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西川美和 ハコウマに乗って14 まつりのおわり

まつりのおわり

またオリンピックか。困るんだ、こうしょっちゅうやられては。私はウィンタースポーツに精通してはいないし、大会前にはまともに選手の名前も出てこない程度の視聴者だ。運営側も誘致する国もコロナとともにいかがわしさを露呈し、爽やかさとは程遠いイベントに成り果てた。にもかかわらず、始まってしまえば猫にマタタビ。テレワーク推進も相まって、平日朝からテレビの前に座り込む始末。何でも観る。観てはその競技ごとの面白さに没入し、「ここでトリプルコーク1440フオーティーンフォーティかあ~」などと通ぶって悦に入る。手に汗握り、自律神経が狂うほど興奮し、夜中に全ての中継が終わった頃にはぐったりして机に向かう気力も失っている。「勇気を与えられた」はずなのに、いま目の当たりにしたアスリートの万分の一も頑張らずに寝る。お前はばかか、と自分でも思う。

しかし五輪を観ているほとんどの日本人はこんなものだろう。だからアスリートに国を背負っているような感じを出されると、なんだかすごく居心地が悪い。彼らは何か勘違いをしているのではないか、とすら思う。確かにスポンサーやチームスタッフの期待は大きいだろうし、熱心なサポーターもいるだろう。結果を出せなければ、支援してくれた身近な人たちの苦労が報われない。それに対していたたまれない気持ちになるのは良くわかる。けれども、スポーツは彼らが好きで始めて、好きで続けていることだ。負けたって、私たちの暮らしが脅かされたり、国土を取られるわけじゃない。多くの国民は、「うわーっ!」と頭を抱えてがっかりしても、翌朝には普段通り会社に行ったり、家事をしたり、また性懲りもなく別の競技の中継を観始める。勝利の物語は爽快だが、スポーツに限っては敗北の記憶もまた、時を経るごとに味わいが深まったりもするものだ。だからなんの心配もいらない。

けれど、そんな慰めもおそらく彼らには響かないだろう。彼らが国を背負っているように感じてしまうのは、五輪への国家や政治の関与、それに連なる指導者からの圧力、メディアや一般人による執拗な口出しなどが原因だろうが、一方で「何か巨大なものを背負っている」と思い込むことは、人間の原動力にもなるからだ。普通の人間は、外圧がなければほとんど何もなし得ない。私にしても、締切りがなければこの2ページの原稿すら書けない。『文藝春秋』に連載を持ってるんだ! という喜びに突き動かされているのではなく、「編集者に待たれてる……」という焦りが私を机につかせるわけだ。トップアスリートの中には、本来抱えなくても良いはずの重圧を自ら身に引き寄せ、極限的な緊張や悲壮なヒロイズムをも自分の物語にし、パワーにしていく心理もあるのかもしれない。

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