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小説「観月 KANGETSU」#39 麻生幾

第39話
ストーカー(2)

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※本連載は第39話です。最初から読む方はこちら。

 涼は、メール画面を見せた上で事情を説明した。

「分かった。オレが手配しちゃる。お前はなんかなし熊坂洋平みていろ」

 涼から事情を聞いた正木はそう言って駆けだした。

別府総合病院

 それから2時間後、七海は、別府市内の救急外来の処置室のベッドの上にいた。

 半身だけを起こしていたが、右足の甲(こう)が酷く痛かった。

「骨折も靱帯(じんたい)の損傷ものう(無い)、足ん捻挫(ねんざ)だけで済んだんは幸運としか言いようがねえちゃ」

 年配の制服警察官が心配そうな表情で声をかけた。

「今回んごつ(のように)、5段も階段転がったら、もし打ち所が悪けりゃ命を落とすことも考えらるるけんね」

 そう言った若い制服警察官が七海の傍らにしゃがみ込んだ。

「あなたを突き落とした、そん田辺智之ちゅう男の自宅の住所は知りませんか?」

 若い警察官がメモ帳を片手にして聞いた。

「いえ、私は……。大学事務局に聞いて頂ければ……」

「わかりました」

 若い警察官は立ち上がった。

「やんがち(まもなく)、別府中央署から捜査員が来る。あらためて、調書を作成することになりますので」

 年配の警察官はそう言って無線の連絡を始めながら処置室を出て行った。

「これ、事件になるんですか?」

 七海が恐る恐る若い警察官に聞いた。

「ええ、もちろん。殺人未遂の容疑になる可能性もあるんやけん」

 若い警察官が言った。

「殺人未遂……」

 七海は驚愕の表情を浮かべた。

「しばらくは、病院の前で、パトカーで警戒しちょんけんご安心を」

「あの……」

 七海は出て行こうとする若い警察官に声を掛けた。

「なんか?」

「捜査員の方が来らるると仰いましたが、それは刑事課からですか?」

「恐らく……」

 若い警察官は怪訝な表情を向けた。

「お名前は?」

 七海が訊いた。

「いや、そこまではわしには──。後はよろしいか?」

 七海はぎこちなく頷いた。

「では」

 若い警察官は機敏な動きで処置室を後にした。

 大きく息を吐き出し、ベッドに頭を戻した七海は、その時のことをもう一度、思い出そうとした。

 しかし、余りよくは覚えていない、というのが正直なところだった。

 誰かがぶつかってきたことで階段を滑り落ちていったことだけは鮮明に覚えている。

 だが、さっきは警察官たちにそうは言ってみたものの、それが本当に田辺かどうか、はっきりと見たわけではないことに今更ながら気づいた。

 可能性としては、あの時、あそこにいたのは田辺だけなので、疑う余地はない、というしかないのだが……。

 それにしても……。

 田辺が、やはりストーカーであり、5日前に自分を襲おうとしたのもやはり彼だったとは……。

 七海の頭の中でもう一つの記憶が蘇った。

 大学の屋上で襲いかかってきた時の、あの凄まじいまでの醜い形相──。

 恐怖に苛(さいな)まれた七海は歯を食い縛った。

 その時、脳裡に父の姿とその言葉が浮かんだ。

 それは、自分が小学1年生で、自転車の補助輪を外した後、練習で膝を擦り剥いて泣きべそをかいた時のことだ。

〈七海ちゃん、どげえ辛えことがあってん、こげな風に歯を食いしばる。そう奥歯にぎゅっと力ぅ入れるんちゃ。そうそう。そうすりゃ、痛みもすぐに消ゆるけん〉

──こんな状況に負けてはいけん!

 ショックで、心的トラウマなんて、自分には関係がない!

──空から父が見守っちょってくれちょん。

(続く)
★第40話を読む。

■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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