実にも、僕の感じだと、『一般意志2.0』が出た2011年以降の10年間のインターネットの動きを見ていると、ネットに留まって引きこもっている人たちは孤独に耐えることができなかったのだと思います。結局みんな連帯をもとめて、それこそハッシュタグとかに行ってしまう。そういう点で、やっぱり弱い人たちの連帯について考えなくてはならないと思いました。弱い人たちが何らかのアイデンティティをもって、自分の生活に誇りをもって、ある種のクッションとして集団的アイデンティティを持っている状態にしないといけない。これはすごく当たり前のことです。そうしてだんだん考えていく中で、家族というものについて我々はもう一度考えなくてはいけない、と考えるようになりました。

■「開くこと」と「閉ざすこと」の対立

先崎:とても面白いですね。というのは、東さんが東京大学の宇野重規さんと対談されている。宇野さんはトクヴィルについて本を書かれています。トクヴィルはマルクスの同時代の人で、マルクスは階級というものに人を所属化しましたが、トクヴィルは徹底的に人を個別化することについて考えた。彼は平等であるがゆえに起きる摩擦のようなもの、つまり個人の弱さとか、他人に対する嫉妬のようなものに注目して連帯のあり方を考えた。宇野さんがトクヴィル的な連帯のあり方を模索したように、恐らく東さんは家族という点から連帯というものを模索したのだと思っています。

その中で僕がうかがいたいのは、開かれていることと閉ざすことについてです。当然開かれている方がリベラルであり、閉ざされている方が保守であると考えられます。これは僕個人がどのように思想を組み立ててきたかという体験なのですが、90年代に入門書的な今村仁司さんの本とかいろんなものが出ていて、それを一生懸命読んだ。僕の感覚では、それらはすべて基本的に秩序があることを前提に、それを解体すること、つまり開くことを強調していた。けれど保守系の人たち、たとえば江藤淳みたいな文学的なしなやかな感性のある保守主義の人たちは、秩序というものは閉じることを意識していない限り、ぶっ壊れるものだよと言っていた。つまり秩序を前提しないのが保守なのです。この保守主義観は、東日本大震災で被災したとき、確信に変わりました。実際に秩序というものが一瞬にして壊れてしまったからです。その意味で僕は閉ざす側に、保守の側に与することになる。

開かれていることと閉ざすことの対立は、基本的にはリベラルと保守の対立です。ここがお互いにわからないまま、あらゆることを束縛だと思って脱出したい、壊したい、開きたいと言っている人たちと、そうじゃなくて閉じたいと言っている人が不毛な論争をずっと続けていると思っていたんです。

そうした時に東さんの考え方は、開くことと閉じることについてしなやかな思考を出されていたことに僕は感銘を受けたのですが、こうした見立てでよろしいでしょうか。

:はい。リベラルと保守の対立が開くことと閉じることの対立になっているということはまさにおっしゃる通りです。今はソ連も冷戦もないので、左と右の対立がどこにあるかと言ったら、感性でしかないんですよね。自分たちの仲間のことばかり考えるのが保守的な感性、仲間のこととかほっといて普遍的な原理からはじめるのがリベラル的な感性という、そのくらいの差ですよ。

ただこの感性の差というのはけっこうクリティカルでもあります。保守の側からすれば、まずは仲間の幸せを考えなくてどうするんだと。リベラルの側からすれば、仲間の幸せだけ考えてどうするんだと。そこがずっと平行線なんですよね。

でも僕が言いたいのは、仲間の定義って結構変わるよねという事なんですよ。たとえばネットで言えば、お前は反日なのかとか、日本人なのかとかそういう諍いがありますけど、じゃあ日本人とはどこまでを包摂しているのか。それは歴史的に柔軟に変わっていってもいるわけです。何が日本的なのか、日本精神とは何かということも、歴史を振り返って再定義されていくものです。だから仲間からスタートしていても、それをどんどん拡張させて再定義していけばいいじゃないかと。仲間と仲間じゃないものを分けること自体が悪なんだと、リベラル的な普遍主義からスタートしてしまうと、非常に皮肉なことに、ラジカルなことを言う人だけが集まって変な仲間を作ってしまう。まさにそれが日本で起きていることだと思います。だから仲間から始まるのか、普遍から始まるのかというのは似非の対立なんです。そうではなく、人間は仲間から始めちゃうんだけど、仲間の概念を硬直化させずに現実の変化に応じて変えていくことこそが大事なんだと思うんです。

■時間を大切にする

先崎:僕も同じことを言うのですが、僕が言うと保守側の人たちだけが反応するので(笑)、東さんにそうしたことを言い続けて欲しいと思っています。東さんは『ゲンロン12』でも、たとえば国家とは何かというアイデンティティだって、さまざまなものが入れ替わったり、同時並行したりしながら、ざっくりとした形として日本は続いていくといったことを書かれている。それは江戸時代に家族というものが、場合によっては血のつながりのない、丁稚を入れながら存続していくようなイメージなのではないでしょうか。僕からすれば、家のキーワードは時間軸になるのですが、そのあたりは東さんはどのように考えていらっしゃいますか。

:まったくおっしゃる通りだと思います。時間を大切にすること、歴史を大切にすることがとても重要だと思います。保守っぽくなってきましたけど(笑)。突然のように今の政治の話をしますと、なぜ今リベラルは弱いのかって、今は結局、自民党と公明党と、共産党だけが歴史のある党なんですよ。今この3党に次いで歴史があるのは日本維新の会かな。立憲民主党なんてつい最近できたわけですよね。そう考えると維新が相対的に強いのも当たり前で、要は長く続くことが大事なんですよ。長く続けばいいというのもバカみたいな話ですけど、これは結構本当のことなんですよね。長く続くということは、長く続くことによって必然的に内部に多様性が出てくるんです。支持者に多様性が出てくるし、世代が変わって厚みも出てくる。だから僕は民主党が、希望の党の一件で解体してしまったのが本当に残念です。90年代くらいからの歴史がある党だったのだから、親が民主党支持で、子供も民主党支持というパターンが出てきていたはずです。そうすると同じ民主党支持といっても、いろんな色合いの差があって、そういうものを引き受けた党になればすごく強くなったと思います。

先崎:維新の特徴の一つは、政党の党首が若い人にリフレッシュしようとしているのがリアルに見えることです。自民党ともちょっと違う特徴を持った、要するに自助努力で生まれ変わることができる政党。それが今回の衆院選で躍進した理由ですよね。冷静に考えると、面白いのは、岸田さんが自民党総裁になって、「新しい資本主義」と言って新自由主義批判をしたとたんに、衆院選挙の党首討論の時、共産党も含めて全員が新自由主義批判をぱっとするわけですよ。そこで言葉を握っちゃってる時点で、自民党の勝ちですよ。でもその時に維新だけ、新自由主義批判をしなかった。その後、プライムニュースで橋下徹さん、松井一郎さん、僕でいろいろしゃべらせてもらう機会があったので、そのことを問いただしたんです。そうしたら松井さんは、「いや、僕は日本で新自由主義は全然進んでないと思っている」と言っていた。それから「学校の先生にもっと株式会社的な感覚のあるやつを入れろ」とか「保育園だって株式会社化して改革していくんだ」とか、そんなことばかり言っていた。維新の躍進を見ていると、アメリカにおける二大政党制が日本で実現する場合、保革対立ではなく、新自由主義の過激化(維新)VS反自由主義的保守主義(自民)という構図しかあり得ないのではないか。この点について、東さんは何かお考えはありますか。

:僕も、自民党と、その批判勢力としての左派という形、つまり55年体制みたいなものをもう一度作ってもしょうがないと思っています。二大政党への道があるとすれば、そうではない形、中道右派というか、改革保守と言われている側にしかないんじゃないでしょうか。その担い手が維新になるのか国民民主党になるのか、また別のものになるかはわからないですけど。

■友と敵ではない思考

先崎:政治の話題から少し話を戻す形になりますが、去年、三浦瑠麗さんが出された『日本の分断』という新書では、「日本にはもっと『分断』が必要です」とあえてセンセーショナルな言葉が帯に書いてありました。東さんはゲンロンのほうで三浦さんと親しく議論されていると思いますし、僕もテレビで三浦さんとはご一緒したので、その真意についてはわかっているつもりです。日本ではあいまい性が先行してしまうので、政治的な論点としてたとえば憲法の議論について分断を作った方がいい、そうしたことを論じているのが彼女の立場です。一方で、ポリティカルコレクトネスのようなものは、正義を押し立てることで相手を敵にしてしまう。友と敵という言葉を使ってナショナリズムを考えたカール・シュミットという哲学者がいますが、東さんも観光客の哲学そのほかで、友と敵という概念に注目しながらご自身の論理を立てていると思います。そのあたりの部分についてご説明をいただけたらと思います。

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