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美しい味|中野信子「脳と美意識」

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※本連載は第44回です。最初から読む方はこちら。

 ある珈琲店を営んでいた方が、お店の入っていた建物が建て替えになるので閉店した。その後、移転して新しくお店を開くことはなく、折々に彼の淹れる珈琲を飲めるイベント、というのをやっているのみである。著名人たちが足繁く通い、書籍化もされ、伝説的なお店にすでになっているのだから、新しく店を構えればさらに集客が見込めるのに、と多くの人が思っていたのではないだろうか。経済合理性には適わない選択かもしれない。

 新しく開店しないのはなぜかを問われて、彼は、何もしないということをしてみたい、と語っている。

 なるほど、こういう人でなければ、淹れられない味があるのだ、と思った。そこに集う人々も、それを味わいに来ているのだ。

 自分の心の声を聴くことのできる人は、年々、少なくなっているのかもしれない。「何もしない」を悠々と選択し、心行くまで味わえるとは、なんという贅沢だろう。こんな風に自分の心の奥底から湧いてくる思いを大切にできる人は、どれほどいるのだろう。

 入ってくる雑多な情報がうるさすぎて、自分の声を聴く前に、目先の損得について過剰に煽られ、心を不必要に波立たせられて、一杯のコーヒーをゆっくり味わうことも難しい、そんな社会になってしまったのかもしれない。コロナ禍よりずっと前に閉店はされているのだけれど、もしそんな世相を敏感に読み取っていらしたのだとすれば、この人の心の眼は、どれほど鋭いのかと改めて驚かされてしまう。

 高値で取引される素晴らしいコーヒーですとラベルを貼りさえすれば、そのラベルの情報だけで味わうことができてしまうような、コーヒーが好きだと自称しながら本当はコーヒーなんか全然好きじゃない、「コーヒーが好きでコーヒーに詳しい自分」を愛しすぎている人だってあふれるほどいる。そういう人たちにはそういう人たちの楽しみがあり、それを否定したいとは思わないけれど、自分の「好き」を楽しむどころか把握さえしづらい時代に本当になってきているのならそれは悲しい。

 承認という認知的な作業で煽り煽られる社会がSNSという形で現出してしまったこともこれに拍車をかけているのは否めないだろう。仕方のないことではあるのだけれど、自分の「好き」が、大衆の中に渦巻く承認の嵐の中に掻き消されてしまう場面もしばしば見る。煽れば煽るほど、人々が情報の嵐の中で、溺れまいと不安になればなるほど、情報を扱って稼ぐタイプの人は儲かるわけで、やすやすと乗せられて損をしてしまう人も多いだろうと想像はつく。別にそういう人のビジネスを邪魔しようとは思わないけれど。私は誰がどんな仕事をしていようが特に何を言おうとも思わない。ただ、私がコーヒーを飲んで沈思黙考する、その時間の甘美さを奪われるのはたまらない。

■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。京都芸術大学客員教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。

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