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寂聴と晴美(下)男はいけにえ 下重暁子

芸術的創造のために捧げられた男たち。彼女の子宮には「蛇」が潜んでいた。/文・下重暁子(作家)

★(上)を読む。

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下重氏

若いボーイフレンドに囲まれて

ここで恋多きおんなとして名を馳せ、愛に忠実に生きた宇野千代さんと瀬戸内寂聴さんという2人の作家の生き方を比べてみたいと思う。

私は青山にお住まいの宇野千代さんのお宅に何度か行っている。最初は仕事で、何かの番組のインタビューだったに違いない。私の住まいが都心の広尾で青山のお宅には車で十分もかからない。

その後、着物が好きな私のために、御自分のデザインした着物を着てもらいたいと言われて伺うと、巾広の横縞いっぱいに桜の花弁が散っている綸子の生地。華やかというより散り際のピンクが白と混じり合ったそのくすんだ色が気に入った。「花筏はないかだ」という言葉があるが、散った桜が水面に群れをなし、もう一度生き返ったような柄だったので、即座に決めた。もう1枚、白地に薄墨色の格子柄と、2枚を求めることにした。

もちろん宇野千代デザインである。作家と同時に着物デザイナーであり、スタイルという雑誌も一時出版されていた。すでに90歳近かったと思う。肌はつややか、きちんと着物をきこなし、若いボーイフレンドに囲まれているのもなるほどとうなずけた。

毎日新聞の連載コラム「生きて行く私」には近況が綴られ、「私、何だか死なないような気がするんですよ」というセリフも別に不自然ではなく、「さもありなん」と、読んだ瞬間、思わず微笑が漏れた。男女関係の華やかさも天然で、心の求めるままにサバサバした調子で無理がなかった。

寂聴さんが宇野千代さんと対談した時のこと。宇野さんは、

「同時に何人愛したっていいんです。寝る時はひとりひとりですからね」「男と女のことは、所詮オス・メス、動物のことですよ。それを昇華してすばらしい愛にするのは、ごく稀な選ばれた人にしか訪れない」

と話す。

寂聴さんの場合には、つとめてつとめて、出家という形までとることによって、心の安定を得ることができたと言っていい。

確かに得度したあとの寂聴さんは、はた目にも突き抜けた明るさと快活さを取り戻したように見えた。それ以外の、時として感じることがあるイライラした様子や御本人も認める怒りっぽさは消えていた。出家という場は寂聴さんにはなくてはならぬものだったのだろう。宇野千代さんのように自然体でいるには余りに真面目で神経が細かすぎた。

瀬戸内寂聴99歳。宇野千代98歳。最後に書いたのが、「残された日々」と「生きて行く私」。宇野さんのほうがのどかな感じがする。

寂聴さんは、残された日々をどう過ごすかを真剣に考えて平和運動に、困っている人、悩んでいる人、自分を必要としている人達のために何かをしたい、しなければならないと、法話を続け、愛の大切さについて語っている。私も代々木公園での集会で寂聴さんの演説を直接聞いている。

お二人の資質の違いといえばそれまでだが、宇野千代さんが亡くなった時の葬儀の席の弔辞で、私はそれを確認することになる。

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瀬戸内寂聴

弔辞で明かした「やりました」

1996年6月29日。

宇野千代さんの通夜・密葬は桐ヶ谷斎場、葬儀・お別れの会は青山斎場で執り行われた。私は長年秘書をつとめていた藤江さんから、ぜひ葬儀の席に座って欲しいと言われ、その言に従った。正面に宇野千代さんの大きな写真が飾られ、祭壇の両側には宇野さんデザインの豪華な桜の振袖が飾られていた。その演出は宇野さんの若い友人、京都の龍村美術織物の息子でNHKのプロデューサーをやめて映画監督として独立した龍村仁さんがつとめていた。

弔辞を読むために法衣姿の寂聴さんがマイクの前に立った。

「宇野千代先生 お通夜に拝んだお顔はまるで観音様のように美しく崇高で、しかもこよなくはなやかでいらっしゃいました。望ましい死顔で死にたいとおっしゃっていられたように、最后の最後まで、先生はご自分の願いのすべてを果たされて逝かれました」

と始まり、やがて宇野さんとのエピソードが語られた。

宇野さんと寂聴さんが対談をした中で、「何でもお聞きなさい」と言われて、それまで噂のあった男性のことを名前をあげて聞いたことがある。

「尾崎士郎さんとは?」

「やりました」

「北原武夫さんは?」

「やりました」

「東郷青児さん?」

「やりました」

あと数人の名が上がっただろうか。ためらうことなく率直な答えが戻ってきたという。

私は仰天した。

宇野千代さんの答えは、いかにも宇野さんらしく単刀直入、それでいて見事に真実を語っている。

そして、それを弔辞として目の前で語る瀬戸内寂聴さん! それは感動に近かった。

なぜならそのエピソードがいちばん作家・宇野千代の人間性を表わしていたからだ。

それを語る寂聴さん自身もなんと正直で率直な!

「ねたッ」

今回、この原稿を書くにあたって、あの日の弔辞が活字として残っていないかどうか探してみた。私の探した限りでは発見できなかったが、私の耳があの日確かに聞いたことと、その時の感動は確かである。

のちに寂聴さんの弔辞として活字になったものには、そのエピソードは無かった。気を遣って省かれたのか? そのかわりに「宇野千代さん95歳の仰天人生」という記事が『わたしの宇野千代』(中央公論社)に収録されているのを発見した。

東京・日本橋高島屋の「宇野千代展」での講演(1992年4月2日)に、似た話がある。そこには寂聴さんが宇野さんに1人1人男性の名をあげて聞いたことが記されている。

ただしここでは「やりました」ではなく、宇野さんの言葉は「ねたッ」になっていて、より直截である。

私には真似ができないが、なんと清々しい会話だろう。寂聴さんが感激し、正直に宇野さんという人間を弔辞で伝えたいその思いが伝わってきた。

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宇野千代と「いけにえ」の北原武夫

岡本かの子が愛した「西洋蝋燭のような男」

宇野千代さんの評伝はないが、寂聴さんは田村俊子をはじめ、『かの子撩乱』の岡本かの子や『美は乱調にあり』の伊藤野枝など多くの評伝を書いている。

その中で私が愛読したのが『かの子撩乱』である。評伝が面白くなるかどうかは、主人公によって決まってしまう。岡本かの子の狂気を含む天才性は、題材を選んだ時点で作品の出来を決定した。

寂聴さんは岡本かの子の生き方に憧れ、まるで作品の男たちと同様に、かの子観音を崇めている。

子供のように無邪気な自然なままの魔性、いつも自分の欲しいものは手に入るまでねだるその正直さ。

主人公に惚れなければ、評伝は成立しない。

「岡本かの子という人は『40になったら根に還る』と言いました。根というのはルーツね。これはどういうことかというと、自分が今まで生きたことをずっと振り返りなさいということ。自分はいったい何者だろう、どこから来てどこへ行くんだろう……」(『愛に始まり、愛に終わる 瀬戸内寂聴108の言葉』宝島社)

岡本かの子の一生は、あくなき自分自身への興味から、私の言葉でいえば「自分を掘る」、自分の心の奥にひそんでいる自分自身を知ることだった。自分に正直に、それを芸術に結び付けて作品を書いていく態度は、ときに我が儘に見えたり自分勝手ととられかねないが、岡本かの子という人の神秘性のある魅力は、周りの人を取り込み、許してしまう。

夫である岡本一平は、それをすべて許す。長い間の夫婦の葛藤の末に。

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