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チャーチルの教え EU離脱は英国の叡智

文・村上政俊(同志社大学嘱託講師・元外交官)

 EU離脱に目下取り組む英国のボリス・ジョンソン首相は、ロンドン市長時代に『チャーチル・ファクター』という伝記を著している。そのジョンソン首相が、皮肉にも同書に登場するチャーチルの外孫ニコラス・ソームズ下院議員を造反の咎で保守党から追い出した。ビッグベンからほど近いチャーチル像は、ブレグジット政局をどのように見つめているだろうか。

 2次大戦直後、チャーチルは、ウェールズのリゾート地スランディドノで開かれた保守党大会の演説で、3つの輪の中心に座する英国という国家像を示した。すなわち〈イギリス連邦・大英帝国〉、〈米国などの英語世界〉、そして〈統合欧州〉である。政治外交の世界において名詞を並列させる際は、その順序が極めて重要な意味を持つ。チャーチルの演説で欧州との関係は最後に挙げられていた。「欧州合衆国」創設を語りはしたが、英国が統合欧州の単なる1メンバーに成り下がることはよしとしなかったのである。

 演説から70年。チャーチルの思いをよそに、英国と欧州との関係がかつてない程に深まってしまった。もともと欧州統合の流れは、理念に衝き動かされる形で大陸欧州で興った。ドイツの封じ込めという地政学的な思惑に、ローマ帝国の復興という歴史的ロマンも相俟って、米ソ両超大国の狭間に陥った冷戦期の大陸欧州人を駆り立てた。一方、植民地を次々に失いスエズ以東からの撤退を余儀なくされた英国も、経済的なメリットを見出していた。

 だが英国は大陸欧州と熱量までは共有していなかった。それは通貨統合に加わらなかったことからも明らかだろう。エリザベス女王の肖像があしらわれたポンドとイングランド銀行の存在は、主権の根幹部分まで譲り渡すつもりはさらさらないという決然たる意志の表れだ。

 欧州統合に対する英国の態度は、両者を隔てるドーバー海峡越しに片足だけを嫌々突っ込んでいるかのようだった。統合によるメリットが失われ主権が脅かされれば、片足をさっと抜き去ってしまう、つまりEUから離脱するであろうことは、容易に想像できた。スコットランド独立の住民投票を巡って女王が「スコットランドの人々が慎重に考えることを望む」と述べたのは、連合王国解体という主権に関わる深刻な問題だったからだ。最近出版された回顧録で当時のキャメロン首相は、女王の言葉に非常に喜んだと述懐している。対してEU離脱は下位レベルの問題に過ぎず、こちらの国民投票では女王も静観を決め込んだ。

 しかもEU離脱は欧州に完全に背を向けることを意味しない。EU離脱の国民投票後にも英国はロシアへの先制核攻撃に言及しており、欧州安全保障の大黒柱であるNATOへのコミットメントはいささかも揺らいでいない。

 そもそも「善隣外交」と「外交戦略」は別物だ。隣国との親善を図って協調関係を築くのが良いとする“信仰”は根強いが、隣国がベストパートナーであるという理論的な保証は何一つない。英国と長年その植民地だったアイルランドの関係にしてもそうだ。女王はほんの数年前に、アイルランドが独立してから初めてイギリス国王として訪問した。隣国同士が揉めるのはなにも日韓に限ったことではない。むしろ隣り合っているからこそ多くの問題を抱えるものだ。チャーチルが教えるように、世界全体を俯瞰した上で手を結ぶ相手を定めればよいのである。

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