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山内昌之「将軍の世紀」|寛政改革の行詰り (5)「寛政の三助」と大田直次郎

歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。今月登場する将軍は、第11代・徳川家斉です。

※本連載は、毎週水曜日に配信します。

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   この二つとも、定信が老中になった翌年の天明八年に『政語』の「小引」(序論)で公にした政治哲学と結びついている。人の行うべきことを道といい、人の道に従うことを政というと定義した上で、聖人が先王だった時には教と政は結びついていたが、その後の王になると、政と教は分かれてしまった。「是において先王の教降りて儒者の任となり、先王の道汚る」と。定信は、儒者は政治と関わらない場で是非を争うだけとなり、政治家や役人は道の実践や垂範から無縁になったと言いたげである。これが改革を招いた政治の乱れの原因ということになる(「政語」『近世政道論』。宮城公子『幕末期の思想と習俗』)。定信の目指した政教一致の理想は、各藩と地方から抜擢した儒者に託された。

 讃岐・高松の柴野栗山(彦輔)、直参旗本の岡田寒泉(清助)、次いで伊予・川之江の尾藤二洲(良佐)の三人が期待される。この三人、あるいは清助の代わりに肥前・佐賀の古賀精里(弥助)を加えて「寛政の三博士」と呼ぶことはよく知られている。または、この四人の誰かを削り寛政四年に奥詰医師となる京都・福井楓亭(ふうてい)を加えることもある。楓亭は龍助、立助、良輔と書かれる医学者であり、高貴な患者とも「色々毎日々々喧嘩計いたし居候」と伝わっている(町泉寿郎「医学館の学問形成(三)」『日本医史学雑誌』45の4)。口さがない世評では「三助(スケ)」と呼ぶこともあった。清助と良助(佐)は、それぞれ寛政元年と三年に新規に召し出され、切米二百俵、儒者を仰せ付けられた(大田南畝『一話一言』1、巻八『日本随筆大成』別巻1所収)。奥詰医師・福井立助も二百俵を宛がわれた。「三助は六百俵の御損毛(ごそんもう)」という川柳もある。三人への二百俵ずつの扶持は無駄遣いだと酷評されたのだ。この三人はどうも彦輔、清助、立助だったらしい。聖堂の講釈では大勢参加した旗本の間で人気のあったのは岡田清助のようだ。大盗人・熊坂長範の逸話などを交えて「仁」について、さながら庶民の心学のように話すので面白いだけでなく分かりやすかった。清助は人柄が悪くても、講釈上手だと評判をとっている。良助は唸ってばかりで面白くないと不評だった。これは尾藤良佐のことだろう(『よしの冊子』下、十五・十九)。

 寛政異学の禁を担った彼らは、徂徠学の影響を受けながら、それを克服する思想として朱子学を位置づけようとした。朱子学は徂徠学から否定された過去の思想でなく、逆に徂徠学を乗り越える新鮮な思想として蘇ろうとしていた。それでも昌平坂学問所では、学習方法として徂徠学派の「会読」が採用されたように、議論と討論を重んじることで自己の意見と異なる「他者」の存在を容認する開かれた態度を身につけさせた。彼らは徂徠以前の山崎闇斎とその学派の好んだ講釈一辺倒をとらなかった。蘭学や国学も会読を行った新たな時代に、いわば「文芸的な公共圏」から「政治的な公共圏」に寛政の朱子学を転位させたが、他学を絶対に排除したわけではない(前田勉『江戸後期の思想空間』)。むしろ寛政異学の禁は、多元性と多様性をもつ土壌の力と儒教・朱子学の「弁析純化力」との間でゆっくり進んだ相互作用の結果として、揺らぎかけた徳川政治体制の再統一を朱子学に託したともいえよう(黒住真『近世日本社会と儒教』)。本来の定信が徂徠学の徒であり、表面だけ朱子学を装っているという評は、なかなかに核心を衝いているのではなかろうか。「越中様は御一躰徂徠学ニ御ざ候へ共当時ハわざわざ朱子学ニ表向をなされ候よし。全躰ハ徂徠学じやとさた仕候よし」と(『よしの冊子』下、十四)。

 改革の第二は寛政四年に始まった学問吟味である。「山陰にかしこき人の有ならバ鳴ても告よ谷の鶯」とは定信の作と伝えられる。人材発掘に苦しむ定信の心性をよく示しているではないか(『よしの冊子』上、三)。定信は正学として朱子学の素養を持つ幕府の官吏・役人を生み出す教育的基盤を作ろうとした。それは、中国の科挙のように身分横断的な試験でなく、すべての幕臣に必須の官吏登用試験でもなかった。たかだか及第者に家格相応の役職に就く時期を早めさせ、家督相続者でない者にとって他家との養子縁組を成功させる有利な条件を得るものであった。寛政六年から元治二年まで生れた学問吟味の及第者は、甲乙丙の三科合わせて九百五十四名であったが、落第者を含めて昌平坂学問所の稽古人となった幕臣はその数を遥かに上回った。徳川後期の江戸幕臣社会は学問吟味による選別化を通して儒学が活況を呈した時代だったのである(『徳川後期の学問と政治』)。

 学問吟味が今でも有名なのは、寛政六年(一七九四)の第二回に大田直次郎こと南畝(蜀山人)が御目見以下の御家人として甲科に首席合格したからだ。また、御目見以上の旗本では遠山金四郎景晋(かげみち)が首席であった。江戸町奉行・景元の父である。また、御目見以下の合格者には北方探検家になる近藤重蔵も入っている。南畝は第一回にも受験して良い成績を収めたが試験官の悪意によって不合格となった。戯作や狂歌で江戸期最大の有名人の一人・ねぼけ先生が吟味を受けるというので見物客が試験場に殺到したというほどだ。出題者の清助こと岡田寒泉が『史記』の伍子胥を誤って呉子胥と記した時、呉国の子胥か、楚国の子胥かと解答で論じながら清助を嘲笑ったので落ちたという説もある。しかし南畝にはこの種の悪趣味はない。すでに野口武彦氏が『蜀山残雨』で明らかにしたように、定信が妙に贔屓して聖堂の啓事を命じられた森山源五郎孝盛の南畝嫌いが災いしたのだろう。森山は「人の事をわるくいはねバ立身ハならぬと申見識のよし」と水野為長に酷評されたが(『よしの冊子』下、十九)、自分が勘定組頭になって四十八両で「終日の饗応」をした前年に、狂歌師として全盛期を迎えていた大田直次郎(南畝)が洲崎の一流料亭・望汰欄(ぼうだら)などで豪遊しまくり、その後決まって新吉原に繰り出した過去を忘れていない。そのうえ南畝その人は丁寧にも、望汰欄の「食次回」(食事会)のおそらく三の膳から成る本膳料理の献立(天明三年三月四日)を書き留めていた。

 一の膳は、御吸物(とふがらしみそ・鯖・もみ大こん・ねぎ)、御肴(とこぶし・あなごかまぼこ・蟶(まて)・小ささゐ木のめあへ・さるぼ・はまぐり)、御小皿(小川たたき・葛いり酒・わさび)、御茶わん(御飯切あへ・やきどうふ)、御香物。

 二の膳とおぼしきは、御吸物(さより・黒くわゐ・ぼう風)、御肴(鯛小付・れんこん・木のめす)、御茶わん(うすくず・こんにやく・からし)、御肴(いはる・ゆば・岩たけ・みつば)、一(白うを玉子鮨・生すし・たで)、一(豆くわい)。

 三の膳らしいのは、御吸物(うすみそ・焼満中・すぎな)、御膳(御汁・蕨)、御(五種ほど不分)、御飯、御烹物(むしり鯛・菜筍・麩)、御焼物(もろあじ 木子ヲユキサシ鯖ノゴトクシタル也・半ぺんうま焼 田楽ノゴトク青串ニサス)、御香物(二種ほど不分)。

 折詰にする焼き物や引き物もここに入っていたかもしれない。あるいは招待した主人が主人だけに折詰は別に用意しただろうと想像をめぐらすのも楽しい(『一話一言』5、巻三十九、『日本随筆大成』別巻5所収)。

 望汰欄の豪遊などに南畝を毎週のように招いたパトロンは、田沼の失脚で唯一死罪となった勘定組頭・土山宗次郎孝之である。定信や森山が忘れる男ではない。森山はやや粘着質だったのかもしれない。彼によれば、儒学者は学問吟味で人物人柄よりも成績を重視するが、「実学」で苦労して人柄も慎み深く真面目に勤めに出ている者に、低い点しかつけないと不満気である。儒学者は、勤め人が自分の見識を出すあまり学問の根拠を疑うというのだ。要するに、森山は林大学頭や「三助」に批判的なのである。南畝と比べると冴えない自分の随筆での辛辣な寸評も、大田直次郎こと南畝をあてこするとしか思えない。「血気放蕩のやからは、不敵なる根情にまかせて、きのふまで浄瑠璃三味線に心耳をこらしたる者が、四五十日が内に、そこら講釈を聞覚えて、試学に出るやから多し」。そして師の言うことを一字一句も違えずに記憶して書くからいつも上の成績をとる、と(『蜑(あま)の焼藻(たくも)の記』)。しかし森山は、大田南畝がすでに狂歌の道を捨てた事実を知らないわけがない。南畝の幼年時からの和漢の教養と文芸の素養は、森山が嫉妬から競争心を抱くようなレベルでないが、面白くなかったに違いない。鈴木健一氏の教示によれば、天明二年二月、田沼意次の部下の土山宗次郎に招かれた時に平然と漢詩を詠んでいる。首聯は「望汰欄前、万里の流れ。紅亭、麗日(うららかな陽光)、意悠々たり」で始まり、続いて「偶々仙侶に陪して余暇を偸み 更に賢人に対して百憂を散ず」とある。仙人仲間と一緒に休日を味わい、そのうえ賢人とも会って多くの憂いも晴れたというのだ。この賢人が土山を指すことは言うまでもない(『南畝集(抄)』、『新日本古典文学大系』84所収)。

 森山の妨害をかわして南畝は、二回目の学問吟味に四十六歳で晴れて合格した。それでも、彼は将軍行列最後尾を警固する御徒のままである。ようやく支配勘定に登用されるのは、四十八歳になってからだ。とはいえ森山には南畝に優位を感じる世界があった。それは役職昇進のテンポが南畝をはるかに引き離すほど早かったことだ。文筆家・芸術家としての定信なら南畝を見る眼に少し余裕があったかもしれない。しかし、老中として彼は狂歌師や戯作家の前歴を持つ御家人を評価するはずもないのだ。それが定信という人物なのである。

 「詩は詩仏書は米庵に狂歌俺芸者小万に料理八百膳」という狂歌は南畝が詠んだらしい。市河米庵は幕末三筆の一人だが、この大窪詩仏が江戸夏の花火を詠みこんだ漢詩の尾聯に次のような表現がある。

 夜深戯罷人帰去  夜深けて戯罷(ぎや)み 人帰り去れば
 両岸蕭疎烟淡遮  両岸蕭疎(しょうそ)として 烟(けむり)淡く遮(さえぎ)る


 夜もふけて花火が終わり見物客も帰ってしまえば、川の両岸にいた人の姿もちらほら見えるばかりで寂しくなり、花火の煙だけが薄く一面を覆っているというのだろう(鈴木健一『日本漢詩への招待』)。「烟花戯(はなび)」と題した詩仏の漢詩は、歓楽が終わって揺曳する寂寥感や虚無感を描くことで、芸術とそのぐるりの知友と訣別し吏道に専念しようとする南畝の心中をまるで映し出すかのようだ。支配勘定として大坂銅座や長崎御勘定方に転勤する大田直次郎には、大坂の上田秋成との出会い、長崎でのロシア使節レザノフとの遭遇が待ち受けている。

(了)
★次回に続く。


■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。
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