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人間は論理よりも象徴に従ってきた 中野信子「脳と美意識」

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※本連載は第12回です。最初から読む方はこちら。

 Quarantineという言葉を、英語のニュースを読む人ならこのところ良く目にするのではないかと思う。「隔離」「検疫」という意味の単語だ。

 He was quarantined for a week with dysentery.
 彼は赤痢で 1 週間隔離された。

 というような使い方をする。
 フランス語にも同じ意味の言葉(quarantaine)がある。

 Mettre en quarantaine

 は、

(必要に応じて隔離措置をすることを含めて)検疫する

 という意味になる。

 さて、この単語quarantineの語源は、40という数字である。

 検疫というのは、感染性の病気を持っている疑いがある人やものを、感染拡大を防止するために一定期間、隔離することを指す。アメリカ疾病予防管理センター(CDC)によれば、14世紀のヨーロッパにおけるペストの大流行の際、すでに感染が広がっている土地から来た船は、ベネチア入港に際して、40日間の海上での停泊が求められたという。そして、これが、隔離制度の始まりであるそうだ。

 ただ、この40という数字は、医学的、あるいは疫学的なエビデンスをもとに決められた数字というわけではない。いわば、象徴としての数字だ。

 この数字はまず聖書に出てくるのだ。40日40夜、地上は大雨に打たれ、水は次第に増して箱舟を押し上げた……ノアの箱舟についてのくだりである。ユダヤ教の伝統では、40は待機や試練を表す。ノアは、雨が止むまで40日の間、船の中で待ったのである。

 さらに、クリスチャンにとっても40は特別な数字である。イエスは荒野の中で40日間、サタンによる試練を受けた。そして四旬節は、クリスチャンが肉を断ち、断食をする40日の期間をいう。 

 そもそも四旬という言葉が40日のことをさす。カトリック教会など西方教会においては、復活祭の46日前(四旬=40日であっても、日曜日を除いて40日を数えるので46日前からとなる)の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間がこれに当たる。ちょうど、今の時期に合致するので、なんとはなしに背筋がぞわぞわする感じを受けなくもない。

 いずれにしても、これは象徴的価値を疫学的なメリットよりも優先的に考えてしまう人間の性質を、どこか浮かび上がらせるようなエピソードのように思う。

 現在のところ、これは大幅に短縮され、隔離期間の目安は2週間とされている。ただし、ウイルスがすでに巷に溢れ出てしまっており、ウイルスに未知の部分が少なくないだけに、エビデンスのみを行動規範の軸に求めて行動すると、これはもはや二手も三手も遅れてしまいかねない。

 かえって心配性なくらいが丁度よいということなのだろうか。そうなると、エビデンスをこつこつ集めて説得しようとするよりも、インパクトのある象徴が機能することの意味は大きいだろう。

 ただし神話は、語られれば語られるほど、消費されてしまう。つまり、放置しておけば置くだけ、見えない価値が目減りしていくのだ。

 40日間という象徴的な数字を使って人間を誘導することはもはや不可能になった。キリスト教国ですら、人々は右往左往して感染を毎日拡大させているように見える。

 いま、この「象徴的数字」に代わる神話は何だろうか。おそらくは人間同士の視線から人々を自由に解放させる認知の装置が紡ぎだすものがそれなのだろうけれど。怖いと思うのは、理性が肥大したあまりに象徴性を理解できなくなり、神話を活かせなくなってしまった、いま目の当たりにしている現代社会の脆さだ。

(連載第12回)
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■中野信子(なかの・のぶこ)
脳科学者。東日本国際大学特任教授。1975年生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。医学博士。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。脳科学、認知科学の最先端の研究業績を一般向けにわかりやすく紹介することで定評がある。17年、著書『サイコパス』(文春新書)がベストセラーに。他の著書に『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)、『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)など。※この連載は隔週土曜日に配信します。
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