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出口治明の歴史解説! 日本初の「対外戦争」がもたらしたもの

歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2020年8月のテーマは、「日本と世界」です。

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※本連載は第39回です。最初から読む方はこちら

【質問1】日本は古代から大陸と頻繁に交流していたそうですね。海を渡るのも命がけだった頃に、盛んに行き来したのはなぜでしょうか?

それはもう簡単で、外国と交易をするとめちゃ儲かるからです。古代から現代まで、この原理原則は変わりありません。朝鮮半島から鉄を持ってくることで、日本では北部九州で文明が興りました。

最澄(766頃~822)と空海(774~835)は、唐へ留学して仏教を学んできました。当時の唐は、世界の最先進国です。人口は日本のおよそ10倍、1人当たりのGDPは日本の2倍以上の超大国でした。GDPは日本の20倍以上あったと推察されています。留学の結果、最澄と空海は日本に新しい仏教の考えやお経を持ち込み、それまでのお坊さんよりも圧倒的な尊敬を集めたのです。それによって1200年後の現在もみんなが名前を知っているくらいの名声を得、最高ランクの僧に位置づけられたのです。

時代はくだって、明治時代に欧米の大学に留学した人たちも、帰国すれば高い役職や地位が保証されました。いわゆる洋行帰りですね。外国で買った最先端の書物を翻訳すれば、一生食べていけるほど潤ったのです。

先進国の文物や情報は世界中で珍重され、蟻が蜜に群がるように人もお金も集まってきます。『源氏物語』や『枕草子』を読めば、いかに「唐物」が珍重されていたのかがわかります。室町時代の足利将軍のコレクション「東山御物」も同じです。日本でも、田舎の人が一度都会に滞在して帰ってきたら、何十年たとうと「さすが都会を見てきただけのことはあるわ」とリスペクトされるのと同じです。

交流が盛んだったとはいえ、海を渡って大陸へ出かけるのはやはり命がけです。それでも大儲けできるなら、果敢に海外へ飛び出す。「よっしゃ、ハイリスク・ハイリターンでいったるで」という気概を、古代から日本人は持っていたのです。そのチャレンジ精神とグローバル感覚は、いまの時代にも通用するものです。


【質問2】日本の対外戦争は「白村江の戦い」が最初だという話を聞きました。どんな戦争だったのでしょうか?

白村江の戦いは、663年に朝鮮半島で起きました。「倭(日本)+百済遺民の連合軍」vs.「唐+新羅の連合軍」の戦いです。これは当時の日本の国家戦略を象徴する戦争でした。

古代の日本で、真っ先に文明が進んだのは九州の北部地方でした。朝鮮半島の南部に鉄があり、その鉄で鍬(くわ)や鋤(すき)をつくって、農業の生産性が飛躍的に向上したからです。

鉄はタダではもらえませんから、何かと交換しなければなりません。しかし日本にはこれといった物品がないので、提供できるのは人間ぐらいでした。『魏志倭人伝』には、卑弥呼が239年に魏の皇帝に男の生口(せいこう)4人、女の生口6人を献上したと記されています。生口は奴隷のことだといわれていますが、歌や踊りなどの高度技能者だったかもしれません。とにかく人間を輸出品にしていたことは間違いないでしょう。

鉄など先進国の優れた物品との交換で日本から輸出した人間のなかで、とくに重宝がられたのは傭兵です。大陸から見たら、日本は海の向こうにある田舎です。田舎者は、野蛮でケンカが強い、というのは世界共通です。当時の日本は、極論すればスイスのような傭兵国家だったのです

朝鮮半島で傭兵が必要だったのは、三つの国に分かれて混乱していたからです。
紀元前108年から313年までは、西漢の武帝(B.C.156~B.C.87)が半島北部に設置した楽浪郡(らくろうぐん)などの監視下にあった朝鮮半島は、中国の支配下でおとなしくしていました。楽浪郡は中国という強国の出先機関ですから、勝手に国王を名乗ったり、大きい墓をつくったりしたら「あほんだら、誰に許可をもらってやってるのや」と中国にどつかれることをみんなが恐れていたのです。

ところが、中国が三国時代から晋の時代になると、中国内の混乱によって楽浪郡も衰退し、周辺国に睨みが効かなくなります。313年にはついに高句麗によって滅ぼされ、その跡地に高句麗は遷都しました。

怖い存在がなくなると、みんなが好き勝手に振る舞うようになります。高句麗、百済、新羅の三大勢力に加え、伽耶などの小国や部族国家があちこちで対立や戦争を起こします。そこに「ケンカなら任せてや」と日本は傭兵を輸出し、鉄をはじめとする朝鮮半島の物品と交換しました。「資源がない日本は、人こそが資源」はこの頃から当てはまります。

ところが、中国は隋(581~618)、唐(618~907)の時代に、再び強力な世界帝国を築きます。当然、周辺国は強い圧力を受けました。高句麗や百済では隋唐への対応方針をめぐって国内が分裂し、「あんな大きな国に逆らったらえらい目に遭わされるから、早く挨拶してきたほうがええで」という意見と、「いや、せっかくこれまで独立できたのだから、対等につき合う方法を考えよう」という意見がぶつかります。中国と隣接する高句麗や百済は切実な問題ですから、国内に激烈な争いが起きました。

そして、両国では独立派が勝利を収め軍事同盟を結びます。孤立した新羅は唐に助けを求めました。

日本も当然、その影響を受けました。昔は「大化の改新」と学校で習った645年に起こった「乙巳の変」も、おそらく隋唐世界帝国にどう対応するかという路線争いです。日本の友好国は百済でした。「唐はそのうち百済を攻めるで。そしたらどちらを応援するねん」と国内で深刻な路線対立が起こったのです。

最終的に、中大兄皇子(626~ 672)が独立派・親百済派に与したのでしょう。その一方で、653年と翌654年に遣唐使を続けて派遣したのは、情報収集はもちろんのこと大国の唐に「うちはもちろん、あなた方をリスペクトしてますよ」と態度で示そうとしたのかもしれません。

唐は660年にまず、高句麗の同盟国だった百済を海から攻めて滅ぼします。これは百済や高句麗と敵対する新羅の要請を受けたもので、新羅軍も陸から攻めました。唐と新羅に滅ぼされた百済の遺臣たちは、国家を復興しようと兵をあげます。これが白村江の戦いにつながります。

「日本+百済遺民の連合軍」は、「唐+新羅の連合軍」にボコボコにされ、百済は完全に滅びました。日本は唐に攻め込まれたら滅びてしまうとパニックに陥り、水城や山城を必死に作りはじめました。幸運なことには唐と新羅が戦争をはじめたのです。これによって時間を稼ぐことができて、持統天皇と藤原不比等が体制を立て直しました。日本という国号や天皇という称号を生み出したのがこの二人であることは、以前にもお話しした通りです。

ちなみに朝鮮半島では最大勢力だった高句麗も、668年に唐によって滅ぼされています。近くの中国に大帝国ができたとき、日本はどのように振舞うべきなのか、歴史に学ぶところは大きいと思います。

(連載第39回)
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■出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。ビジネスから歴史まで著作も多数。歴史の語り部として注目を集めている。
※この連載は、毎週木曜日に配信予定です。

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